日本人の魂の故郷 室生寺と土門拳

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(撮影/土門拳

 女人高野と呼ばれる室生寺に行ってきた。土門拳が何度も通い続けた室生寺は一度は行ってみたかった。

 到着したのが夕暮れ時の閉館前で、紅葉の季節なのに観光客の姿がなく、静けさに包まれていて心穏やかな気持ちになった。
 空海は、身体は高野山にあれども、心は室生寺にあると言ったらしい。高野山の身が引き締まるような緊張感と違ってのびやかな空気。仏像も建物も平安初期の頃のものは、何とも言えない柔和な感じがある。
 仏教に対しては、一般的に鎌倉の容赦のない力強い世界をイメージする人が多いと思うが、平安初期の仏教世界には、寛容と受容を強く感じる。観念の抽象世界ではなく、素朴で親しみが感じられ、それでいて深遠で超越的な雰囲気も漂っている。
 一般的に、日本の仏教は鎌倉以降が日本的な特長を持っていて、それ以前は中国からの輸入だと考えている人が多い。

 海外においても、13世紀の鎌倉以降に発展した禅が日本を代表する精神世界になっているし、日本国内においては、同じく鎌倉時代に発展した浄土や浄土真宗日蓮法華経の信者が多い。

 しかし私は、七世紀前半の百済観音や、9世紀前半、空海の活躍した平安前期の仏教が気になる。どちらも韓国や中国の影響を強く受けた時代のものであることに違いはない。しかし、ただの輸入ではなく、海外からの影響に抗えない状況のなかで、古来から引き継がれてきた日本の信仰と新たにもたらされたものとのあいだで葛藤があり、それを深いレベルで融合しようとした先人達の精神が反映されているような気がするのだ。

 江戸時代などのように鎖国状態の中で日本オリジナルが創造され発展されるということもあるが、変革期、転換期において異なる文化・価値観を統合していくプロセスのなかにも、日本ならではの智慧が垣間見える。とりわけ現代のように変化が激しく、不確定で不確実な時代には、そうした智慧をふりかえる必要があると思う。
 土門拳の古寺巡礼は、1939年の室生寺との出会いから始まり、車椅子に乗って念願かなって撮影した雪の室生寺で終わる。土門拳は、室生寺をきっかけに平安初期の木彫仏に惹かれて全国を行脚して撮影した。

 土門拳が、平安初期の仏像をひたすら撮り続けたのは、戦時体制の中でだった。彼は、日本人が一丸となって戦うことが要求されていた時代に、報道写真家として日本人を戦争に駆り立てることを期待されるという苦しい立場であったが、室生寺と仏像を撮影するという選択を行なった。仏像もまた日本の魂であるから戦時下でも堂々と撮影できたのだろうが、土門拳の心中は、天皇を神とみなす戦時体制のなかで、日本人にとって本当の魂の拠り所を見いだそうとする、極限下での抵抗だったのではないだろうか。それゆえ、土門拳の撮った仏像には奈落の底での魂の救済を求める渾身の力がこめられている。
 先の戦争において、文化人や、新聞社および出版社は、安易に戦争を称揚し、欧米と戦う為に日本人の団結を説いた。そして戦後、これまた安易に反省し、安易にアメリカ文化の称揚を行い、消費社会のなかの消費芸術活動の権威となり、その権威を脅かさない程度の世渡り上手が、権威のお墨付きを頂戴し、権威に寄り添うマスコミに持ち上げられ、時代を代表するアーティストとして祭り上げられたりして来た。そのようにして、価値観は歪められ、大事なことが覆い隠されてきた。

 しかし、そうした欺瞞がいつまでも通用する筈がなく、アートはもはや教養趣味人の娯楽でしかなく、他に娯楽を求める人にとっては、まったくの無関心のものになっている。悲しいかな、誰も芸術の力など期待していない。芸術が魂を救い、生まれ変わりの啓示を与え、大切なことを触発し、社会をいい方向に導くなどと考えている人などほとんどいない。芸術の権威は、もはやビジネス上の手形発行機関みたいなものだ。
 戦後に権威となった文化人達が、先の戦争中にどうであったか、もう少し丁寧に点検する必要があるかもしれない。そして、戦後に権威によって葬り去られたり蚊帳の外に置かれた表現者が、戦時中にどのような姿勢を貫いていたか、見直す必要があるかもしれない。画壇において一人、戦争犯罪の責任を追わされたレオナルド藤田が描いた戦争画がどういうものであったか、果たしてそれが戦争を称揚しているものかどうか。そして、横山大観はどうであったのかとか。写真においても、それ以外の分野においても、そうした点検は、形を変えて国家主義的な動きが強まってきた現代において、とても大事なことだと思う。

 安倍政権が、広く各界から有識者を集めるという名目で現政権の取り組みの肯定化を計っているが、文化人や知識人の代表のような顔でそれに加わっている人達は、数十年後に振り返っても、本当に信頼に値する人達であったということになるのだろうか?
 それはともかく、土門拳は、戦後、原爆の後遺症に苦しむ被爆者や、政府のエネルギー転換策によって切り捨てられた筑豊炭坑の人びとを撮影し続けた。国家に翻弄される人びとの魂を追い続けながら、日本とは何かを問い続けていたのだろう。

 そして1959年に脳溢血で倒れた後、大和、京都をはじめ、大型カメラを抱えて再び古寺をめぐり、1969年に再び倒れて意識不明となり、その後、右半身不随になるが懸命のリハビリを行い、車椅子で撮影を再開し、78年まで、鬼気迫るような気迫で、寺と仏と日本の自然風景を撮り続けている。
 古寺巡礼の最後、土門拳は、どうしても雪景の室生寺を撮影したかった。室生寺は、自らの原点であり、故郷であった。そしてそれは彼のイメージの中で日本の原郷に通じるものがあっただろう。
 彼は何度通っても雪に巡り会えなかった。ついには雪を待って、近くの病院で一ヶ月近く待機して、ようやく雪の室生寺の撮影に成功する。そして翌年、再び脳溢血で倒れ、以後、意識不明の状態が11年間続き、他界した。
 「古寺巡礼」の最後に撮られた室生寺の雪景色写真で、画面の半分以上が鎧坂の石の階段で占められ、その上層に白い雪を被った金堂が小さくひそやかに写っているものがある。階段は、一歩一歩、不器用に生真面目にそれでも確かに登っていく土門の足跡のように見え、登り詰めた先には、自分が還っていく白い室生寺が、慎ましく、清らかな姿で写っている。土門にとって、その白く小さな室生寺こそ、自分だけでなく、日本人にとっての”故郷”だったのではないか。
 戦後の荒野の中から立ち上がり、貧困と闘い、生真面目に生きていたものの、その道の先に、派手になり華美になり、自分を目立たせ権威付けをしたがる風潮となった日本社会。しかし、そうした身の程知らずのものを求めた結果が、先の戦争であり、今もまた同じ愚を繰り返している。
 慎ましく飾ることのない高潔な魂。日本とは、日本人とはという問いとひたすら向き合い、根元まで降りていって苦闘した土門拳の辿り着いた答えが、この室生寺の佇まいと、ここに鎮座している仏の姿に垣間見える。

 

Image森永純写真集「wave 〜All things change」→


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