横山大観の続き

 先ほど、横山大観の問題というより、近代以降の日本のインテリの問題かもしれないと書いたけれど、このことについては、もう少し考えてみる必要があるかもしれない。

 横山大観の代表作の一つは、「屈原」とされているが、残念ながら今日の展示では見ることができなかった。展示替えで二月の中旬からの展示らしい。

 明治31年に、横山大観は「屈原」という作品を渾身の力で描ききっている。屈原と言えば、今から2300年前の中国戦国時代に楚の政治家であり詩人だ。強い憂国の心をもって王に仕えるが、周囲に妬まれ、王から遠ざけられ、結果として楚の国は屈原の進言に従わずに秦に欺かれ、屈減は楚の未来を悲観して入水自殺をする。

 明治31年と言えば、大観が敬愛していた岡倉天心が、東京美術学校校長を辞職に追い込まれる年だから、大観は天心を屈原に重ねていたのかもしれない。

 天心は、『東洋の理想』で「アジアは一つである」と語る。この言葉は、後に大東亜共栄圏を支える政治的なスローガンとして利用されることにもなる。

 もともと、大陸からはロシア、海からはイギリス・フランス・オランダ・アメリカと、西欧の植民地化の波が迫り、その中で日本はいかにして独立を維持するかが課題で、天心はそれに対する思想を確立しようとして精力的に動いたのだった。

 しかし、天心にとっての本当の闘う相手は、西欧諸国ではなかった。

 「商業の名においてわれわれは好戦の徒を歓迎している。文明の名において帝国主義者を抱擁している。キリスト教の名において無慈悲のまえにひれ伏している。」

の言葉どおり、天心が危機感をつのらせていたのは日本のなかに対してだった。結果として、天心は、屈原のように妬まれ、排斥された。

 そうしたいきさつを傍で見ていた横山大観が、岡倉天心屈原を重ね合わせたのは自然のことだろう。

 だから、芸術よりも先に思想ありきというのは、大観が生きた時代としてやむを得なかったという言い方もできる。

 それでも敢えて言うならば、思想なき時代に、大観は安易なところに思想を求めすぎたのではないか。

 現在もまた、思想なき状態は同じであり、その混沌状態を改善するために、安易に、道徳や愛を持ち出すインテリは多い。「日本の美、心の芸術、横山大観、新たなる伝説へ」などという言い回しも同じだ。

 「憂い」という気持ちが、屈原のように孤高の厳しさに昇華されるのなら話はわかるが、耳障りのよい言葉となって「群れ」のなかで声高に主張されるようであれば、それは別ものだろう。


 屈原の「漁夫辞」という詩がある。

  屈原は放逐されて江や淵をさまよい、詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。顔色はやつれはて、見る影もなく痩せ衰えている。一人の漁夫が彼を見付け、尋ねた。

「あなたは三閭太夫さまではございませぬか。どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」

 屈原は言った。

「世の中はすべて濁っている中で、私独りが澄んでいる。人々すべて酔っている中で、私独りが醒めている。それゆえ追放されたのだ」

 漁夫は言った。

「聖人は物事に拘らず、世と共に移り変わると申します。世人がすべて濁っているならば、なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、波をたてようとなされませぬ。人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒かすをくらい、糟汁までも啜ろうとなされませぬ。なんでまたそのように深刻に思い悩み、高尚に振舞って、自ら追放を招くようなことをなさったのです」

 屈原は言った。

「ことわざにいう、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の塵を払ってから被り、湯浴みしたばかりの者は、必ず衣服をふるってから着るものだ』と。どうしてこの清らかな身に、汚らわしきものを受けられよう。いっそこの湘水の流れに身を投げて、魚の餌食となろうとも、どうして純白の身を世俗の塵にまみれさせよう」

 漁夫はにっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。

「滄浪の水が澄んだのなら、冠の紐を洗うがよい、滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい」


 「憂い」というのは、権威を傘に、傲慢に、声高に、耳障りの良い言葉だけを、自分が傷つかない程度に言うことではない、ということだろう。

 自分が傷つくことを覚悟のうえで、それができるかどうか。

 大観は、どうだったのだろうか。そして、朝日新聞も含まれるが、近代のインテリのうち、いったいどれだけの者が、屈原のような矜持と潔さと、そのうえで、目先の混濁とか清澄にとらわれず、気を長くもって取り組むことの大切さを自分に求めることができるか。

 何も知らず、何も考えない人は、言われるままに右左に動くだけだろうが、人よりも物事を知り、深く考える人は、結果として人の導き役になっていくので、常に同じ問題がつきまとっている。安易に状況を右に転ばせてしまうか、それとも左に転ばせてしまうか、自我を棄てて、根気よく第三の道を求めて行くか。

 自我を棄てることは、最も困難なことであろうが、東洋を語る時、このことを切り離してしまっては、あまりにも都合が良すぎる。といって、簡単に特攻隊になってしまうというのも、安易に東洋思想を利用しすぎている。

 やはり、「滄浪の水が澄んだのなら、冠の紐を洗うがよい、滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい」

 という絶妙さだろうが、大観もまた、当然、頭ではこの言葉を知っていただろう。運命に抗うのではなく、運命を受け入れる。

 しかし、自我を残して、運命を受け入れることができるのか、自我を棄てて、運命を受け入れるのか。頭でわかっていても、できることと、できないことの境目がそこにある。

 大観は、自我を棄てて、運命を受け入れたのか。戦後、責任を問われた時の大観には潔さがあったとはとても思えない。戦後に描かれた「或る日の太平洋」の中の龍に、力強さはまったくなく、そこに反映されているのは、憂いはあるけれど自我は棄てられず、おどおどしている大観の小心さなのかもしれないと思ったりした。そして、そうした立ち位置の表現者が、戦後もまた、文学などにおいても社会の空気をよく表しているなどと共感を呼んで人気者になるのだから、日本にとって近代というのは、ほんとうにややこしい時代だなあと思う。