横山大観 巨人伝説!?

 今日、六本木の国立新美術館に、幼稚園の息子と横山大観展を見に行く。

 午前中から行けばそんなに混んでいないだろうと思っていたけれど、すごい混雑だった。とくに高齢者の数が多く、美術を教養として楽しむ人がこれだけ多い国は、世界でもそんなにないだろう。

 横山大観の絵は、これまで数点しか見たことがなく、あまり心が惹かれなかったが、「没後50年展」でまとめて作品が見られるということで、とりあえず見てみようと思った。

 今回の展覧会でも、特に感銘を受けなかったが、大観の絵は、日本人にとって、とてもわかりやすい無難な美意識で構成されていると感じた。

 富士山、桜、紅葉、鹿、水の流れ等々、日本人が既に理解・納得している世界観を、モチーフをちりばめることで、そのままに表しているという感じだった。全体として、とてもわかりやすい。丁寧に根気よく仕事をしていると思うけれど、北斎若冲などの絵などから受けるような凄みはあまり伝わってこない。

 横山大観の絵には、龍が数多く登場するけれど、記号としてそこに「龍」が描かれているだけで、龍そのものの凄みはあまり伝わってこない。皮肉なことに息子が「凄いねえ」と言った龍は、特別出品の13世紀の伝陳容が描いた絵だった。また、大観の「秋色」と尾形光琳の「槇楓図屏風が比較されたりしているが、大観の絵は明らかにうすぼんやりして、緊張感がない。「瀟湘八景」の遠浦帰帆も、これまた比較されている13世紀の伝牧谿の「遠浦帰帆図」に比べて、明らかに、“何もない”。

 龍にかぎらず、鹿や鳥や人間なども、山や川や海も、記号としてそこに描かれているだけで、それそのものの生命力は、あまり伝わってこない。

 もちろん、横山大観は、近代日本を代表する画家として世間では認識されているのであって、私なんぞの評価は関係ないだろう。

 おそらく、横山大観が生きた時代と、若冲北斎が生きた時代のあいだで根本的に何かが違っているのかもしれない。

 幼稚園の息子は単純で、家に帰ってきて私が若冲北斎の図録を見ていると、若冲の描いた鶏とか虎を指差して、「こっちの方が迫力あるねえ」と言う。

 横山大観の絵は、見た目に綺麗だし、スケールもそれなりに大きいけれど、「迫力」ということで今ひとつだ。

 絵の迫力とか凄みって、いったいどこから生じるのだろうか。

 一つ言えることは、若冲にしろ北斎にしろ、対象そのものとも真剣に格闘しているという感じがする。それに比べて、大観は、自分が伝えたい「思想」を表すために、モチーフを利用しているという感じなのだ。絵を描く前と描いた後で、大観の世界観は変わらない。しかし、若冲北斎は、絵を描くことで既存の自分の世界観を壊そうとしている。自分のなかで固まってしまいがちな世界観からも自由であろうとしているような迫力があるのだ。

 生き物にしろ、自然風景にしろ、それ本来の生命力は、自分の頭のなかで想定している範疇や自分の手先の技量で収まりきるものではない。それらは自分の頭の中に整理されている自然観や世界観の説得力を強めるために利用する記号的材料ではない。それそのものとして、表現者の思惑どおりにならないところで超然と存在している。その捉えがたい深遠に向かって果敢に挑むスタンスが、その絵に超然たる凄みをもたらすのではないだろうか。

 北斎若冲が生きた時代は、「東洋思想」というものが当たり前の時代であり、それをステレオタイプに信じるような者は、表現者になれなかっただろう。人が信じて当たり前のように認識してしまっていることを根元的に見直そうとするスタンスを持ち続けた人こそが、表現者だったのだろう。

 しかし、大観の時代は違う。西欧文化が急激に入り込んでくる中で、自らのアイデンティティを守るために、歴史的にお墨付きのある「東洋思想」が必要だったのかもしれない。そして、大観は、自分のオリジナリティを出すために、単に古い東洋を持ってくるのではなく、新しく見える西洋の豪奢な感じと、東洋に古くから伝わる「生々流転」などの思想と混ぜ合わせることで、わかりやすく万人受けする美をつくった。

 最初に「わかりやすく万人受けする美や思想」ありきで、その説得力のために絵の対象を記号化する。真実の根元を追い求める芸術家というより、その発想じたいが、ポピュリズムであり、どこか政治的だ。

 横山大観は、第二次世界大戦中、軍のためのプロパガンダ絵画をたくさん描いて、戦争を賛美した。そういう先入観で絵を見ようとは思わない。戦争を賛美したから、絵が良いとか悪いということではないが、絵のなかに流れているこの人のスタンスが、戦争賛美に流れるということはあるだろう。

 人間として悪人だから戦争を賛美するとか、善人だから反対するという類のことではないのだ。

 北斎若冲の絵に感じて、大観の絵に感じないものは、「人がどう言おうが、自分の目から見て、これを真実というしかない」という、潔さと矜持と清々しさだ。それが、北斎若冲の絵の迫力だ。大観の絵には、それを感じない。このように描けば世間の受けがよくなるということがわかったうえでそうしているという雰囲気がある。「人がどう言おうが自分の価値観として、自分の美意識としてこうなのだ」ではなく、「多くの人のお墨付きの価値観や美意識」に寄り添っている。だから、時代の大勢が変われば、その方向に生々流転する。

 今回、朝日新聞社が、戦争賛美の横山大観の展覧会を主催しているのだけど、なんとも妙だなあと思う。

 芸術と政治を絡める必要はないだろうけれど、芸術とは別に、横山大観は、戦時中に(社)日本美術報国会の会長でもあったのだから、朝日新聞の言葉を使うならば、「戦争責任を明らかにする」ことが先決だろうが。

 そうではなく、朝日新聞は、「日本の美、心の芸術、横山大観、巨人伝説」と大々的に持ち上げている。

 どうにも、時代の雰囲気に乗じて、善悪、美醜を決めていくこの会社のスタンスは、先の戦争の時も、今も変わらないという気がする。

「平和」を叫ぶことが簡単な時代に「平和」を叫ぶことは誰にでもできるわけで、誰にでも叫べることだけを叫ぶ人は、逆のスローガンが大勢を占めると、その言葉を叫ぶだけだろう。

 大観の描いた世界が、日本の美とか、心の芸術ならば、それは、日本の桜とか富士とかを称揚しながら愛国心を唄う心情と何ら変わりない。

 そういうものを「日本の美」というのは簡単でわかりやすいことだが、日本の美というのは、その程度に固定的で形骸化したものにすぎないのか。

 若冲にしろ、北斎にしろ、観念でなく実際に目の前にある実景と向き合っているという迫力がある。

 大観はどうだろうか。彼は、明治〜大正〜昭和という時代にかけての実景と真摯に向き合っていると言えるだろうか。彼は、観念としての東洋思想を描いているにすぎないのではないだろうか。観念としての「善」とか「愛」とか「正義」になびきやすいのは、どちらかというと、日本よりも西欧の得意とするところで、かつ、心よりも、頭の作為という気がしてならない。そして頭は、自分の都合の良いように、善とか美とか愛とか正義をすり替えるのだ。朝日新聞が、現在、大観を大々的にバックアップするように。

 西欧に対抗するために、ステレオタイプ化した東洋を持ってきても、それは東洋ではない。

 東洋の奥深い知恵は、おそらく、そうした対立概念からも超越した孤高の境地にある。そしておそらく西洋の場合においても、ステレオタイプを超えた本当の知恵は、そうした孤高の境地にあるのだろう。

 横山大観の絵に一番感じないのは、そうした孤高の潔さなのだ。代表作とされる「或る日の太平洋」に描かれる龍一つとっても、彼の描くものは、なんとも自信無げで、曖昧なのだ。自信無く、曖昧だから、世間のお墨付きのある価値観の上で偉そうにする。それは横山大観の問題というより、明治以降の日本の”インテリ”の問題なのかもしれない。