第1074回 日本の古層(20)  古代日本の先進地域、京丹後(1)。

 京丹後が、古代、日本の最先端地域であったことは考古学的に証明されている。

 今から2300年前くらい前、京丹後の峰山の扇谷遺跡、その後、弥栄の奈具岡遺跡において、玉、鉄、ガラスなどの精密な製品が製造されており、当時、このあたりが日本のハイテク地域だったことがわかっている。そして、古墳時代に入ると、4世紀中頃から巨大古墳が建造されており、網野銚子山古墳(全長207m)・神明山古墳(全長190m)・蛭子山古墳(全長14⒌m)と、日本海で1番から3番目に巨大な古墳が、この地域に集中している。

 そして、日本全体の問題とも深く関わることとして、豊受大神のことがある。

 伊勢神宮は、現在の日本でもっとも神聖なところと位置付けられるが、その内宮にはアマテラスが祀られていて、この神がどういうものか、とりあえず誰でも知っている。しかし、外宮に祀られている豊受大神のことは、よくわからない。とりあえず、アマテラスの食事係ということになっているが、そうすると、内宮がメインで、外宮がサブというイメージになる。

 しかし、そうした位置付けに反発して、もともとは伊勢神宮全体の神主だったのに、内宮が中臣氏系の荒木田氏が神主となった後は外宮の神主に限定された度会氏は、伊勢神道なるものを創造し、豊受大神はアマテラスが生まれる以前に存在した宇宙創造神で、天御中主と同じだという主張を展開した。

 京丹後は、この豊受大神のルーツである。伊勢に移る前は、京丹後のどこにいたのか?

 第21代雄略天皇の夢枕に現れたアマテラス大神が、「丹波国の比治の真名井に座すトヨウケ神」を、自分の食事を司る御饌都神(みつけかみ)として呼び寄せるように告げ、伊勢に移られたと記録が残っており、いくつかの地が候補地になっているが、代表的なのが、天橋立の近くの籠神社の奥宮、真名井神社と、峰山の比沼麻奈為神社(ひぬままないじんじゃ)である。しかし、この二つの聖所の位置付け、バックグラウンド、場が持っている雰囲気は、まるで違っている。

 具体的には、籠神社の側は、アマテラスも豊受大神も、伊勢より、こちらが本家本元だという強い自負が感じられ、比沼麻奈為神社の方は、豊受大神は伊勢に移られたので、分霊をひっそりと祀っているという立場で、慎ましくて控えめだ。

 籠神社の奥宮、真名井神社は、籠神社の祭神である天彦火明命(アメノホアカリ)が、始原の神として豊受大神を祀っていたことが起源とされ、はるか2500年も前から、神社境内の磐座で神祀りが行われていたとされる。

 アマテラス大神に関しては、第10代崇神天皇の時代まではヤマトの宮内に祀られていたが、その状態を畏れた天皇、皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)にアマテラスの神霊を託して理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命がこれを引き継ぎ、伊勢の地に遷座したとされる。(現在の伊勢の内宮に遷座したのは第40代天武天皇で、その前は、同じ伊勢の度会郡の滝原宮に祀られていたという説もある。)

 アマテラス大神が伊勢に落ち着くまでに辿った各場所の伝承地が元伊勢とされる。

 籠神社も元伊勢の候補地であり、もともと豊受大神を祀っていたが、第11代垂仁天皇の時、アマテラス大神も祀られたが、その後すぐこの地を離れた。

  さらに第21代雄略天皇の時、天皇の夢枕に現れたアマテラス大神のお告げで、豊受大神が、ここから伊勢の外宮に移られたということになっている。

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籠神社の奥宮、真名井神社。ここから先は、撮影禁止。

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籠神社の前の海から見る天橋立

 それに対して比沼麻奈為神社は、羽衣伝説にもとずく聖所であり、天女が豊受大神なのである。

 比沼麻奈為神社は久次岳(ひさつぎだけ、標高541m)の東麓に鎮座している。 太古、豊受大神が、種々の農業技術をはじめた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊(クシビ)の里と呼ばれていた。その山頂近くに、古代、豊受大神が鎮座したと言われる「大神社(オオガミノモリ)」があり、巨岩がいくつも存在する。

 文章で残された日本最古の羽衣伝説は、「丹後風土記」の記事であり、それによれば、比治の里の比治山の頂きに、池があって、その名を真名井と言い、そこに天女が8人降りて水浴びをした。比治というのは、比沼麻奈為(ひぬままない)神社が鎮座する周辺の地である。そして、天女たちの様子を見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしまったため、 その天女は天に還ることができなくなってしまい、やむなく老夫婦の養女として10年ほど暮らすことになった。 

 天女は稲作・養蚕・酒造の技術を伝えたが、それによって裕福になった老夫婦は、ある日「おまえは自分たちの子ではない」と天女を追い出してしまった。悲しみに暮れた天女は、彷徨った末に船木(現京丹後市弥栄町船木)の里に至り、「わが心なぐしく(慰め)なりぬ」と、そこに安住の居を構えたという。

 これにちなんでこの地を奈具と呼ぶようになった。そして村びとたちによって天女は豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として奈具神社に祀られた。

 この奈具神社のすぐそばに、弥生時代のハイテク都市、奈具岡遺跡がある。

 この遺跡は、紀元前200年頃から栄え、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっている。玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていたようで、出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、この時期の遺跡としては日本でもっとも多い。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土している。

 丹後風土記の羽衣伝説に基づけば、天女8人が降臨した比治山のそばの比沼麻奈爲神社が、豊受大神の最初の降臨地域ということになり、米・麦・豆等の五穀を作り、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めた豊受大神を主神として、古代より祀っている。 

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比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

 この物語においては、古代のハイテク都市、京丹後弥栄町奈具岡は、天女の神話と関係している。羽衣伝説は、他の地からやってきた人々が、新しい技術文化をもたらしたという歴史的な出来事が、説話化された可能性がある。

 また、比沼麻奈為神社と奈具岡遺跡のあいだ、京丹後の峰山に大田南5号古墳という方墳があるが、その棺内に鏡と鉄刀1本が収められていた。

 鏡は方格規矩四神鏡で、「青龍三年」(魏の年号で西暦235年)の銘がある。

 日本で発見された銅鏡は総数で4千枚あるとされるが、その中で、年号が刻まれたもの紀年銘は14枚しかない。さらに、「魏志倭人伝」で、239年、魏の皇帝が卑弥呼銅鏡百枚を下賜したとする記述があるが、239年より以前の銅鏡は6枚しかなく、238年が1枚(山梨)、239年が2枚(大阪の和泉と出雲の加茂岩倉遺跡の近く)、もっとも古い235年が3枚で、そのうち1枚は出土地不明、残り2枚は、高槻の巨大弥生都市の安満遺跡にある安満宮山古墳と、京丹後の峰山である。

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敦賀気比神宮は、渡来人の天日槍と関係が深く、第15代応神天皇と名前の交換を行ったイザサワケ神を祀っており、各地の重要な聖域を結ぶ要にあるが、その真西にあたるのが、京丹後峰山で235年の鏡が出た大田南5号墳である(北緯35.65)。そして、鬼退治の舞台となった福知山の大江山の8号目に関西随一の雲海で知られている鬼嶽稲荷神社がある。この真北が日本海で2番目に大きな神明山古墳で、麻呂子親王に鬼が閉じ込められた立岩のすぐ近くである(東経135.11)。また、羽衣伝説の舞台で豊受大神が伊勢に移る前に鎮座していたとされる比沼麻奈為神社は、日本海でもっとも大きい網野銚子山古墳の真南(135.029)である。

 京丹後に残る渡来人伝説としては、徐福伝説もある。

 秦の始皇帝の時代(BC246−BC221)、呪術、医術、占星術天文学に通じた徐福は、始皇帝に不老不死の仙薬の入手を命ぜられ、紀元前219年、童男童女三千人、五穀の種子や絹を船に乗せ、各種技術者とともに、 大船団を率いて中国を出航した。徐福は何日もの航海の末辿り着いた先で『平原広沢』という地を得て、中国には戻らなかったとされており、その『平原広沢』が日本で、先進技術を伝えたと言われ、その伝承地は、青森県から鹿児島県まで20箇所以上あるが、その一つが京丹後である。

 京丹後における豊受大神の歴史的な位置付けが、古代、この地にやってきて新しい技術文化を伝えた人たちであるとすれば、籠神社の祭神である天彦火明命(アメノホアカリ)が籠神社の奥宮の真名井神社始原の神として豊受大神を祀っていたとされるので、豊受大神は、彦火明命(アメノホアカリ)より古いということになる。

 天彦火明命は、尾張氏や海部氏などの祖神であるが、物部氏の祖神である饒速日尊(ニギハヤヒ)と同じともされる。

 饒速日尊というのは、天孫降臨ニニギよりも早く天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)に天降った天神の一神であるが、神武天皇の東征の際、最後まで抵抗したナガスネヒコを殺害して、神武天皇に帰順することを選択した。つまり、彦火明命(アメノホアカリ)は、ニニギや神武天皇よりも古くやってきた存在である。

 この流れをみると、外の世界からやってきた人たちは、豊受大神、天彦火明命、神武天皇という三段階の順番になるのだ。

 神武天皇の即位は、日本書紀』に基づく明治時代の計算によると西暦紀元前660年2月11日ということになるらしいが、これは辛酉革命に基づくものである。辛酉革命というのは、1260年に一度の辛酉(かののとり)の年には大革命があるというもので、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとされた。

 しかし、豊受大神と羽衣伝説の関係、そして羽衣伝説と弥生時代のハイテク都市、奈具岡遺跡との関係をつなげると、豊受大神がやってきたのは、徐福伝説と同じ頃の紀元前200年前後となる。

 その後に天彦火明命(ニギハヤヒ)で象徴される人々がやってきて、その後が神武天皇ということになると、実在したかどうかはともかく、神武天皇が象徴する時代は、紀元前660年というのはありえず、おそらく紀元後となる。

 それぞれの時代は、タニハ(丹波、丹後、但馬)や近畿の地に大きな変化が起きた時期と重ねて考える必要がある。(つづく) 

  ピンホールカメラで撮った丹波、丹後の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world/kyoto