第1293回  The Creation Vol.2 天と地の曼荼羅

 


 年が明けてから集中的に取り組んできた「 The Creation Vol.2 天と地の曼荼羅 大山行男写真集」の全体構成とレイアウトとデザインが、ほぼできあがった。あとは、少し熟成させて、若干、写真を差し替えたり、整えたりの作業だけが残る。

 この本は、富士山の写真集というよりは、空海の「声字実相義」をベースにしたものだ。

 写真集の中に入っている「闇」をはじめとする文字は、平安時代の書の達人で三筆と言われた空海が書き残した文字から抜き出して、そのまま使っている。

 

 



 「声字実相義」では、文字と音声が、そのまま宇宙の真理を本質的に示現するものであると論じられている。

 しかし空海の説く文字と音声は、"からだ"と"声”となるひびき"と人間の"意識"がダイレクトにつながったものであり、現代人が、単なるコミュニケーションツールとして用いている言語とは、質的に異なっている。

 空海は、「いのち」の力と結びついた根源的な言語のひびきによってのみ、人は、真実の生き方に目覚めることができると説くのだけれど、現代人は、「ことば」を、それほど深いものであると意識できていない。

 この問題は、現代に限らず、過去においても起きていて、聖書の中のバビロンの塔建設の時、神の怒りに触れて言葉が乱れるのだが、これは、現代と同じ状況を示している。また、2500年前の中国の春秋戦国時代において詭弁家が跋扈したことや、同じ時代、古代ギリシャで、世界のことを分け知った顔で語るソフィストに対して、ソクラテスが、無知の知を唱えざるを得なかった時も同じだ。

 そうした状況は、人間が人工世界の中だけで生きるようになって、自然界が目に入らなくなってくると起きる。

 もともと、人間は、自然を住みかとし、その中で生きていた。自然界の”いのち”と一つながりであった人間は、自分が生きている環境世界を見回し、まず、声によって名称をつけ、それを文字にし、言語によって表現された世界を生みだした。この言語によってヒトは世界と結びついていた。

 それに対して人工物は、人間が計算して作ったものであるから、人間の理解の範疇である。だから、たとえば、列車の到着が少し遅れると、それだけで怒り出す人もいる。

 相手が自然の場合、そのように人間に都合よくはならない。だから、いくら言語で表そうとしても、言うに言われぬ領域が多く残る。

 しかし、人間が自然との距離をリアルに感じていた時、人間は、自らの知覚を総動員し、見ること・聞くこと・嗅ぐこと・味わうこと・触れること・そして考えることによって、自然界の真理に近づこうとして、届かない領域も含めて、それらのイメージ全体を声と字によって表現した。

 その声と字は、人間の知覚と意識を総動員して捉えた世界の姿だから、人間の"からだ”の根源と響きあう実態でもあった。

 まさに、言霊であった。

 しかし、メディアが人心を操るために作るキャッチフレーズや、消費財の販売や自己宣伝のためのピーアールや、相手をやりこめて優越感に浸るための武器にすぎない論説には、言霊はない。

 それでも、人間にとっての”言語”とは、いわゆる活字だけとは限らない。

 漢字が、もともとは自然物の抽象化であったように、人間は、からだと心の感覚と知力を総動員して、自然世界を抽象化する力があり、だから言語は、宗教や、芸術と同じ領域のものだ。

 この三つは、人類史の中で、おそらく同じ時に発生しているはず。それが10万年前か30万年前か、それとも100万年前かは明確ではないが。

 現在、私は大山さんとの連携で「The Creation」のシリーズを作り続けているが、もともと同じ領域のものであった言語と宗教と芸術の様相を、現代に蘇らせることが狙いであり、一般向けに、売れやすい写真集でないことは、最初からわかっている。

 第一号の、The Creation 生命の曼荼羅

https://www.kazetabi.jp/creation-%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85-1/

 は、まあ、とりあえず収支トントン。

 (現在、どんな写真集でも、赤字にならないこと自体が難しくて、多くのケースでは写真家自身の費用負担が莫大だが。)

 いずれにしろ、現代人は、言葉を消費財の一部にしてしまったが、同時に、写真という新たな手段も獲得した。

 もちろん、その写真もまた現代社会では消費財に貶められやすいが、まだ歴史の浅い写真には、表現の可能性も残されている。

 なので、その写真を用いて、本来の言語の真意に近づけようというのが、昨年から初めている「Creation」の試みだ。

 Vol.1の「生命の曼荼羅」、そして次の「天と地の曼荼羅」と、曼荼羅という言葉を冠しているのは、曼荼羅というものが、そのまま宇宙の真理を本質的に示現するもので、その”響き”が、人間の"意識"とつながったものであったからだ。しかし、1000年以上前に創造された胎蔵曼荼羅や金剛曼荼羅に描きこまれている無数の仏の図像を、現代人は、かつての人々ほど自分に引き寄せることができない。なので、そのまま仏をモチーフにしても、現代人の心は、かつての人々ほど、響かないだろう。

 なので、現代には現代の曼荼羅の創造が必要で、仏の図像ではなく、写真を用いて、現代の曼荼羅をCreationしたい。

 富士山の写真を撮っている人は無数にいる。そして、最新の高性能のカメラを使うと、素人でも、待ち受け画面にしたくなるような、それなりの美しい富士山の写真を撮ることはできる。(私も含めて)。

 しかし、それは、上に述べたような人工的環境の中で生きることに慣れた人間が、自分に都合よく処理した写真でしかない。

 富士山という自然の中に没入し、自らの知覚を総動員し、見ること・聞くこと・嗅ぐこと・味わうこと・触れること・そして考えることによって、その自然界の真理に近づこうとして、届かない領域も含めて、それらのイメージ全体を表現した富士山の写真ではない。

 そこまでの富士山の写真は、私の知るかぎり、たぶん、大山行男さんしか撮れていない。

 私は、ほぼ40年間にわたって大山さんが撮り続けた富士山の写真、この20年のあいだに、数千点以上に目を通してきた。

 風の旅人でも数回にわたって編集し、写真集に関しては、これまで2冊、編集構成を行った。そして、そのたびに、掲載写真の全てを自分で選んでいるので、その何倍もの写真を見て、選別するということを繰り返してきた。

 (大山さんという写真家は、自分の写真をセレクションすることが苦手な人(憑依するように没入しているので、客観視するのが苦手)で、それこそ、彼が撮った写真の全てを私が確認する必要がある)。

 そして、それらの写真を見る時の感覚は、単に写真を見ているのではなく、自分もまた富士山という自然の中に没入し、自らの知覚を総動員し、見ること・聞くこと・嗅ぐこと・味わうこと・触れること・そして考えることによって、その真理に近づこうとする感覚になって没頭するので、時間を忘れる。

 編集構成をする時、10時間以上続けていても、目も疲れないし、肩も凝らないし、なぜだか疲労感がまったくない。

 それほど集中力が維持するから、大山さんも驚くほど、あっという間にできてしまう。

 魂の領域での呼応関係があると、人は、どこかから大きなエネルギーを獲得できるのではないかと思う。