「正しさ」の前に萎縮した社会

 企業の不祥事が連日のように報道される。賞味期限、偽造、介護現場の不正請求等・・・・・。こうした報道を目にすると、私たちはとんでもない時代に生きているように思わされてしまう。しかし、実際には日本国内に無数の企業があり、その多くは誠実な仕事を積み重ねている。どちらかというと、誠実すぎるくらいに。

 しかし、最近、幾つかの企業を相手に仕事をしていると、「正しさ」に対して、あまりにも神経質になっていて、その萎縮ぶりの方が気になるくらいだ。

 国民を代表するという大義名分で、メディアの多くは、企業の不祥事があるたびに、国の監督責任を問う。そして、国(お役所)は、重箱の隅をつつくように企業を管理しようとする。本質的に大事なことならまだいいのだが、形式的なところで、つまらないルールをつくる。そのお役所を刺激したくないからと、企業のサラリーマンはつまらないところで萎縮している。

 例えば、介護において新しく制度化された「小規模多機能」というサービスがある。これは、25名という上限を設けて、在宅とデイサービスやショートステイなどを結びつけて24時間の介護体制を築くもので、とても良いサービス内容だ。しかし、それを運営する企業にとっては優秀な人材を常に多数確保しておかなけらばばならないことや、損益分岐点が高いわりには25名という小規模の制限があるなど、リスクとエネルギー投下が大きいわりにリターンを得にくく、この分野に進出するにあたって二の足を踏んでしまう。

 しかし、特別養護老人ホームの定員数が限界に達していたり、病院のベッド数の不足から治療の終わった高齢者が強制的に追い出されているにもかかわらず在宅での受け入れが難しい状況のなかで、この「小規模多機能サービス」を発展させていくことは、とても必要なことだと私は思っている。

 まだ新しい制度ということもあって、多くの人がこのサービスの内容を知らない。介護現場で働くケアマネジャーのなかでも、しっかりと認識できている人がいないくらいだ。 先日、この現場を取材し、そのサービス内容を撮影したり、紹介したりした。

 たまたま、取材時に医師が来ており、高齢者の様態を確認していた。介護度の高い人たちが多いのだから、そういうことがあって当然だし、必要なことだと思った。

 そして、その写真を掲載したのだが、企業の担当者が、「その写真を掲載しないように」と言ってきた。

 その理由は、医師の訪問は、小規模多機能のサービス内容に含まれておらず、緊急時にのみ呼ぶことが可能だからだと言う。

 ならば、写真の下に、「緊急時に、医師を呼べますので安心です」とキャプションを入れればいいではないかと反論したが、「お役所に睨まれたくないので」とバカなことを言う。

 つまり、小規模多機能サービスでは、「医師の定期的な往診」というサービスはない。だから、「医師」との関係を見せる写真はいけないと考えているのだ。しかし、私の考えは違っていて、高齢者が一人きりで自分の家で暮らしていると、様態が悪化した時に、それこそ医師を呼ぶことができない事態になる。定期的な往診がサービスにあるかないかではなく、自分の状態が悪くなった時(つまり自分では状況判断できなくなる時)、それに対応してくれる他者がいることが大事だと思うのだ。だから、そういうことは、このサービスの良さを広めるために、きちんと説明すべきだと抵抗したのだが、担当者は「リスクを負いたくない」のだ。

 こうした場合、判断する担当者は本社の社員で、大学を出て、介護現場で働かず、現場の空気をよくわからないまま働いている。だから、頭のなかだけで物事をあれこれ計算する。介護現場で働いたことのないお役所が、世間体だけを気にして口だしするのと同じ構造なのだ。

 「正しいか、正しくないか」という判断が、自分の生身の経験から生じていない。間違いないようにやっているつもりだが、その正しさの基準は自分のなかから生じたものではなく、あくまでも世間的なもの(周りの雰囲気)だ。

 私は、むしろこのように周りの雰囲気のなかで正しさを決めていく傾向が、不祥事につながるのだと思っている。「みんながそうしているから」という逃げ口上で。

 自分でやっていることに対して、本当の意味で矜持というものがあれば、ある局面では、お役所や社内の人間と喧嘩するべきだと思う。喧嘩することが、自分の言葉に対する責任につながることもあるだろう。

 そして、会社や役所規模の大きな流れとして不正に流れている時、その流れに乗るか乗らないかは、「世間の正しさ」ではなく、「自らの矜持」が決定するのではないか。

 「正しさ」の前に萎縮して、その長いものに巻かれて自分の言動に責任を持たないようにする集団の「正しさ」が歪み始めると、その修正を内部の自律性で行うことは、とても難しいだろう。もともと、周りや上の目を気にする体質があるのだから。

 自分の言葉に責任を持てない「正しさ」よりも、自分の言葉に責任を持つ「間違い」の方がマシだと思うことは多い。

 こうした萎縮は、介護現場だけでなく、証券業界でも、旅行業でもある。

 みんな、クレームに対して、必要以上にネガティブなのだ。

 私は、昔から、苦情処理の手紙を書くことが好きだった。こちらに非があってひたすら謝罪するようなものは簡単で、そうではなく、こちらに非はないけれど、先方が損をして、その損の責任をこちらに求めてくるケースがあり、しかも非常に同情の余地がある場合などが難しいのだ。

 完全に利益を異にするもの同士が、向き合って、せめぎあって、両者が折り合えるところや、納得とまでいかないけれど、それで良しと思える落としどころを探す。

 一つ一つ局面は違うので、マニュアルはない。しかし、一つ一つが経験として自分の層になる。けっきょくは、そうした微妙な層の集合体が自分の自律性を作るのであって、世間がつくった「正しさ」だけを自分の層にしてしまうことほど、自分という生命体にとって不安定なものはないだろうと思う。環境が変われば、役に立たなくなってしまうのだから。