第1292回 大学入試の変化がもたらす未来

 2016年度から東京大学が『推薦入学』を導入し、2021年度の全国公私立大学の入学者のうち「推薦入学者」が50%を超えた。

 

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 現在の日本の行き詰まりは、教育から変わらなければどうにもならないと思っていたが、近年、その教育に大きな変化が生まれるかもしれないという兆しを、受験の変化の中に感じた。

 少子化によって、全国に無数に存在する大学の未来も厳しい状況にあるが、大学入試において推薦入学の枠が広がっている。

 これまでの大学入試は、決められた答えをどれだけたくさん正確に詰め込んでいるかの競争で、高校も義務教育も、そこに向けた教育が行われ、オリジナルの考え方など尊重されなかった。

 こうした教育は、明治維新から昭和の高度経済成長期までは有効だった。なぜなら、その時代の目標は一つであり、欧米が作り出したものを見習って、それを欧米以上に効率的に実行することが成功につながるというビジョンが明確で、それに対して集中的に努力すればよかったからだ。

 欧米人ほど”個”が確立していない日本人は、他の人と同じことをすることで安心する傾向も強いので、20世紀の価値観である規格品の大量生産と大量販売の時代に求められる特性とマッチしていた。さらに、そうした集中による成功体験があったために、その特性が強化された。

 この20年以上にわたる日本停滞の根本原因は、そうした過去の精神的構造によるものであり、エコノミスト達が口にしている”賃金”や”消費”や”投資”その他の理由は、原因ではなく、結果にすぎない。

 大学の推薦入学は、私が大学に入学した当時も存在していたが、当時は、指定校制度など高校と大学の長年の付き合いや、高校時代の先生の評価や簡単な面接だけや、スポーツの実績だけで決まるなど、学力に関しては、一般入試に比べて容易に合格できるものだったし、だから、少し見下されるようなところがあった。

 しかし、現在、この推薦入試のハードルが、かなり高くなっているようで、そのハードルの高さは、従来のハードルとは質的に異なっている。

 特に小論文の問題で、かつての小論文の問題は、従来の教育の延長上にあるものだった。

 「宣教師フランシスコ・ザビエルについて、来日の目的を50字以内で答えなさい」という類の。

 それが今では、「あなたがザビエルなら来日して布教のために具体的に何をするか、その根拠を600字以内で答えなさい」となる。

 この二つの問いに対する答えは、かなり質的に異なる。

 従来であれば、人から与えられた情報を組み合わせる能力が試されたが、現在は、知識や情報を自分に引き寄せて考えなければならない。

 「知っているだけ」だと、意味がないのだ。

 こうした受験傾向の変化は、当然ながら、義務教育など全ての教育に対して影響を与えるだろうし、家庭内での子供との接し方にも変化を与える可能性がある。

 現在、すでに、大学の「推薦入学者」が50%を超えており、10年後には、さらに増えている可能性があるのだから。

 そして、こうした新しい学習を身につけた人々が、未来の学者になっていくと、これまでの学説にも、大きな変化が生まれる可能性がある。

 たとえば、現在の学者の論文の全てとは言わないが、”引用”がとても多い。他の誰かが言っていることを元にしながら、それをうまくまとめて、論文を整えている。

 これは、メディアで重宝されている有識者や、オピニオンリーダーご意見番などと言われる人も同じで、特に欧米の学者や専門家の言っていることを頭にもってきて、それを説得力に使うという話法が非常に多い。

 ツイッターなどで多くのフォロワーを集めている人のタイムラインを覗いても、「自分の考え」などほとんどなく、リツィートばかりだったりする。いったん、どこかの”島”で、その人を「賢い人」と決めたら、その「賢い人」が振り分ける情報を追っていた方がいいと思う人が多くてフォロワーが増えて、そのフォロワーの数が、「賢い人」の権威化(もしくは商売道具)につながるという、構造的には学会と似た状況がSNSで増幅されている。

 いくらSNSが新しいツールだといっても、そうしたSNSを使っている人の大半が、古い学習の中に育ってきたからだし、その人たちの支持で拡大するため、その人たちの支持を広げるための工夫を凝らしてきたからだ。

 大きな数を狙うためには、そうするしかない。最先端は、大きな数の中に存在しない。

 先人の業績を尊重するのは悪いことではないが、先人の思考の枠を超えた思考が、新しい学習によって、未来に多く出てくる可能性がある。

 そして、新しい学習のための対策は、机上の勉強だけでは成り立たないだろう。すでに存在している多くの書物の中で、前時代において正当と評価されているものは、前時代の権威的思考による評価付けを受けたものが多い。なので、もしかしたら、前時代において”異端”とされたものの中に、未来に向けての大きなヒントが隠されている可能性があるが、それを探し当てるためには、自分が前時代の権威的正当に埋没してしまっていたら、難しくなる。

 前時代の様々な知識や情報を斜めに見ながら、自分を”現場”に投入して、先入観無しに、自分の身体と頭を使って体験的学習を行うことが必要になるが、学校教育においても、こうしたフィールドワークが増えていけば未来に期待が持てる。 

 ”現場”というのは、様々なところにあるが、なぜなんだろう?と思わずにいられない場面こそが、知を育む現場ではないだろうか。

 既にいろいろな書物で、いろいろなことが説明されているが、それらを読んでも、なぜなんだろう?という疑問が残る現場は、無数にある。自然界にも、歴史のなかにも。

 権威的な立場にある学者が言っていることを、真に受けて、「そういうものなんだ」と安易に整理しておしまいにしてしまってはいけない。

 その人たちが言っていることが、根本的に、ボタンの掛け違いを起こしている可能性があるのに、それを正しいこととして頭にインプットして、そのままアウトプットできれば「賢い人」と評価されると思っているのは、それこそ過去の遺物の発想だ。

 「飛鳥時代蘇我馬子が行ったことについて50字以内で答えなさい」ではなく、「あなたが、飛鳥時代に生きていて、蘇我馬子のような指導的立場だったならば具体的に何をするか、その根拠を600字以内で答えなさい」という問題に変われば、当時の国際情勢や、なぜ仏教なのかという問題や、穴穂部皇子殺害に背景なども、もう少し丁寧に調べて、考えざるを得ないだろう。

 そのアウトプットは、これまでの学校教育のように、過去のことを正しく知っているかどうかという評価ではなく、未来に向けるアクションとして、現在の問題に対して歴史の教訓を総動員するパッションと知力を備えているかどうかの評価ということになる。

 私は、小学校の時から高校時代まで歴史が好きで、国立大学の入試の受験科目を選択する際、「社会」で二つの選択が求められ、多くの学生が敬遠する「日本史」と「世界史」という、年号や人の名前その他、覚えなければいけないことが膨大にある二教科を選んでしまった。

 私は、歴史そのものは好きだったのに、受験において、人の名前や法令など正確な漢字を覚えなければいけなかったことや、年号を正確に記憶するのが苦痛だった。

 歴史の流れや当時の社会の構造とか、なぜそうなったのか?という歴史学習は、好奇心が刺激されて面白いのに、固有名詞や数字の詰め込みによって、歴史が嫌いになってしまった。

 おそらく、私だけでなく、学校での歴史の学習が、人物の名前や出来事や年号の記憶になって、つまらないものになってしまったという人も多いだろう。

 私は、大学を中退して世界を放浪していた時、子供の頃から興味があった古代エジプトなどの中近東の遺跡や、古代ギリシャやローマ遺跡、ヨーロッパルネッサンスなど、歴史上の舞台を好んで訪れたのだが、そうした現場の体験が、好奇心の維持につながることは間違いなかった。

 人間活動のダイナミズムの変遷は、人間の心を惹きつけて当たり前なのに、人間の歴史に対して無関心な人が多くなってしまったのは、間違いなく、歴史の学習の仕方に問題があったからだと思う。

 しかし、歴史を遠ざけてしまうことは、未来を遠ざけてしまうことと同一だ。

 過去から現在までの流れに関係なく、現在から未来への流れが生まれる筈はないのだから。

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