世界の厚みと、今年のテーマ

  年末にエントリーをした「国家と責任」に対して、ブログ上でコメントをいただき、そのことについていろいろ考えたことと、今日の東京新聞紙上の鷲田清一さんと内田樹さんの対談が重なりあい、今年の私のテーマにつながってくるように感じた。

 改めて思ったことは、「風の旅人」は世の中で正しいとされることを伝えるのではなく、どんな情報であれ、それじたい単独で単純に絶対的に正しいものはないということを前提に、世界や物事や人と人との関係などの微妙な綾を、ていねいにすくいとって積み重ねていくスタンスを大切にしたいということだ。

 世界も人間も重層的で、複雑で、その厚み全体を通して考えようとしなければ見落とすことは多い。

 「国の機能不全」、「地球温暖化対策」、「戦争反対」、「原発反対」といった大きな言葉で語られることは、正論だから反対しずらく、それを主張する人もまたそのことがわかっているから、何の後ろめたさもないという強気の態度で、バックグラウンドの異なる見知らぬ相手に対しても、それを強く主張する傾向にある。

 そして、自分では“問題”に対して、積極的な態度をとっていると信じており、その“問題”の原因の一部が少しでも自分にあるという認識は、あまりない。

 現在、巷には無数の雑誌があるから、それぞれのことを取り上げて論じてもしかたがないのだけど、最近見た「クーリエ・ジャポン」という雑誌のスタンスが、私にはとても気になった。

 「地球を救う50人の挑戦」というタイトルで、環境問題ビジネスなどに取り組む人たちが紹介されている。なかには、表面的には正しいと言われることが多いけれど、背後に深刻な問題を孕んでいるバイオエタノールなどもある。その中身の吟味はともかく、「地球を救う・・・」のタイトルの上に、小さく、「米タイム誌が選んだ」と書いてある。つまりこれは、タイムの記事を、右から左に流しているだけなのだ。

 「情報」というものは、それが作られる“場”とか、伝えられる“場”と関係において、情報記号化されていない部分の文脈も読み取りながら、判断すべきものだと思う。タイムにはタイムとしてのカラーがある。雑誌としての歴史とか、一冊の雑誌のなかの他の記事の特徴などを通じて、読む側は、「タイムだからそう書くのだろう」という含みで、それを受け取る。そうした“場”から、丸ごと記事編集を抜き出してきてコピーし、クーリエ・ジャポンの記事のようにも見える方法(レイアウトなどは変えているだろうから)で発表するというのは、なんとも無責任な態度だなあと思う。もちろん、巷には無責任なものはいっぱいあるのだけど、無責任だとわかりやすいものは見る側が用心するが、こうした「正しい主張」のなかの胡散臭さに気づく人がどれだけいるだろうか。

 情報は、いくら客観的な立場をとっていても、作り手側のバイアスがかかっている。商業誌であるならば、なおさらのことだ。「タイム」には「タイム」の、経済的、政治的事情がある。

 情報は、その言葉だけで完結するものではなく、発信者の置かれている状態に影響を受ける。そういう意味で、情報は、社会性を誇示しているようなものも、発信者側の個人的な事情を反映したものであると醒めた目で見ることが大事だと思う。

 私も含めて、自分の頭のなかにある正しいと思うことは、実はとても個人的なものなのだけど、共通語という社会的な言葉を使って考えているから、どこかで社会的なものだと思っている。しかし、その共通語で指し示しているものが、たとえ同じ言葉を使っているとしても相手側と同一であるという保証はない。同じ表記だから同一だと思ってしまう人は、頭のなかの言葉が、自分の外のどこであっても自分が意図するように通用すると思い、また通用させたいと思って、行動する。そうしたスタンスは、決して社会的なものではなく個人的なものなのだけど、本人はそれに気づきにくい。

 言葉における本来の社会性というのは、言っていることの社会的正しいさとか社会的意義ではなく、相手とコミュニケーションを成立させるということだ。そして、言葉が伝えることの価値というのは、言葉それじたいで独立して存在するのではなく、言葉の発信者と受けて側の二者間で相補的に整えられることなのだと思う。

 相手が自分とは違う言葉の使い方をしても、「うん、それわかる」とか、「ちょっとちがうな、でもそれって、こういうこと?」「きみがそう言いたいのは、ああ、そういうことがあるからだね」とかいう相互の感覚を重ねて、互いのなかの個人的なものが、他者と共有される。それが、言葉の社会性なのだろうと思う。

 こうした言葉の社会性を実現させるためには、使う言葉の正確さ以前の問題として、相手のバックグラウンドに思いをはせ、それを理解しようとする態度が大事だろうと思う。なぜこの人はこういう風に考えるのだろうか?と。それを思うことなく、自分の頭のなかにある自分にとって正しいことを発信するだけでは、コミュニケーションは成立しない。つまりそういう言葉の使い方は、いくら自分が社会的に正しいと思うことであっても、社会的でない。

 言っていることの社会的正しさよりも、その本人のスタンスの社会性の方がよほど大事で、それを見失って語られるものは、どんなに立派そうなことでも全て個人的なことにすぎない。だから、言っていることよりも、その個人がどういう人で、どういう思考をする人で、どういうことを行っているかがポイントなのだ。

 そうした個人のバックグラウンドが十分に感じられるように言葉を発信したり、表現したりすること。つまり、言っている(表現している)ことが正しいとか間違っているとか新しいとか古いとかの分別はどうでもよく、その人自身の思考の軌跡が、十分に感じられるかどうか。

 それがあってはじめて、他者は、その人の内実に出会えて、相互関係が結べる。出会いのない社会性はない。だから、言葉を発信する(表現する)側は、自分の言葉に社会性を見いだしたいと思うならば、最低限、自分の思考の軌跡が反映された自分の文体でそれを行おうことを心がけるしかないだろう。

 新聞などに代表される今日のメディアの正しい主張というのは、書いている人の思考の過程がまったくといっていいほど出ておらず、コミュニケーションの成立を最初から拒んでいるようなところがある。正しいことを教えてやる、我々の知っていることを教えてやる、というスタンスで、物事を切り取る際のその人自身の思考の過程など見せず、切り取ったものだけを投げ出してくる。

 そういう言葉の使い方がご立派そうな顔で流布しているので、疑うことなく、それを真似する人が多くなる。

 自分の思考を積み重ねて、自分でつくることから始めなければ、何も変わらない。批判だけというのは、誰かがものごとを作ることを待っているという受動的な態度であり、それを作り出す責任が自分にあるとは思っていない。支配者と被支配者という構図を想定して、支配者を批判するというのは、自分の頭で思考せず、誰かから借りてきた言葉だけでできてしまう。

 誰でも言えること、誰かから借りてきたような言葉(表現)ばかりが氾濫すると、一人一人の思考の過程など無視されて、記号(明文化された言葉)に賛成か反対か、従うか従わないかだけが問われかねない。一人一人は、いかに効率よく、間違いなく管理できるかという対象物となり、そのスタンスの延長に、国民背番号化というアイデアが出てくるのだろう。

 正しさというものは、常に相対的なものだけど、たとえば「安全、安心」などという言葉は絶対的な価値となりやすい。だから、それに賛成か反対かと問われると、なかなか反対できなくなる。その結果、安全、安心という大義名分の下に全てが管理される。国に対する批判を繰り返しながら、実は、自分たちが、そういう状態のための準備を着々と進めている。

 善悪二言論に元ずく正しい主張を、大上段から一方的に放つのではなく、世界の様々な関係の濃淡をていねいに彩色していき、世界や人間界の奥行のある全体像を浮かび上がらせること。そして、その多層な場のなかで、自分が何に対して、どのように当事者責任を持っていて、それについてどう行動していくのかを、個人的なことだと弁えた上で考えて表すること。そのうえで、その個人的なことと、他者とのあいだに相互関係を見いだし、自分が気づいていなかった世界の見え方を発見し、さらに表し、世界の厚みに寄与していくこと。それを、今年の「風の旅人」のテーマとしたい。