第922回 不登校をきっかけに? 対人恐怖症の自分を客観視する。

 知り合いの息子の不登校の原因の一つが、対人恐怖症だ。人の中に入っていけないという症状なのだが、健康な人は、対人恐怖症になっている人の感覚がわからないから、単純に、「あの人は、人が苦手」、「人見知りが激しい」、「臆病なだけ」、「勇気がない」と決めつけてしまい、「誰でもそうだけどみんな頑張っている」とか、「あなたの気持ち次第」、「努力次第だよ」と言ってしまう。
 しかし、たとえば高所恐怖症とか閉所恐怖症の人ならわかるだろうが、恐怖症の症状は、”気持ち次第”とか、”自分を奮い立たせて頑張る”とか、そういうことができる状況ではないのだ。
 私は高所恐怖症だ。高い場所で、ガラス壁に囲まれていると大丈夫だが、そうでないと足がすくんでしまい、両手両足で這いつくばってしまう。15年くらい前、自分の高度恐怖症を克服しようと決心して、バリ島に行った時にバンジージャンプに挑戦したことがあった。
 下から見上げている時は、みんなが平気な顔をして飛び込んでいるのを見て、自分でもできそうな気がした。台の下にはプールがあるし、足はロープで縛られている。失敗しても死ぬことはない。大丈夫だ。そう思ってプールの横に設置されている階段を登り始めたら、突然、気分が悪くなって、途中から足が硬直して前に進めなくなった。仕方なしに、四つん這いになって階段を上ったものの、最上段に辿り着くと身体が金縛りにあったように動かない。
 勇気を出せと自分に言い聞かせてもどうしようもない。でも、高所恐怖症を克服したいので、その状態で足にロープをつけてもらい、飛び込み台のところまで這っていき、下を見ずに、そのまま身を投げ出すようにして落っこちた。他の人は、飛び込み台のところにしっかりと立って、下を覗き込み、「すごいすごい」とはしゃぎながら、誇らしげに両手を上空に掲げ、かっこよく飛びこんでいたのに比べると、なんとも無様な姿だった。
 私は、本当は小心者かもしれないが、自分のことを臆病だとは思っていない。海外の秘境地域をけっこう訪れたし、海外でヒッチハイクもした。
 そういう状況では、怖いという意識があっても、なんとか頑張ろうという意識で対抗できる。逃げようとする意識と、逃げまいとする意識の闘いをして、逃げないという意識が勝つことがあれば、負けることもある。しかし、高所の場合は、身体が自分のものではなくなっているから、意識の勝負の場にすら立てない。
 なぜ身体がそこまですくんでしまうのか。自分では原因がわからない。ずっと昔に、高いところで味わった恐怖を身体(脳)が忘れられないのではないかと振り返ってみても、その記憶がない。意識ではなく、無意識の領域に何かが記憶されているのだろう。
 一つだけ想い出すことができるのは、小学校の1,2年の頃、鉄棒から落ちたのではないかと思われる”事件”があったことだ。その時は気を失っていたので詳しくは覚えていない。覚えているのは、朝早く学校に行ったら好きな女の子が一人だけ教室の中にいて、突然、私の手をひいて運動場に遊びに行こうと誘われた。そして鉄棒のところに行った。彼女は、逆上がりとかを次々と決めていた。私は、鉄棒の上にヒョイと座った、ところまでは覚えている。そしてしばらくの間、空白があり、私が、既に授業が始まっている教室に入っていった光景と、私を鉄棒に誘った女の子が、強ばった顔で私の方をじっと見ていたことを覚えている。
 その時は何が起きたのかわからなかったが、かなり年数が経ってから、あの時、私は後ろ向きに鉄棒から落ちて後頭部を地面に打ち付けて気を失っていたのではないか。それを見た私の好きな女の子は驚いてしまい、誰にも助けを呼ぶことができず教室に戻ってしまったのではないか。見捨てられた私は、しばらく経ってから意識を取り戻し、ぼんやりとしたまま教室に戻ったのではないか、と思うようになった。
 この事件と私の高所恐怖症と関係があるかどうかわからない。仮にあったとしても、身体の深いところに記憶された何かが私を羽交い締めにするので、意識によって、それを取り払うことができない。私は、対人恐怖症になったことがないから正確にはわからないが、対人恐怖症とか閉所恐怖症の人も、私の高所恐怖症と同じように、自分ではどうしようもない状況にあるのではないかと思うのだ。
 高所恐怖症の場合は、高いところを避けていればいいが、対人恐怖症で学校や仕事に行けない人は、そういうわけにはいかない。サーカスの団員や鳶職の人が、ある日、突然、高所恐怖症になってしまい、それでも職場に行かなければならないとしたら、どんなに辛いことだろう。
 対人恐怖症になる原因は、人によって違うだろうが、本人の意識の問題ではない状態だということを知ったうえで、対人恐怖症の子供と接する必要があると思う。
 しかし、だからといって、子供に対して、「無理しなくていいよ」と言うだけでも、強制的に学校に行かせて先生にお任せするわけにもいかない。学校に行くか行かないかが問題なのではなく、本人も辛い思いをしている対人恐怖症をどうやって克服するかを、本人と一緒に考え、実践していくことが必要なのだろう。
 私の知り合いは、不登校の息子と色々な対話を重ねて、その結果、息子は、どうやら自分が対人恐怖症であるということを認識した。それまでは、自分に何が起こっているのかわからなかったのだ。しかし対人恐怖症であることがわかっても、その原因を見つけて、原因を取り除けば解決できるかといえば、そうではない。なぜなら、対人恐怖症という症状は、上にも述べたとおり、意識の力によって解決できる問題ではないからだ。高所恐怖症の人が、高所恐怖症の原因を突き止めても治らないのと同じなのだ。
 そのことを理解している私の知り合いは息子に話をした。対人恐怖症は、性格の癖みたいなものだと。性格が悪いとか良いとかではなく、野球のバッティングでスランプに陥っている時のように、フォームに悪い癖がついているのだと。少し前までは野球に夢中になっていて、大怪我になって練習ができなくなり、色々と辛いことを重ねて対人恐怖症に陥っている息子は、怪我が治っても野球チームに合流できない状態だったが、野球の例え話は、実感としてよく理解できた。
 以前はボールを上手に打てていたのに、突然、バットにボールが当たらなくなったのは、知らず知らずフォームが崩れているからであり、対人恐怖症も、それと似たようなものなのだという認識。
 息子は父親に問うた。「どうすれば、性格の癖を治すことができる?」と。「崩れたバッティングフォームを意識的に修正しようとしても治らないのと同じで、基本に戻って一つひとつ点検していくしかない。自分のフォームを自分の目で確認しながら素振りを繰り返すしかない」。と父親は答えた。 
 性格の癖の修正も、ルーチンワークが必要だ。できるだけ邪念が生じないような毎日決まったルーチンワーク。たとえば、朝のラジオ体操。朝と夜、100回の素振り。ジョギング。何か一つ決めて、やり続けることで、性格の癖の修正を少しはできるかもしれない。すると、息子は言った。もし自分がコーチになって、対人恐怖症の自分にアドバイスをするとどのようにアドバイスするか考えてみると。ルーチンワークも含めて、何をするのが一番いいのかを。
 そういう風に考えて始めてから、その息子は、苦悩を抱えながらも学校に行くようになった。対人恐怖症は治ったわけではないが、「人のことを気にしないようにすると、よけいに気にするから、人のことが気になっても、まあいいっかと思った方がいい。そう思うしかない」などと呟きながら。
 内面の苦悩は変わらないが、苦悩している自分の中に埋没してしまうのではなく、苦悩している自分を少し客観視できるようになったことが、まず最初の大きな変化なのかもしれない。 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*「風の旅人だより」にご登録いただきますと、ブログ更新のお知らせ、イベント情報、写真家、作家情報などをお送りします。 「風の旅人だより」登録→

風の旅人 復刊第6号<第50号> 「時の文(あや) 〜不易流行〜」 オンラインで発売中!

Image

鬼海弘雄さんの新写真集「TOKYO VIEW」も予約受付中です。

 


 風の旅人 第50号の販売は、現在、ホームページで受け付けています。http://www.kazetabi.jp/