国家と責任

 薬害C型肝炎集団訴訟において、福田首相の政治的決断によって、薬害肝炎の被害者に補償する「一律救済法案」と、再発防止のための「肝炎対策基本法案」の成立が目指されることになった。

 その際、この薬害における「国の責任」を明記することを被害者は求め、民主党に強く働きかけている。二大政党のうち一方が「国の責任」に対して慎重な態度をとり、もう一方が、国の責任を認めるということに対して積極的な態度をとるということだろうか。

 異なる見解を持つグループが、議論を尽くすことにより、それぞれの側の考え方における問題点などをじっくりと検討することは必要だろうと思う。

 しかし、この議論が、単純に自民党民主党の議論にすぎないものであれば、あまり意味がない。国の予算運営に対して当事者責任を持たない野党の時には国の責任を認めるが、与党になって苦しい財政事情に直面すると、国の責任に対して慎重になるということもあるだろうから。

 「国の責任」というものの、厚生労働省の役人や与党政治家が、身銭をきって責任をとってくれるわけではない。

 年金問題にしてもそうだけど、現在、問題解決に向けて努力しなければならない大臣たちの公約などをめぐる責任問題がメディアなどで取り上げられるが、社会保険庁の杜撰な仕事そのものに対する責任追及の姿勢はあまり強くない。社会保険庁の職員の給与を下げるとか、退職金を返金させるとかということが、本来の責任の取り方なのだろうけれど、なぜかそうした追求はしずらい雰囲気がある。「社会保険庁」というのは一種の記号であるから、それを批判することは容易いが、直接一人一人の個人が相手になると、生身の人間の弱さがリアルに感じられて、批判の対象になりにくくなる。

 それは、自分もまた生身の人間として不完全で弱さを抱えた存在であることを、一人一人が自覚しているからでもあるだろう。

 薬害補償を求めて闘っている人たちは、生身の自分自身をさらけ出している。その闘いの相手が、その被害を作り出した生身の当事者であるならば、話し合い方も、まったく異なるものになるような気がする。

 相手も人間だし、完全なことができるはずがない。完全であるという保証はないけれど、それを使う方がよりベターだという判断で、それを使った。でも失敗した。失敗したことによって、ダメージを受けた。そのダメージの責任を相手にとってもらいたい。でも、相手も同じ人間だし、悪意があってそうしたわけではない・・・、そうした激しい葛藤のなかから、「赦し」という気持ちも芽生えるかもしれない。その「赦し」が、被害によって失われたものとは別の何かを、その人に与えるかもしれない。わからないけれど、そういうことは、人間同士の関係においては、起こることがある。

 しかし、闘う相手が生身の人間ではなく、「国家」という記号的な存在になってしまう時、相手に完全を求めてしまう。だからその失敗においては、完全に責任をとってもらいたいという気持ちになる。少しの妥協もできず、闘いに勝利することが目的となる。

 救済と責任を求める相手は、「国家」という記号ではなく、実際は、「国民一人一人」だ。

 私たちは、社会とか国家とか現実とか、抽象的な相手と闘い、闘いながら、いろいろなことを記号化して、その記号に未来を従属させ、自分の可能性を少しずつ制約していく傾向にある。国家責任を求めるということは、実は、自分の税金で責任をとることであり、さらに、自分に制約を課すということでもあることを忘れてはならないだろう。

 それでいいかどうか葛藤したうえで国家責任という言葉を使わなければ、言葉ばかりが一人歩きする。

 予測不可能で、曖昧なことを極端に不安視して、それを無くすことを国に求め続けているうちに、その国の一員である自分自身が、その責任を負わなければいけなくなるのだ。

 そうした思考が進むと、国民の安全を守ること=北朝鮮への制裁=他国の侵略に対する備え=国家責任という論理に覆われてしまう可能性だってある。

 実際の自分たちの生身の人生の多くは、一つ一つ異なる生身の存在を相手にして、常に予測不可能で、不完全で、それだからこそ自分の側の対応方法も不断に変化していき、その自分の変化を自分で予測ができず、その連続によって自分を常に新しくしていける可能性に満ちている。

 不謹慎な言い方かもしれないが、「国」を相手に闘っている人たちも、明文化されて責任が固定されてしまう前の、不確実で、不完全な状態の時の方が、もしかしたら活き活きと生きていられるかもしれない。

 私は、被害にあった人たちが、救済を受けることに対しては、必要な措置だと思うけれど、国の責任を明記するということに対しては、疑問がある。国の責任が明記されていなかったから、過去の薬害が起きたとは思えないからだ。私は、日本社会の仕組みの多くにおいて、一つ一つの枠のなかでは、それぞれが自分の責任をとるのだけど、枠の外のことについては無責任であり、それらの横のつながりの無さに問題があるのだと思っている。だから、明文化して何かを固定すればするほど、責任の線引きが強くなり、状況に応じた対応が上手くできなくなる。結果として、問題が起こっているのに、対応が遅くなり、被害が拡大する。

 国家や社会というものが確固たる実態であるかのように錯覚しているが、実際は、予測不可能で、不完全で、流動的な一人一人の生の寄せ集めなのだ。

 そうした不完全な流動性に対応できる有機的な仕組みづくりの方が、固定した明文化よりも大事なことだと思う。そちらの方に考えが向かないと、一人一人の人生もまた、社会や国家が明文化する枠組みに従属させられるようになっていく気がして、その方が、耐えられないなあと思う。