愛や道徳や倫理について

”愛”ということについて考える時、20歳の頃に見た映画「楢山節考」(今村昌平監督)をイメージする。

 25年も前に一度見ただけなので、自分のなかでストーリが別のものに形作られてしまっているかもしれないが、おおよその内容はこのようなものであった。

 一家の長男がようやく嫁をめとった時、それまで家事を切り盛りしていた年老いた母が喜び、自分で自分の歯を砕いて、家族の前でニタニタと笑っていた。歯を砕いた理由は、充分な食べ物のない状況で、家族のなかで役割を終えたと自覚する自分が食事をしないようにする意志決定であった。その日から、何も食べない母は少しずつ衰えていき、死の時期が近づいたことを覚ると、息子に、自分を姨捨山に連れていくことを促した。息子は躊躇したが、母の意志は固かった。そして息子は、年老いた母を背負い、山に登っていった。

 山の懐深くで、”その場所”に辿り着いた時、母は息子に自分を残して下山するように命じる。しかし、息子は、再び母を連れて家に戻ろうと抵抗した。そのことを厳しく咎める母。息子は泣きながら、何度も何度も後を振り返っていた。母は降りしきる雪のなかで静かに座禅を組み瞑想に耽る。その凛とした表情が、とても美しい。

 その傍らでは、他の家の親子が、争っていた。親が息子の足元にしがみついて、「捨てないでくれえ」と泣きわめく。しかし息子は、鬱陶しいとばかりに親を足蹴にして、せいせいした顔で、スタスタと下山していった。

 姥捨て山について、親を捨てるという悲劇ばかりが強調されていたが、私がこの映画から受け取ったメッセージは、そういうものではなかった。

 ちょうど自分の母親が死の直前まで働き重度の肺炎で亡くなった後であり、この映画の主人公の母親と自分の母が記憶のなかで重なり合って自分独自の物語を作りだし、その記憶をもとに、その後の自分の思考の方向性ができてしまった可能性がある。

 だから、私の考えは、あくまでも私個人の経験に基づく「個人の意見」である。

 そのことを前提に述べるけれど、現在の社会を見渡す時、官僚の天下りをはじめとする問題など、私には「官僚特有の問題」というより、「お年寄りの執着」と目にうつる。

 先だっての高野連の問題をはじめ社会問題についての様々な有識者会議のメンバーを見ても、頭の固そうなお年寄りがズラリと並び、「勉学のできる生徒の優待はOKだが、スポーツはダメだ」などと、あまりにも偏狭な決定を下し、強要する。

 政治もそうだ。お年寄りたちが長年かけて獲得してきた様々な権益への執着が凄まじい。テレビや新聞をはじめとするメディアの世界でも、年寄りがなかなか引退せず、大きな顔で権勢をふるっている。企業や官僚社会では、お年寄りが”人事権”を握っているものだから、この”人事権”に縛られて、その下の層が萎縮している。ある程度、仕事経験もできて、これからという時期の30代、40代の人たちは、家のローンをはじめ様々な負担があるから、どうしても”人事権”の前に弱くなり、言いたいことが言えず、お年寄りの顔色をうかがうはめになる。

 今の日本社会で一番大切なことは、お年寄りの、次の世代に対する本当の意味での”愛”だろう。

 しかし、実際には、”愛”という言葉が、自分への自制につながらず、自分の欲求を正当化することにつながることの方が多い。他者を愛しているといいながら、実は、自分を守ろうとしていることが多い。 

 「きみのことを愛していて心配だから、いろいろ言ったり、してあげているのだ。なぜそれがわからんのだ」という口ぶりで。しかし、そうした論理で正当化される愛は、自己都合的なものが多い。だから、見返りがないと怒る。「こんなにきみのことを大切に思って、いろいろやっているのだから、自分のことも大切にしてくれよ」などとなる。

 そういう老人は、組織などで人事権や金銭など様々な権益を失うと、周りから相手にされなくなる。だからよけいに、相手にしがみつく。もしかしたら家族のなかでも同じかもしれない。しがみつかれる方は、愛ではなく、我慢して付き合う。我慢ができなくなると、苛立って、足蹴にするかもしれない。それをひどいというのは簡単だが、そもそも、人を見返りなく愛することができていないから、見返りなく愛されないだけかもしれない。 

 見返りのない愛などというと、綺麗事に聞こえるかもしれない。しかし、相手からの愛を求めるばかりに一生懸命になっていると、自分がだんだん醜くなる。醜くなれば、いくら相手から愛されたいと思っても、それが難しくなる。

 相手からの愛を求めるのではなく、相手から愛されるに値する自分であるかどうか考える余地のある人は、相手がどうであれ、自分にできることを一生懸命にやろうとするだろうし、自分の既得権に執着もしないだろう。

 お年寄りにとっての既得権は、何も、企業や官僚のなかでの権力にかぎらない。「長い間、家族のため、みんなのためにやってきたのだから、晩年を楽に生きさせてもらう権利がある」という考えもまた、既得権だと私は思う。顧問とか名誉職という形で組織に居座るだけで報酬を受け取る者の発想も、それとあまり変わらない。

 今朝の新聞で、文部科学相の諮問機関・中央教育審議会山崎正和会長が、倫理教育や道徳教育について「学校制度の中でやるのは無理がある。道徳教育は、いらない」と、授業で教えることに否定的な見解を示したそうだ。

 山崎氏は「人の物を盗んではいけないかは教えられても、本当に倫理の根底に届くような事柄は学校制度になじまない」と話し、安易な道徳強化論にくぎを刺した。

 また、山崎氏は「歴史教育もやめるべきだ。わが国の歴史はかくかくしかじかであると国家が決めるべきではない」とも指摘した。

 私は、この考えに賛成で、道徳も倫理も歴史も言うに言われぬものであるから、国家がつくる規格品の教育ではなく、やはり「親」が状況に応じて行っていくべきものだと思う。歴史は難しくて親の手に負えないからと投げ出すのではなく、親自身が、歴史を自分ごととして引きつけて地道に学んでいくことを何よりも最初にはじめ、その姿を子供に示さなければならないのではないか。自分はもう学校にいかないから歴史の勉強は必要ない、子供だけやっておけばいい、という怠惰で無責任な態度が、大きな誤りにつながりそうな予感がある。

 現在、「道徳」とか「倫理」とか「歴史」の教育を、国家的に強化すると、その要に、当然ながら、国に対する「愛」が入り込んでくる。そして、その内容を決定していくのは、お年寄りになる可能性が高い。お年寄りの「愛」に対する認識が、教育に反映されるのだ。

 そのお年寄りが、自分の既得権に執着せず潔く後世に道を譲れる人ならいいが、姥捨て山で息子の足にしがみつく自己執着型であると、お年寄りの自己執着に都合の良い決定となり、それに乗じた莫大な自己執着が次から次へと若い人たちの上にのしかかってきて、若い人たちは、窒息させられてしまうことになる。

 どれだけのお年寄りが、そのことに気付き、自覚的であるかが、一番の問題だと思う。


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