1051回 日本の古層 相反するものを調和させる歴史文化(7)

f:id:kazetabi:20190206165956j:plain

和歌山市日前神宮・国懸神宮は、現在は、一つの境内の中に二つの神社が鎮座し、ともに、伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる鏡を御神体としている。この二つの鏡は、アマテラスが岩戸に隠れてしまった時、誘い出すために作られた鏡であるが、あまり美しくなかったために使われなかったものという、不可解な意味付けがなされている。つまり、出どころは同じだけれど、正当でなかったものということになる。しかし、この二つの神宮は、真南に向かう鳥居の正面にはなく、左右に分かれて鎮座しており、その正面の空間には、かつて五十猛神が祀られていた。
 新天皇の即位まであと一週間。天皇制は、日本人と切り離せない仕組みであるけれど、そのルーツすらよくわからないというのが、日本人のアイデンティティの曖昧さにも通じているのだろう。
 欧州の王室であれば、そのルーツまで遡ることは難しくないが、日本の天皇のルーツは、雲の彼方だ。
 初代天皇の神武元年は、紀元前660年とされているが、これは辛酉革命の影響で、そう仮定されているにすぎない。
 干支は、子・丑・寅など12支(じゅうにし)と、甲、乙、丙など10干(じっかん)の組み合わせによる60を周期とする数詞だが、陰陽五行説と結びついて、暦を始めとして、時間、方位などに用いられてきた。
 そして、古代から、60年に1度、10千の8番目にあたる「辛」と、12支の10番目にあたる「酉」の組み合わせの時に革命が起こると考えられ、さらに60年周期の21回目、1260年で大革命が起こるとみなされた。
 それが辛酉革命である。
 日本書紀には、神武天皇の即位の年が辛酉であるとだけ記されており、その辛酉がいつの辛酉なのかを記紀に記述された天皇の在位期間などを計算したりして、紀元前660年の辛酉ではないかと考えられるようになった。
 西暦の紀元前660年にあたる頃の辛酉の年を、神武天皇の即位であると判断した最初は、平安時代、菅原道眞と学問上のライバルだった三善清行という人物のようだ。彼は、推古天皇の時代の辛酉の年(601年に該当する)を国家的大変革と位置づけ、そこから1260年を遡ったのだ。
 (もちろん、日本で西暦を用い始めたのは1872年、明治維新の後であり、平安時代には西暦の概念はなく、彼の算出の結果は、紀元前7世紀ではあるけれど、現在の計算と若干異なっている)
 いずれにしろ、そういう計算によって決められた紀元前660年の神武天皇即位である。しかし、実際の紀元前660年というのは縄文から弥生に移行していく段階であり、その時に神武天皇が即位したとなると、神武天皇は弥生王国の王で、縄文王国の王であるナガスネ彦を討ち破ったということになる。
 もしそうなら、神武天皇の前の国譲りのタケミナカタタケミカヅチの時代は、どの時代に該当するのか。さらに遡ることになるオオクニヌシの国づくりは縄文王国のことか、という疑問が生じる。
 神武天皇が実在したかどうかは議論があるが、記紀に描かれているような事態が実際に生じたとしても、紀元660年ではなく、もっと後のことだ。
 ならば、それはどの歴史的段階のことなのか。
 日本で歴史が大きく動き始めるのは弥生時代に入り、渡来人が大挙してやってきてからだ。
 それは、大きく分けて4度あったと考えられており、最初の2回は、中国国内の動乱、後の2回は朝鮮半島の動乱の時となる。
 明治維新や戦国時代の鉄砲伝来にかぎらず、日本の歴史変動は、日本列島内だけに原因があるのではなく、海外からの影響が大きい。
  第1の波は、BC5世紀-3世紀で、中国では春秋戦国時代(BC403-221)の時期。この時、渡来人がもたらした新技術(稲作だけでない)によって弥生時代が始まった。
 第2の波はAD4世紀-5世紀と考えられる。応神・仁徳天皇から倭の五王の時代にあたりとなる。古墳が巨大化され、その副葬品も、それまでの鏡、銅剣のような呪術・宗教的色彩の強いものから、武器や馬具などの実用品が多く加わるようになり、さらに馬の形をした埴輪が加えられるようになるが、その急激な変化を指摘し、江上波夫氏が、「騎馬民族日本征服論」を唱えた時期にあたる。
 この時期、中国は三国志の戦いによる分裂と混乱の後、異民族が激しく争う五胡16カ国時代にあたる。中国から朝鮮半島への人民の流入に伴い、高句麗朝鮮半島を南下し、新羅高句麗の影響下に置かれ、日本にも渡来が増えた。当時、日本では大王はじめ各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を図っており、渡来人の技術が必要とされた。秦氏東漢氏など技術系の渡来人はこの時期にやってきたようだ。
 前回のメモで書いた”丹”という水銀に関わる文化は、どうやら最初の弥生時代の渡来人との関連が深い。というのは、中国の春秋・戦国時代に滅亡した江南の国、呉や越の文化との共通点が多いからだ。そして、江南の地は揚子江流域で稲作の中心地でもあるし、揚子江中流湖南省が、水銀の最大の産地である。
 戦国時代の中国はすでに鉄器時代に入っていたので、その中国からやってきた人たちが、稲作だけを持ってきたとは考えにくい。
 教科書では稲作のことばかり強調されているが、近年になって、各地で歴史認識を覆す大発見が頻繁に起こっている。
 京丹後市弥栄(やさか)町に、弥生時代の奈具岡遺跡がある。1995年の調査で、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっており、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていた。ここから出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、製作された鉄製品の量は莫大だったことがわかる。
 そして、つい最近、2019年3月1日、徳島の阿南市の若杉山遺跡で昨年発見されていた朱砂(硫化水銀)の坑道が、土器片の年代から、弥生時代後期(1~3世紀)の遺構と確認されたと発表された。
 これまで発見されていた最古の坑道は、奈良時代に始まった長登銅山(山口県美祢市)だったので、この若杉山遺跡の坑道の発見以前は、たとえ弥生時代の遺跡から金属器などが発見されても、材料は中国や韓国から輸入して加工しただけのように言われていた。しかし、若杉山の坑道の発見によって、坑道を掘る技術の開始が一挙に500年も遡るために、歴史認識が大きく覆されるだろう。
 さらに、2018年7月、ここから東に5kmほどの阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末~後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落の半分が工房で、大規模な鉄器の生産拠点だったと考えられる。
 竪穴住居跡の内部に鍛冶炉が19カ所あり、鍛冶炉は、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。さらに古代の祭祀などに使われた水銀朱を生産する石杵や石臼、ガラス玉や管玉など、出土品は計約50万点にも達する。
 不思議なことにこの10年以内に、徳島だけでなく、淡路の舟木遺跡(2016年から調査)や彦根の稲部遺跡(2013年から調査)など、次々と、弥生時代に作られた大規模な鉄器工房が発見されている。
 大発見からまだ日が浅いということや、これまでの歴史学の常識が覆されるような発見が続いているので、これらの新発見を踏まえた新しい歴史認識について、学会からは、まだきちんと整理された説が出ていない。
 いずれにしろ、中国国内に大きな動乱があった第1回目の春秋・戦国時代(紀元前5世紀頃〜)に日本に大量の渡来人がやってきて弥生時代が始まり、五胡十六国時代という第2回目の中国の大動乱の時(紀元4世紀から5世紀)に、新たな技術を持った人たちが大量にやってきた。
 とすれば、神話の中のオオクニヌシの国づくりや国譲りや、神武天皇の東征や、神功皇后応神天皇の物語は、こうした大変化の時と関わりがあるのではないだろうか。
 記紀が伝える内容は、歴史的事実かどうかわからないが、たとえ史実でなかったとしても、何かしらの事実を象徴的に伝えていることは間違いないだろう。

f:id:kazetabi:20190423183612p:plain

これは、もはや偶然とは思えず、何かしらの意図があったとしか考えられない。 日本の古層(4)で書いたように、北緯34.5度のラインは、東から、伊勢斎宮跡、室生寺長谷寺三輪山、多神社、二上山、淡路舟木の製鉄遺跡を結ぶ。伊勢の多気室生寺などは水銀鉱床で知られ、三輪山や舟木など鉄と関係あるところと一緒に東西に並んでいる。 さらに三輪山から、徳島の阿南町で最古の坑道が発見された若杉山遺跡の東5kmの所にある日本最古の鉄器工房である加茂宮の前遺跡を結ぶラインが、和歌山の紀ノ川河口の日前神宮・国懸神宮と、日本建国の地とされる橿原(畝傍山)の神武天皇陵を通っている。このラインは、夏至の日に太陽が上り、冬至の日に太陽が沈むラインである。日前神宮・国懸神宮は、古代には五十猛神が祀られており、周辺に、丹生という場所が非常に多い。そして、大物主を祀る三輪山と、徳島の水銀と鉄。これらが結ばれたライン上に、神武天皇という日本の歴史の始まりが刻まれたのだ。

f:id:kazetabi:20190423193706p:plain

さらに上記の地図の三輪山と徳島の阿南の加茂宮の前遺跡を結ぶラインにおいて、三輪山周辺を見ると、驚くべきことがわかる。 天香山、耳成山畝傍山大和三山が、ちょうどこのラインの上に三角形を描き、その中心に藤原宮がある。藤原京は、三輪山と紀ノ川河口の日前神宮・国懸神宮と徳島の阿南の日本最古の鉄器製造拠点を結ぶライン上にある。そして、藤原京は、夏至の日に、三輪山から太陽が上るのを見ることができる。 藤原京は、日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な都城であり、694年から710年のあいだ新しい国家の中心だった。都の建設は、676年(天武天皇5年)から始められたことがわかっているので、壬申の乱に勝利した天武天皇の意思で、この地に都を作ることが定められた。天武天皇は、陰陽道に通じており、日本初の天文台陰陽寮という官僚組織を作った。そして、天武天皇は、古事記の制作も進めさせた(古事記の完成は712年)。 古事記が描く世界観と、三輪山と徳島の阿南を結ぶラインが、深く関係している。