悲劇を伝えることの「正しさ」について

 

 先の戦争の沖縄の悲劇を題材にしたドキュメント映画の試写を見た。

 実際に悲劇を経験した人達が語り続けるというシンプルな内容で、監督も、いろいろ試行錯誤したけれど最終的にシンプルにいこうと決心して、そのような構成にしたということだった。

 語り手達が記憶を蘇らせながら語る内容の生々しさは、あまりにも痛切で、胸に応えた。戦争の愚かさというものが身にしみた。戦争を経験したことのない私の身体にも、その辛さとか痛みとかが何らかの形で記憶化された。

 しかし、試写会に参加している人が、映画のなかの語り手達の話しに合わせて、涙ぐみながら、うんうんと頷いている様子などが目に入ってくると、どうしても違和感を感じずにはいられなかった。

 この違和感はいったい何だろう。

 「こうした悲劇を語り継いでいくことの大切さ」を否定しようというのではない。

 語り手のなかには、自分だけが生き残ったことの不思議を思い、使命のために生き残されたと考え、先の戦争の悲劇を語り伝えていくことを生き甲斐にしている人もいる。

 そして、その人たちは、もちろん思い出すのは辛いことなのだけど、その時のことを、経験したことのある人にしかわからないリアリティで描写し、伝える。下手な脚本よりは、よほど説得力がある。

 しかし天の邪鬼な私は、この「説得力」がどうしても気になってしかたないのだ。

 おそらく、こうした映画で伝えようとするメッセージは、意義の申し立てができないほど、正しい。そして強い説得力を獲得することで、正しさは、考える余地がないほどに強化される。

 でも、その正しさは、こうした映画を見る以前からある程度は自分のなかに線引きをされている概念だから、映画を見た後に自分の価値観が強く揺さぶられたり、ひっくり返されるわけでもない。

 「そうね、そうね、本当にそうだよね」と、自らが知っている正しさとなじむところで共感納得するか、そうした自己完結型納得に対して、「自分が共感納得したところで、しかたがないじゃないか!」と反発を覚えるかしかない。

 「そうね、そうね、本当にそうだよね」と、自己完結型納得に至ってしまうと、その瞬間から、自分の正しい足場はより確固たるものになる。「この世は、正しい陣営と間違った陣営があって、自分は正しい陣営にいるけれど、間違った陣営にいる人が愚かなことを考えて行動しようとしている、それを阻止しなければならない」という発想になる。

 私は、そうした正しさのヒロイズムが、どうも生理的に納得いかない天の邪鬼なのだ。

 極限状態に追い込まれると、人間は感覚が麻痺する。人間の心理は巧みにできていて、どんなに辛い状況でも生きていくことが苦痛にならないように、麻酔が出る。後悔とか自己憐憫も、自己陶酔に転化しやすい。その種の麻酔が出ている状態に対して、自覚的である人と、そうでない人がいる。

 恐いのは、知らず知らず、その麻痺感覚に入り込んでいくことなのだ。麻痺感覚に入り込んでいくと、自分の正しさが常に正当化される。そして、その正しさから少しズレているものに対して、仲間じゃないという感じの憎悪の目を向ける。自分の正しさを少しでも疑わないその目に、私は違和感を覚えるのだ。

 意義の申し立てをされにくい正しいフォーマットのなかで正しさを主張することは、そんなに難しいことではない。先の戦争のメカニズムも、実は同じところにあるのではないか。自分が行っていることを悪だと自覚しながら戦争を始める人はいないだろう。

 この時代において、”反戦”などをテーマに表現を行うのであれば、ものごとを「優劣」や「正誤」や「善悪」など一面的な観念で安易に判断し合理的に処理しようとする動きのなかにある不吉さや胡散臭ささ(大事なものを殺ぎ落とし、時には戦争など破壊活動に至る)に対して警戒し、その陥穽にはまらない術を示すことではないだろうか。

 自分が信じている「正誤」とか「善悪」とか「優劣」を疑う余地をどこかに残しておかないと、その表現は、強権に近い性質を持ち、戦争に似た陥穽にはまることになる。

 このドキュメント映画のエンディングで、生き残った証言者が、「あの悲劇を語り続けていくことが自分の生き甲斐だ」と語った。エンディングにこのエピソードをもってきたのは、それが監督の心の反映でもあるからだろう。

 人間だから、生きていく上で「生き甲斐」が必要であり、「悲劇の伝達」を生き甲斐にすることを全て否定するつもりはない。しかし、心のどこかに、「他人の悲劇」を「自分の生き甲斐」にしている後ろめたさがなければ、その表現のなかで用いられる他人の悲劇は、自分の思想やビジョンを正当化し強化する材料に成り下がってしまう。

 この映画のなかで、悲劇の生存者が感情をこめながら語る声は、悲痛なほど胸に響きわたり、それだけで全身が覆い尽くされる。それが強ければ強いほど、メッセージの正当性も強くなる。

 しかし、この悲劇に関するメッセージは、そうした一面性だけでいいのだろうか。

 生き残って、自分の身に降り注いだ悲劇を証言できる人もいる。しかし、それと同等に、もしかしたらそれ以上に、生存しながら未だ証言できない数十人の人たちの、声にならない声のことを、想像する余地が必要なのではないかと私は思う。

 辛すぎて証言できないのだろうと片づけるのではなく、その人たちの心に間違いなく存在する声にならない声が、いったいどこに向かって、誰に向かって発せられているのか。なぜ、この世の人々に対しては、沈黙しているのか。

 悲劇を語る声になっている声の”情感”は、この世の人々の憐憫の気持ちを誘うが、沈黙している人は、死んだ仲間達と同化しており、この世の人間の都合とは無関係のところにある。その声にならない声は、緩い感傷のつけ込む隙を与えず、この世を生きていくうえで自分には寛大になりがちな人間を刺し貫く怖さを秘めている。


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