舟木 石上神社
淡路島の舟木にある石上神社は、小高い丘の上の巨石群が御神体となっている古くからの聖域。ここは、現代の日本とは思えない異界のような雰囲気が漂っているが、今でも女人禁制を守っている聖域である。
女人禁制だからといって、女性を差別しているということではなく、この聖域は東を向いており、朝日に向かって祭事を行うことが男の役割であったことが、女人禁制の起源と考えられている。
それは、おそらくただの太陽崇拝ではなく、もっと実際的な意味があるもので、舟木という地名が示しているように、船乗りと関係があったのではないかと思う。
舟木という地名は、各地に残っているが、『住吉大社神代記』には、古代、住吉大社の祭祀を司った船木氏が、船を作ったという記録が残っている。
記紀のなかで、第10代崇神天皇の時代、アマテラス大神の鎮座地を求めて倭姫命が、各地を彷徨い、最終的に伊勢の地に至るという話があり、伊勢の前に、一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社や場所が元伊勢として知られている。
その倭姫命の巡幸の途中に立ち寄ったとされる場所で、美濃(岐阜)や尾張(愛知)、最終的な鎮座地の前の伊勢の瀧原宮に船木の地がある。
船木氏という特定氏族がいたのか、船と木だから、海人が、倭姫命の元伊勢巡幸と関わっていたのか?
いずれにしろ、太陽神をどこで正式に祀るかという旅に、海人が関わっていた可能性が高いということになる。
興味深いのは、淡路の舟木の石上神社は、真東に行くと、奈良盆地の東西のランドマークである二上山と三輪山を通り、伊勢に至るのだが、伊勢が、伊勢神宮ではなく、伊勢斎宮跡であることだ。
斎宮というのは、伊勢神宮の祭祀を行うために皇室から派遣された斎王(未婚の皇族女子もしくは女王から選ばれる)がいた場所である。
そして上に述べた元伊勢巡幸の倭姫命が、伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女と位置づけられ、このことが制度化されて後の斎宮となったとされる。
上に述べたように、その倭姫命の元伊勢巡幸と船木氏の関わりは深いので、倭姫命を初代と位置付ける伊勢斎宮の拠点と、淡路の舟木が同緯度の東西ライン上にあるのは、偶然ではなく、計画的であるということになる。
この東西ラインは、1980年のNHKで取り上げられたようだ。その時の放送では、このレイラインがなぜ配置されたのかという説明において、日神信仰と、大和朝廷の租税のためと仮説がつけられていたようだが、それから40年が経過し、そのあいだに重要な考古学的発見もあり、40年前の推理に合わなくなっている。
重要な考古学的発見の一つが、2017年、淡路の舟木から、弥生時代後期の鉄製品57点と工房を含む竪穴建物跡4棟が見つかったことだ。その規模は、すでに発見されていた、ここから南西約6キロにある国内最大級の鉄器生産集落で国史跡の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡をしのぐ可能性があるものだった。
つまり、五斗長垣内も含めて、淡路の舟木周辺は、ヤマト王権以前、弥生時代に遡る鉄関連地帯だった。
それでは、その鉄資源は、いったいどこから運ばれてきたのか?
アカデミックの世界では、日本最古の鉱山の発見は奈良時代までしか遡れていないので、それ以前は、海外から鉄資源を輸入して、それを日本国内で鍛治加工していただけだとされる。
だから淡路の舟木の鍛治工房も、輸入された鉄の加工場所であるとされ、なぜこの場所になったかというと、鉄資源が、瀬戸内海を通って運ばれ、淡路が畿内の入り口だからだと説明される。
しかし、奈良時代以前、ヤマト王権の時代だけでなく弥生時代の遺跡からも膨大な鉄製品が発見されており、それらを全て輸入鉄であるとするのは、どうにも無理がある。
そのため専門が考古学ではない真弓常忠氏などは、日本にも縄文時代に遡る国産の鉄資源の利用があり、それは主に褐鉄鉱(水酸化鉄)だったという説を唱えている。
淡路島の場合、舟木から北東に8kmのところに岩屋の絵島があり、本居宣長は、ここが、イザナギとイザナミの国産みが行われたオノゴロ島だと断言しているのだが、それはともかく、この絵島とその周辺は、褐鉄鉱(水酸化鉄)の岩盤だ。
私が気になるのは、淡路の舟木の対岸の播磨で、そこに加古川が流れている。
加古川の中流域にも舟木という地名が残るが、加古川を遡り、氷上あたりで由良川にアクセスすれば、日本海の若狭湾へと通じる。瀬戸内海から日本海に抜けるこのルートは、本州で最も低い、標高わずか95mの中央分水界「水分れ」を通る。つまり、もっとも簡単に、太平洋側から日本海側に抜けるルートであり、しかも、その途中の福知山周辺は、大江山など産鉄地帯なのだ。
このあたりに鉄資源が埋蔵されていることはわかっているのに、奈良時代以前の採掘跡などが発見されていないために、アカデミズムの世界では、古代日本は輸入鉄に頼っていたということになっているが、発見されていない=事実としてなかった、ということにはならないだろう。
いずれにしろ、海岸近くではなく、かなり内陸部に舟木という地名があることからも、海と川の水上交通をになっていた人たちが拠点としていた場所が、舟木なのだろうと想像できる。
そして、遠い距離を移動し、離れた地を結ぶ彼らにとって、太陽は、重要な道しるべだった。
興味深いのは、淡路の舟木から伊勢まで続く東西のライン、西の端の舟木の石上神社は、女人禁制だが、東の端は伊勢の斎宮跡の場所、つまり女性の聖域であることだ。
そして、ここは大和から見れば太陽が昇る方向である。アマテラス大神は、記紀のなかで、女神として描かれているが、この神に仕える斎王が未婚の女性に限られるというのは、神との結婚のためでもあり、太陽神そのものは男神だった可能性がある。
アマテラス大神は、「オホヒルメノムチ(大日孁貴)」という別名を持つが、「ヒルメ(日孁)」の「孁」は「巫」と同義であるため、古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられる。
しかも記紀のなかで、アマテラス大神は、神御衣を織っているが、それは神ではなく巫女の役割であり、太陽神に仕える巫女それ自身が、特別の力を持つ神聖な存在として崇められていたということになる。
魏志倭人伝の「ひみこ」の話にしても、特定人物ではなく、「日の巫女」によって束ねられていたクニということが伝えられているのかもしれない。
淡路の舟木の地で、船乗りの男たちは、航海の道しるべとして太陽神を崇めていたが、その太陽が政治的な道しるべとなり、太陽に仕える巫女が、神の声を代弁することで男どもを束ね、クニを一つにまとめた。それが卑弥呼の時代だろう。
そして記紀が書かれた時代、持統天皇、元明天皇、元正天皇の女帝が続くわけだが、それまで神に等しい大君に仕えていた女性を天皇にせざるを得ない状況だったわけで(おそらく、律令制の揺籃期に男どもの権力争いが尽きなかったため)、日の巫女=女性天皇を、太陽神そのものとして位置付ける必要性が生まれたのかもしれない。
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