第924回 不登校をきっかけに? 教育が変わらざるを得ない時

 新国立競技場や東京オリンピックエンブレム問題の責任をとる形で下村大臣が辞任した後、このたびの内閣改造で、スポーツ好きの森元首相と縁の深い元プロレスラーの馳浩氏が、文部科学大臣に選ばれた。 
 馳浩氏が国会議員になる時の道を作ったのが、森元首相。新国立競技場や東京オリンピックエンブレムの問題には森元首相陰で大きく関係しているはずだが、その責任をとらないまま、森元首相は、引き続きオリンピックに対して力を維持し続けることになるのだろうか。 
 それはともかく、馳文部科学大臣が、入閣後すぐに不登校支援策などを早急に検討する旨の考えを示した。 
 また、この件と無関係ではありえないが、”世間知らず”とされる教職員に企業などによる、接客業、電話応対など、民間研修が急増中らしい。
 教育は大事なので、行政機関が税金を使って様々な試みを行おうとしていることは理解できる。しかし、行政機関が考えていることよりも、時代はずっと先を進んでいるのではないかという気がしてならない。
 私の知り合いの息子が不登校になり、学校に行かなくても家で勉強をするための方法を色々調べているうちに、それまで知らなかった新しいシステムが色々な形でできていることを知った。
 インターネットを利用したE-Learningという学習方法が、アフリカや南アジアなどの学校もなく教師の数も少ない地域で大きな効果をあげていることは以前から知っていた。それらの国で、2,3歳くらいからE-learningで学習を始めた子供が、小学校に行く年齢に達すると、周りの子供にE-learningでの学習方法を教える先生になってどんどんと新しい教育方法が普及している。そして、これまでの地域格差や経済格差による教育の格差が、E-learningによって解消されていく。
 この分野の発展はとてもめざましく、最初は教師の授業風景をビデオで撮影してDVDやインターネットで見られるようにしていたが、次々と改良されて、たとえば英単語などは、意味がわからなくて辞書引きした単語を網羅する例文が自動的に選出されて勉強できるなど、人工知能の力を借りた高度なプログラミングがなされ、学習効果が飛躍的に高められるものが出てきている。
 教科書の内容についていけない生徒を救うという程度ではなく、教科書の内容の理解や記憶は効率よくすませて、応用力、思考力、論理力、洞察力、編集力などをさらに磨きあげていくという”学び”本来の在り方が、学校教育とは別のところで急激に深まっているのだ。
 日本のように教育制度が行き渡っている国よりも、まったくないところから始める国の方が、もしかしたら旧い仕組みや過去のしがらみがない分、ストレートに本質的な学びができる可能性もある。
 それは教育分野に限らず、産業の様々な分野でも同様の事が起こっていて、ここ近年、技術革新の速度が急速に速まっているが、その恩恵を、最初から受ける国が出てくる。たとえば、最初からインターネットの高速無線や電気自動車が普及したり、リニアモーターカーよりも速くてコストも安いとされている超高速列車『ハイパーループ」が、いきなり主要な鉄道網になるかもしれない国、さらには、現代は熱帯地方の貧困国がソーラーエネルギーと電気自動車とE-Learningで、健やかな国になったりするかもしれない。
 そうした根本的な変化に無頓着なまま、教師に社会性を身につけさせるために接客業その他の実習をさせるというのは、周回遅れのランナーをたくさん作り出すだけなのではないか。
 もちろん、教師に社会経験は必要だ。とりわけ、社会経済の構造や本質、その変化などを実感として把握していないと、文部科学省などの指示通りにするしかなくなる。そして、文部科学省の官僚達が、社会経済の構造や本質、その変化を実感として把握しているとは限らない。
 将来、子供が社会に出て生計を立てていくためには、社会経済と無縁で生きられない。変化に乏しい社会ならば、社会経済の構造や本質など実感として把握していなくても、旧い仕組みの中の成功モデルを見本にするだけでもよかった。たとえば医者や弁護士になると社会的ステータスも得られるし収入も多いとか、大企業の社員や公務員になると食いっぱぐれがないとか。そうした価値体系と自分の能力と折り合えるポイントを見つけ出すことが人生設計であり、進路指導の要点でもあった。医者になれるほどの偏差値でなければ、大企業のサラリーマンを狙うとか、それよりも低ければ地方公務員を狙うとか。
 しかし、現在のように急激に社会革命が起こりつつある時代において、そうした旧い価値体系にとらわれて人生設計をすることほど空しいことはないかもしれない。努力が無駄になるという程度のことですまず、そうした偏狭な”とらわれ意識”が、可能性が無限にある人生の障害になってしまう可能性があるからだ。
 医者や弁護士や大企業の社員や地方公務員が悪いという意味ではない。そうした職務に自分なりの使命と信念を持って取り組んで素晴らしい人はたくさんいる。問題になってくるのは、従来の働き方のままでも収入およびポジションが保証されているという誤った認識に陥ってしまうことだ。どんな職業であれ、働き方が劇的に変わってくるだろう。
 教師にしても、これだけ急速にe-learning が進化してくると、教師の授業なんか受けない方がマシと思う人が増えてくる。なぜなら、E-learningなら、カリスマと言われるほど教科書の内容を教えることが得意な先生の授業を、誰でも受けることができるからだ。
 ただ教科書の内容を教えるだけの教師はいらなくなる。それは、大企業のサラリーマンでもそうだ。ブルーカラーだけでなくホワイトカラーも、優秀な外国人が増えているし、コンピューターや人工知能、ロボットなどが人間に取って変わる領域は加速度的に増えている。
 とりわけ、製造、販売サービス、流通といった雇用における主要分野で変化が著しく、正規採用か非正規採用かという議論ではすまされない問題が山積みになっている。
 法的に非正規採用に制限を設けても、おそらく、根本的な解決にはならないだろう。社会経済の在り方が根本的に変わりつつあり、その変化が、”社会革命”を引き起こしているからだ。武力革命のように瞬間的に起こる派手な変革ではなく、今起こっている革命は静かだが確実に持続的に進行している。
 さすがに社会経済と無縁でいられない企業現場では、そうした社会革命を意識せざるを得ないだろうが、教育や政治の現場では、変化が起こっていることは理解していても、これが革命だという意識は持てていないのではないか。
 従来の仕組みや価値体系の範疇で新しいことが次々と出てきているという認識にすぎないのか、新しく生まれたものによって従来の仕組みや価値体系が大きく変わり、それは、宗教革命や市民革命に等しいほどの変化であるという認識なのか。
 世界レベルで見ると、今後、豊かさの定義すら大きく変わる可能性があるのだが、従来の豊かさの定義によって色々な仕組みが築かれてしまっている国は、既得権益を得ている人達や、その仕組み以外のことをまるで想定できず変化に対して不安しか感じない大勢が障害となり、何もない国よりも変革が遅れてしまう可能性があり、その結果、それまでの優位性が消えて、あっという間に、新基準のなかで、”貧しく”なっていくかもしれない。
 自分の子供が学校で優秀な点数をとって問題なく高校から大学、そして就職へと進んでいる親は、その路線にそった情報にしか興味がなくなるが、自分の子供が不登校になった親は、必然的に色々な情報にアクセスすることになり、気づきが増える。
 私の知り合いも、息子が不登校にならなければわからなかったことがたくさんあったと、逆境を一種の恩恵ととらえて気持ちを前向きにしている。
 E-learning一つとっても、”新しい環境”は、”新しい生き方”を模索する人々にとって追い風であり、旧い仕組みの執着者にとっては自らの優位性を無化してしまう逆風だ。
 現在、進みつつある社会革命によって、生活観、人生観は、変わっていくだろう。価値観が変わり、優位性の構造が変わり、ヒエラルキーが変わると、学問や表現活動などの意義や評価軸も見直されることになるだろう。あらゆるものが再定義される時代に、私達は突入している。
 それは、中世の時代、聖書がラテン語だけで書かれ、それを読解できるカトリック教会の権威的聖職者が世の中の様々なことを定義し、その定義だけが正しいとされていた時代から、聖書がドイツ語やフランス語に翻訳され、印刷機械の発明で多くの人々が自由に読めるようになった時代へと移行した時と似たような状況にある。すなわち、情報革命が、社会革命につながる。
 中世の時代に起こった情報革命によって、聖書が誰にでも読めるようになったというのは現象にすぎず、本質的な変化は、情報の独占者の言うことを信じさせられていた人々が自分の頭で物事を考えるようになったことであり、そのことが次の時代を作っていった。つまり、17世紀になって登場したデカルトの「我、考えるゆえに我あり」という意識が、世界を再定義していったのだ。
 現在の情報革命も同じで、インターネットを通じて、これまで権威機関だけが秘密にしてきた情報もオープンになった。CIAの局員だったスノーデンの事件は象徴的だが、最近の、東京オリンピックエンブレムの問題や、企業不正の内部告発の増大など、情報が暴露されることによって体制が揺さぶられたり、一部の者に都合の良い取り決めが覆されたりするということが増えている。
 E-learningなども、旧い仕組みや下手な教師の欠点があからさまになるということで、一種の情報暴露だとも言える。
 色々なことがオープンになっていくことで、生きづらくなると感じる人もいるだろうし、どうでもいいことがはっきりして、より本質的なものに向かっていけると感じる人もいるだろう。
 もはや、どちらがいいかと議論する段階ではなくなっている。なぜなら、流れは変わらないからだ。流れが変わらないのであれば、その流れの先にあるものが何なのかを洞察しなければならず、その洞察に基づき、必要な方法を組み合わせて(編集して)、その都度、修正しながら対応していく柔軟性が求められる。
 それが、学校も家庭も含めた教育現場にもっとも必要なことなのだろうと思う。子ども達は、過去の縛りの中ではなく、流れの先を生きていくのだから。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*「風の旅人だより」にご登録いただきますと、ブログ更新のお知らせ、イベント情報、写真家、作家情報などをお送りします。 「風の旅人だより」登録→

風の旅人 復刊第6号<第50号> 「時の文(あや) 〜不易流行〜」 オンラインで発売中!

Image

鬼海弘雄さんの新写真集「TOKYO VIEW」も予約受付中です。

 


 風の旅人 第50号の販売は、現在、ホームページで受け付けています。http://www.kazetabi.jp/