第923回 インターネットでは得られない感覚

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 今はインターネットで色々な情報が得られると思われている。インターネットで色々な情報を得るための道具や、ウェブ上のサイトは数限りなくある。それらの情報を暇つぶしで見たり、お役立ち情報として見たり、ビジネス上のヒントとして見たり、人によって色々だろうが、それらの情報のなかで、3年後や5年後でも自分の記憶に残り続けるものが、果たしてどれだけあるのだろうか。色々なヒントを得られるということにおいて、インターネット上の情報は貴重だし、そこから色々なアイデアを発展させることもできるし、自分もまたそうしてきた。
 これだけインターネット上に情報があるので、情報に関してはそれで十分だと錯覚しそうになるけれど、本を手にとって読む時の感覚は、やはりまったく別のものだ。
 とりわけ長くて密度の濃い文章は、ネットでは読み切れない。(ただ長いだけなら読めるのだけど)
 写真に関しては、「いいね!」という程度の感覚のものはネットでも十分だが、写真の世界に没入してしまうほどのものは、ネットでは不十分だ。文章にしても写真にしても、ネット上のもので十分のものと、ネットでは削ぎ落とされてしまうものが、確かにある。その違いが、自分が生きていくうえで、どういうところに関わってくるのか。インターネットの情報だけに頼って生きていると、インターネットが削ぎ落としてしまっているものに気づかないから、その削ぎ落とされたものによって自分の人生のどの部分に欠落が生じるのか気づくことはできない。
 それは、毎日ファミレスやコンビニ弁当で濃い味付けものを食べ続けているうちに、素材そのものの微妙な味覚がわからなくなって、それでも毎日お腹を満たすことができるからそれでいいじゃないかと思ってしまっている状態に近いのかもしれない。
 それが当たり前になると、自分の中の何が蝕まれているか、気づけなくなる。
 身体面でも精神面においても、不健康というのは、不調であるということではなく、歪みに気づかないことや、調整能力がないことだと思う。生きているかぎり、生存環境も刻一刻と変化するわけで、その変化に応じて、誰でもバイオリズムの変化がある。その都度、何かしらの歪みや変調が生じることは自然なことで、その変調を察して自律的に調整する力が生命体には備わっている。これはとても高度で総合的な力であり、生命はその力の恩恵を受けることで、持続可能な存在になっている。
 人間にとって情報というのは、生存環境そのものであるとも言え、情報の変化によって、その都度、自らのなかに歪みや変調が生じているはずで、そのことにすぐに気づいて自律的に調整する力が蝕まれていないかどうか、気にかける必要がある。
 毎日、ファミレスやコンビニ弁当で濃い味付けの物ばかり食べていると、繊細な味覚が蝕まれることは間違いなく、ネット上の情報も、それに近いものがあるかもしれない。そういう自分の状態を客観視するためにも、時折、新鮮な素材そのものを丸ごと味わう必要がある。
 言葉や写真も、きっと同じなのだ。
 東京の根津に、本好きのあいだではよく知られているが、磨きのかかった品揃えで評判の往来堂書店がある。その店主が、12年前、風の旅人の創刊号が出た時に評してくれた言葉がある。
「この雑誌を見た時、圧倒されてしまった。加工食品に慣れた舌がいきなり丸かじりで素材の味を味わえと言われて戸惑うような」(往来堂店主)


 この言葉は、インターネットの普及が著しいなか、あえて雑誌という紙媒体を通じて私が実現したかったことなので、その後、50号まで続けてくるうえで心の支えになった。
 風の旅人 最新号(50号) →http://www.kazetabi.jp/
  




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