今朝の新聞の一面に大きく、「介護養成校入学13%減」、「低い待遇、景気回復で流出」「コムスンで拍車も」というタイトルが踊り、第10面でも「学生の介護離れ」「見返り少ない」「待遇改善、待ったなし」というコピーと関連記事が掲載されていた。
こういうのを読むと、ほんと新聞社の記者というのは傲慢だなあと思う。
コムスン問題の時は、会社として不正があったとはいえ、現場で働くスタッフのほとんどがとても真面目にきっちりとした仕事をしているのにかかわらず、そこで働くことに後ろめたい気持ちになるような報道を繰り返したあげく、このたび介護職で働く人が減少している現実に対して、コムスン問題が影響していると無責任に言い放つ。
そして、それだけでなく、「介護という仕事は給与の安い3K職場」だと大々的に伝えて、この職を目指す人たちの気持ちを萎えさせる。「景気が悪い時、仕方なく安い給料で仕事がきつい介護関係に進んだ生徒が、景気回復でそっぽをむき始めた」とか、「要求されるものが多い割りに、見返りが少なすぎる」等、自分の意見ではなく、いつもの手だが、そういうふうに言っている人がいるというスタンスで記事を書く。いずれにしろ、介護の仕事をしている人たちが、友人や親戚などから、「3Kで、給与が安くて悲惨だね」という固定観念で見られてしまい、自分の仕事に自信を持てなくなり、肩身が狭くなるかもしれないし、もしかしたらそうした固定観念で結婚などにおいても支障が出るかもしれないということに、何の配慮も見せない。
そして、新聞社は、正義の味方ぶって、「早期の対策が必要」とまとめる。
この程度の記事を平気で伝える人達が介護現場で働く人たちより高給取りなのは、仕事内容に対する正当な見返りを得ているというより、単に広告収入が大きいからだ。広告収入がなければ、テレビ局や新聞社の人間も3K労働だろう。実際に、テレビなどの制作プロダクションは、そうなのだから。
私は、介護現場で働いている人たちと接する機会が多いけれど、「見返りが少ない」という不平を言う人の方が少ない。金銭的なものにしか価値を置けない人は、不満かもしれないが、それ以上に、精神的に充実しているという人は多い。
介護の仕事を3K職場だという言い方は、ひどい冒涜だと思う。そこで働いている本人がそう思うのはかってだが、他人が偉そうに言うことではないだろう。そういう言い方には、くだらない優越意識を感じてしまう。
介護を3k職場という言い方は、その仕事に携わる人達を冒涜するだけでなく、介護を必要とする人達そのものを、「汚い、きつい、危険」の元凶だと言っているようなものだということが、わからないのだろうか。
確かに、介護職の人の給与は新聞社で働く人よりは少ないかもしれない。そうなってしまうのは、介護報酬が、保険で決まっているからだ。どんなに良いサービスをしても、料金は一律である。そうした制度のなかで報酬も決まってしまう。全体を底上げするためには、保険金をあげるしかない。つまり、国民一人一人の負担をあげなくてはならないということだ。
新聞社は、国民一人一人の危機を煽るために、介護職が給与が安くて悲惨であることを伝えているのかもしれないが、そういう発想はあまりにも安直だ。
介護の重要性や有り難みは、介護が必要な当人やその家族しか実感としてわからない。その人たちが、介護職の人たちによってどれだけ救われているかをきちんと伝え、その有り難みの気持ちとして、また受けているサービスへの見返りとして、もう少し報酬を上げて欲しいという気持ちになり、その気持ちを伝えることが大事だと思う。
介護現場の精神的な豊かさをごっそりと殺ぎ落として「3K」でくくり、「3k」だから、人が逃げる、だから対策が必要だという言い方では、仮にそれによって待遇が改善されても、周りからは、「3K」職場だから、給与がちょっと上がったのね、という目でしか見られなくなってしまう。そういうことで、働くことの尊厳が与えられるのだろうか。
私のアイデアは、少し安易かもしれないけれど、介護現場に広告がつくことだ。
新聞社やテレビ局の社員が高給取りなのは、広告があるからであって、その広告収入の一部が介護現場に流れればいいと思う。
多くの企業は、新聞や雑誌やテレビにワンパターンの広告を流し、莫大な金額を投下しており、そのコストは、新聞社や出版社やテレビ局を潤わし、商品価格に反映されるだけで、社会的には何の貢献にもならない。
訪問介護は、車で自宅を訪問する。その種の介護車が無数にある。デイサービスなどの介護施設もそうだ。トヨタなど多額の利益を生み出している企業が、その莫大な広告費の一部を、介護車の車体広告として支出する等のプランはないのだろうか。