新しい眼差しを持つ写真家が、生まれつつある。

 昨日、編集部に木村肇という若い写真家http://hajimekimura.net/が来て、昼食をはさんで4時間くらい話し込んだ。

 とても楽しい時間だった。

 彼はまだ29歳だが、写真界にこういう新しい人が出てきていることに手応えを感じた。彼は、先日、六次元でトークショーを行った岡原功祐君と一緒に、backyard project → http://www.backyard.ph/jpn/about/team.html という若い写真家達が切磋琢磨する共有の場で活動している。

 岡原君もそうだが、彼らの写真に対する取り組みに、私は非常にシンパシーを感じる。彼らは、通りすがりの風景や人を恣意的(自己本位的)に切り取って行くという撮影スタイルをとらない。

 彼らの作風はファインアートでも報道でもなく、真の意味でドキュメントと言われるものだ。敢えて”真の意味”と書く理由は、カメラのシャッターを押せば事実が写ると思って、たまたま立ち寄った場所や通りすがりに出会った出来事を撮影すればドキュメントだと勘違いしている人が多いからだ。

 そのようなスタンスで撮った”カッコイイ写真”を木村君に見せると、「表面的で浅いですね」とはっきりと言う。

 そうした写真には、何かしら雰囲気らしきもの(気配と言ってもいい)が感じられるが、それはゴマカシであると彼は思っている。自分が描きたい絵(もしくは、わかりやすいメッセージ)の中に対象を材料として放り込んでいるだけだからだ。

 彼は、人間を撮る場合、その人自身と、その生活周辺のディティールと丁寧に向き合って時間をかけて撮っていく。だから、未だフィルムで撮っている。デジタルにしない理由は、「そんなに急いて事を進める必要を感じないから」だと言う。

 確かに、便利すぎて、急ぎすぎて、見落としてしまうことはたくさんある。注意深くゆっくりと歩く事で、自分の心にも耳をすますことができ、正直に対象に向き合うこともできる。偽りをフィルムの上に定着させてしまいたくないという強い気持ち。この生真面目さこそが、写真によって歪められた人々の感性と社会を、写真によって治療するうえでもっとも大事なことだと思う。上手な写真、雰囲気のある写真、かっこいい写真、インパクトのある写真といった褒め言葉は、もはやどうでもいい。対象に対して生真面目な写真。そういうものに、もっと目を向ける必要がある。生真面目な写真を自分の視野から外し、それこそ表面をなぞったような見た目の格好良さだけを追った、都合の悪い部分は見せない映像ばかり見ていると、悲しいかな、自分の感覚が歪められていく。それがファッションや家の中の消費財を選ぶ感覚だけに影響を与えるだけならまだマシだが、就職や、将来の伴侶や、マイホーム選びなど、人生において大事なポイントにおいてさえ、その影響下に入ってしまう。物事を表面的に見て判断してしまうという感覚は、自分が対象を選び取る立場にいるように錯覚してしまうが、実は、その感覚によって自分の人生がもてあそばれてしまう。

 消費経済というのは、そのように人々の感覚を歪めてもてあそび、次々と表面的に新しい事に目移りをさせ、その結果、活性化するという仕組みになっている。自分が消費者のつもりでいても、実は自分が消費社会の餌食になって消費されることになる。

 ただ、この消費社会というものは、人間が備えている美質をうまく利用している側面もあるので、なかなかその陥穽に気づきにくい。

 変化する世界に応じて自らも新しくなることに人間は生き甲斐を感じる。その感覚があればこそ、環境変化に対応できずに絶滅してしまうことなく、適応するための方法を創りだしていくことができる。その能力は、生命として生き延びるうえでも大事なものだろう。

しかし、注意しなければならないのは、変化の本質を見誤らないことだ。表面的に変化しているように見えても本質的に変わっていないこともあるし、表面的な変化が見えにくくても、本質が変わっているケースがある。

 例えば、いくら株価が上がろうが、それが表面的な作用によるものだとすると、必ず揺り戻しがくる。また、テレビの大画面化や高画質化は、表面的な変化であり、スマートテレビの浸透でテレビが民放の番組を流す専用機械から、インターネットコンテンツをはじめ多種多様な情報の交換機に変わる時、テレビの役割が本質的に変わり、それが社会を変えていく力になる。

 表面的な変化にばかり合わせると、変化に適応しているように見えて、次第に自分を見失い、それは生命活動にとってマイナスでしかないということになる。

 表現というのは、本来は、時代の表面的な変化に合わせるものではなく、変化の本質にコミットしていくものだ。変化の本質は、大多数の関心ごとではないのですぐにビジネスになりにくいが、それは未来を先取りしている。今は、表現もビジネスの仕組みにしっかりと組み込まれているので、若い表現志望者の多くが、そちらの動向(メーカーがスポンサーの●●賞とかも)ばかり目を向けてしまう。

 木村肇君は、そうした風潮とは距離を置いたところにいる。距離を置くことで、大事なことにじっくりと時間をかけて向き合うことができる。この時代で「焦る必要はない」というのはなかなか難しい。だから彼が発表している写真集などにおいても、自分自身が行っている活動の意義を、必ずしもうまく反映できたものになっていない。自分の行っていることに対してはブレがなくても、世間に対する問い方において何が重要なのか定まっていないからだ。出版社の方が自分よりも世間のことを熟知していると謙虚な気持ちがあるために、せっかくいい仕事をしているのに、写真集作りなどにおいて、自分の意思を強く出せない若い写真家がけっこういて、出版社の主導で、世間感覚に媚びたものになりがちだ。

 結果として、それぞれの表現者が取り組んでいる活動の集積のなかにある存在の”匂い”が薄められてしまう。それこそが最も大事なものなのに。

 ”存在の匂い”と言葉で書いてしまうと、わかったようで、よくわからない感覚になるが、言葉には言葉の匂いがあるし、写真には写真の匂いがある。ニュアンスと言い換えてもいい。言葉の場合、文体を通して、写真の場合は編集によって、ニュアンスがキープされる。どちらも、結果を性急に求めすぎる”要約”になってしまうと、ニュアンスは消える。そこが大事なポイントなのだが、消費社会は、世間感覚に媚びて、その感覚の中には”わかりやすさ”も含まれる。

 木村君が、どういう部分で時代を先取りしているか。それは簡単に要約できないことだが、消費社会の中の新しさではなく、無意識に、その次に焦点をあてているということだ。

 自然を大事にする時代があって、人間主体の近代消費社会があり、人間の行うことの弊害を訴えて自然を讃歌し、自然に帰らなければいけないと主張する表現のスタイルがある。

 人間中心主義と自然主義、見た目には別のもののようだが、本質的には、自然と人間を分断しているという意味において同じだ。

 だから自然讃歌を繰り返しているだけでは、自然を無視しているのと同じで、社会は本質的に何も変わらないだろう。趣味としての自然愛好者が増えるだけで、そのことによる弊害がまた生まれる。

 木村君の写真を見て感じたことは、人間と自然の分別の垣根が消失していく感覚だ。自然は愛でる対象ではない。キレイかキタナイと分別ではかる対象でない。同様に、人間も優劣をはじめ様々な分別を超えた存在であり、ともに共通しているのは、生きて死んでいく厳粛な命のなかにあるということと、その命が、様々な分別の夾雑物を削ぎ落していった時に立ち現れる磁力があるということ。その磁力が、祈りや信心という言葉で呼ばれる感覚をうながす。そこに形として存在していないのに、存在していると感じられる微妙な感覚は、近代合理主義世界の中では迷信となるが、そういうデリケートな感覚は、私たちの日頃の生活でも、実際にはよくあることだ。使い込まれた道具から、それを使っていた人の息づかいが感じられるように。しかし、それを感じるためには、集中が必要であり、集中を疎外する雑音(心の中の雑念も含めて)が、できるだけない状況にいなければならない。それゆえ、雑念だらけの人にそれを言っても、相手にされない。

 とはいえ、時代は本質的に変化しつつある。その変化は、人間の心の中から始まっている。ロールシャハテストに喩えると、黒の部分ばかり気をとられて壷にしか見えなかった状況から、白の部分の向き合う男女像が見えかけている。そうはさせじと、黒の部分に意識を向けさせようと悪あがきをする人達の動きが激しくなってはいるが。

 新しい視点は、黒の部分の延長にあるのではなく、白黒が反転する瞬間に生じる。

 たとえば、これまでは、「物事に始まりがあり終わりがある」というように物事を見るように誘導されていたとする。それが反転して、「本質的には、始まりも終わりもない、一続きだ」という見え方が当たり前になるかもしれない。自然と人間がリアルに一つだと感じざるを得ない見え方。物の有る無しが、反転する見え方。現代的視点で、無い状態が、リアルに在るという感覚になる見え方。

 新しい表現者は、きっとそういう感覚で世界を見ているのではないか。理屈ではなく、感覚として、そう見えてしまう状態。そう見えてしまう自分の感覚に正直に表現していくと表現もそういうものになる。しかし、そのニュアンスは非常にデリケートで、思想的骨格もなく、イデオロギーにもなりにくく、曖昧模糊をしているために、その感覚にそって活動を続けることに対して、一人ぼっちだと、なかなか自信がもてず、現代社会の様々な雑音や雑念に惑わされやすくなる。

 だから、木村君が、岡原君などとともにチームを作って、場の力によって自分達の表現の方向性を確かめ合うことはとても大事だと思う。

 そして、私が作る「風の旅人」もまた、そういう場の一つとしてデリケートなニュアンスの中に潜んでいる豊穣を損なうことなく、雑音と雑念をふりまくメディア社会の情報の洪水の中に埋もれることのない、場としての強靭さ(磁場)を備えることが必要だと思う。