第1078回  日本の古層(24) 元伊勢と鬼伝説の大江山(3)

(前回の続き。)

 

 政治に陰陽五行道を取り入れた天武天皇の時代の頃に定められたであろう近畿の五芒星のことを前回の記事で書いたが、その五芒星のど真中、平城京の傍に日葉酢媛の御陵を含む佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)がある。

 紀元4世紀の後半から5世紀初頭の大和政権と関わりの深いこの古墳群を中心点として、伊勢神宮、丹後の皇大神社、淡路の伊奘諾神宮などの位置が定められ、近畿圏を取り囲むように呪符としての五芒星が作られた。

 しかし、この五芒星の中心点の佐紀盾列古墳群は、天武天皇の時代よりも200年ほど古いわけで、天武天皇の時代に、それ以前の古代の聖域が、再び重んじられたということになる。

 ならば、この佐紀盾列古墳群の位置はいったいどのように定められたのか?

 その時代の古墳の造営に携わっていたのは土師氏であり、その代表的人物の野見宿禰の”野見”は、”野”と”見る”という言葉の組み合わせで、古墳を作るにあたって、様々な条件を吟味した上での適当な地の選定という意味があるのだと、前回の記事で書いた。

 なので、佐紀盾列古墳群の位置もまた、考えに考え抜かれたものということになる。

 そこに隠された考えは、この地図から少し読み取れるような気がする。

f:id:kazetabi:20200111145603p:plain

 近畿のど真ん中、十文字が交わるところが日葉酢媛の御陵。そのラインの北が若狭媛、若狭彦神社、南が、熊野本宮大社を通って本州最南端の潮岬。  西北の斜め45度のラインの方角が、タニハの鬼退治の舞台で、久美浜の須田、日葉酢媛の母の土地。その逆の方向が、奈良の宇陀。水銀で有名な所だが、神武天皇八咫烏の導きによって、到達した場所。  日葉酢媛の御陵から西にのびるラインの西端の赤いマークが、鬼ケ嶽、その東に一丁ぐろ古墳、備前車塚古墳。青いマークは、西から鬼ノ城、造山古墳、吉備津神社。ライン上の神戸のところが西求女塚古墳。  日葉酢媛の御陵から西に斜め45度のラインは、藤井寺応神天皇綾、和歌山の日前宮。 このラインの逆方向にあるのは、岐阜の方県津神社、安曇野の八王神社。  日葉酢媛の御陵から真東が、三重県津市の安濃津、そして伊豆下田の伊古奈比咩命神社。藤井寺応神天皇綾の真西が仁徳天皇陵、真東が黒塚古墳。


 奈良の佐紀盾列古墳群から同緯度の真西に行ったところは吉備の国だが、この地図のポイントの一番西の端が鬼ヶ嶽で、その東が一丁ぐろ古墳、さらに備前車塚古墳があり、神戸の西求女塚古墳がある。この三つの古墳は全て前方後方墳で、北緯34.70で佐紀盾列古墳群と同じ緯度の上に並んでいる。

 一丁ぐろ古墳は吉備で2番目に大きな古い前方後方墳、そして備前車塚古墳と西求女塚古墳は、3世紀に建造されたと考えられるが、かつては卑弥呼の鏡と騒がれたこともある三角縁神獣鏡が大量に出土している。備前車塚は11面、西求女塚は7面。この二つの古墳よりも大量の三角縁神獣鏡が出土しているのは、ヤマトの地の黒塚古墳(33面)と椿井大塚山古墳(36面以上?)という、ともに3世紀の古墳出現期の建造の前方後円墳古墳で、それ以外の大量出土は、奈良の新山古墳の9面、福岡の石塚山古墳の7面と一貴山銚子塚古墳の8面くらいである。

 これらの古墳の中で、前方後方墳は、なぜか佐紀盾列古墳群と同緯度のライン上に位置する備前車塚古墳と西求女塚古墳だけである。

 前方後円墳は、大和政権の勢力下にある地域でのみ見られるが、前方後方墳は、前方後円墳に比べて圧倒的に数が少ない。東日本には多く存在するが、西日本では出雲から美作、播磨にかけての地域に多く存在する

 備前車塚古墳と西求女塚古墳のように、前方後方墳でありながら、椿井大塚山古墳や黒塚古墳など初期古墳の造営に関わった権力者の影響があるとみなされる三角縁神獣鏡が数多く出土している理由を、どう考えればいいのだろうか? 

 しかも、その二つの古墳が、第11代垂仁天皇から第13代成務天皇までの初期大和政権と関わりの深い奈良の佐紀盾列古墳群と、同緯度のライン上に位置しているのである。

 さらに興味深いことは、備前車塚古墳と一丁ぐろ古墳の間には、鬼ノ城がある。この地域は、吉備の鬼退治伝説の舞台となったところなのだ。

 伝承によると、温羅と呼ばれる鬼が、飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配した。温羅は地元に経済的な恵みをもたらしたものの、先住民と何かしらの揉め事を起こし、吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。

 この鬼ノ城の東10km、備前車塚古墳から西に12kmほどのところに吉備津神社が鎮座するが、そこが鬼退治の前線基地だったとされる。

 その鬼退治の後であろう5世紀前半、吉備津神社の西5kmのところに、全国では第4位の規模の巨大古墳(全長350m)、造山古墳が築かれる。

 さらにその50年ほど後の5世紀中旬、造山古墳の西3.5kmほどのところに全国10位の規模の作山古墳(全長282m)が築かれるので、この時期、ヤマト王権の支配が、完全に吉備に及んだと考えられる。

 日葉酢媛の御陵がある奈良の佐紀盾列古墳群の位置は、日葉酢媛の母の拠点、タニハ(丹波・丹後・但馬)に崇神天皇が派遣した丹波道主や、その父、日子座王の鬼退治と関わりが深いように思われるが、西方向の吉備においても、同じ崇神天皇が派遣した吉備津彦による鬼退治と関わりがあるような気がする。

 そして、鬼というのは、備前車塚古墳など前方後方墳と関わりのある人たちの可能性がある。

 また、佐紀盾列古墳群から北東の方角、現在の岐阜市方県津神社(かたがたつじんじゃ)があるが、ここの祭神は、なんと川上摩須郎女命なのである。日葉酢媛の母親を祀る聖域が、出身地の久美浜の須田から見て、ちょうど90度東側にも設けられているのだ。

 しかも、奈良の日葉酢媛の御陵と、この方県津神社を結ぶラインを延長すると、信濃安曇野の大王神社に至る。ここは、八面大王を祀るところだが、八面大王は、安曇野に伝わる鬼のことである。かつて安曇野を治めていたが、奈良時代後半から平安時代にかけて全国を支配下に置こうとする朝廷に征伐されて殺されたが、蘇りを恐れて身体をバラバラにされたという話が伝わる。八幡大王は、その後、安曇野の守り神になったとされる。(奈良時代よりも古い時代に、その物語の下地が古代にあったかもしれない)。

 そして、奈良の日葉酢媛の御陵から、安曇野とは逆方向にラインを伸ばしたところには、和歌山の紀ノ川下流日前神宮國懸神宮が鎮座している。

 この場所は、初代神武天皇の東征で、神武天皇がヤマトの地に入ろうとした時、激しい抵抗を見せた名草戸畔(なぐさとべ )の拠点である。名草戸畔もまた、殺された後、頭、胴、足が切り離された。

 日前神宮國懸神宮でもともと祀られていたのは五十猛神であり、この神は、樹木の神であるとともに、造船、航海安全、大漁の神である。つまり、海と深く関係している。

 現在、日前神宮國懸神宮は、かつて五十猛神が祀られていたであろう中心部(南向きの鳥居の正面)は閉ざされ、その両サイドに、日前神宮國懸神宮の二つの社殿がある。1つの境内に2つの神社があるという形をとっている奇妙な神社である。

 

f:id:kazetabi:20191111010849p:plain

日前宮の南向きの鳥居をくぐって歩いていくと、この部分にくるが、この先は閉ざされている。そして、この場所の右と左に別れて、日前宮と国懸神宮が鎮座して鏡を祭神としている。五十猛神は、この閉ざされた場所の先に祀られていたと考えられる。

 しかも、その2つの神社が、ともに鏡を御神体としており、この二つの鏡は、伊勢神宮内宮の神宝である八咫の鏡と同等のものとされ、そのため、日前と国懸の神は、準皇祖神の扱いをうけていた。

 もう少し詳しく説明すると、天岩戸の伝説のなかで、アマテラス大神を岩戸の外に導き出すために鏡が作られたが、最初に作った鏡は出来がよくなかったので用いられず、それが和歌山の日前神宮、国懸神宮に納められ、うまく出来た鏡が、伊勢神宮に納められたという物語になっている。

 つまり、日前神宮、国懸神宮は、伊勢神宮と同じバックグラウンドを持つが、権威になり損ねた存在ということになる。

 さらに五十猛神が、この場所から追い出されたのは、社伝によれば、第11代垂仁天皇年のことで、その後、現在は厳かな鎮守の森にすぎない「亥の杜」に遷座し続け、713年、亥の森の近く、現在の立派な伊太祁曽神社遷座し、名神大社となった。

f:id:kazetabi:20200111142712j:plain

第11代垂仁天皇の頃、日前宮から移され、奈良時代元明天皇の頃まで五十猛神が鎮座していた亥の森。

 

 713年というのは、これもまた平城京への遷都と『古事記』を完成させた元明天皇の治世である。

 海と関わりの深い五十猛神は、長いあいだ地元の人の間で地道に祀られていたのだが、五芒星の中心に都を移した元明天皇の時から国家レベルで尊重されるようになるのだ。

 もう少し地図を追ってゆくと、日葉酢媛の御陵から真西に進むと、三重県の県庁所在地の津市だが、ここは、古代、安濃津と称し、中央政権にとっても重要な港で、博多津、坊津(鹿児島県)とならんで日本三津(さんしん)に数えられていた。

 さらに、東に行くと、伊豆半島の下田に伊古奈比咩命神社がある。ここは、三嶋神の旧鎮座地(古宮)であるという伝承がある。

 現在、静岡県三島にある三嶋大社は、『延喜式神名帳に記されている場所の伊豆国賀茂郡とは違っている。伊豆国賀茂郡は、伊豆半島南部・伊豆諸島のことであり、伊古奈比咩命神社こそが本来の三嶋大社であるという説がある。

 日葉酢媛の母親、川上摩須郎女命の出身地の久美浜須田に、鉱山関係と思われる金谷という土地があり、そこにも三嶋田神社があり、川上摩須郎が崇敬していた。

 三嶋というのは、神武天皇がやってくる前にヤマトの地にいた豪族の名でもあった。

 神武天皇は、日向の地から東征に同行させた息子ではなく、ヤマトに入った後に結ばれた媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)との間に生まれた子を世継ぎとしたが、

ヒメタタライスズヒメは、出雲系とされる事代主と、摂津の豪族、三島ミゾクヒの娘のあいだに生まれた子である。

 三島ミゾクヒは、ミのつく耳神とも言われ、彦座王に征伐されたクガミミノミカサなどと同じく南方系の金属器と関わりの深い海人である可能性が高い。すなわち、弥生時代を拓いた海人、古代安曇氏かもしれない。

 また、奈良の日葉酢媛の御陵の真北の7kmほどのところは、京都府精華町で木津川のほとりであるが、ここは、崇神天皇四道将軍のもう一人である大彦命が、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)の反乱を鎮圧し、討ち取った場所である。

 武埴安彦命の妻の吾田媛(あたひめ)の吾田というのは、鹿児島の大隅半島を拠点にする海人で、阿多隼人として知られる。

 最後に、日葉酢媛の御陵から東南に伸びるライン上にあるのが宇陀。ここは、古代から水銀の産地として有名だが、熊野に上陸した神武天皇が、ヤタガラスに導かれて到着した所である。

 古事記によれば、この地には、エウカシ・オトウカシという豪族がいた。神武天皇は両者のところに八咫烏を派遣して服従するように伝えたところ、オトウカシは、この命令にすぐに従って側近となったが、エウカシは最後まで抵抗し、最後は殺される。彼の遺体は引きずり出され、切り刻まれてしまう。ちなみに、神武と導いた八咫烏は、三島ミゾクヒだとされ、下鴨神社の祭神、賀茂建角身命と同じだと考えられている。

 こうして見て行くと、日葉酢媛の陵の位置は、崇神天皇の鬼退治の場所、反乱を鎮圧した場所や、海人の拠点と重なる。

 初代神武天皇は、戦いの後、ヤマトの地にいた人々と婚姻関係を結び、和合した。

 神武天皇の世継ぎは、双方の血を受け継いでいるのである。

 これは、大国主命の国譲りの時も同じで、タカムスビの神は、「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と告げる。

 第10代崇神天皇の時の丹波道主命も、久美浜の豪族、川上摩須郎の娘を娶り、二人のあいだに生まれた日葉酢媛が、ヤマト王権の世継ぎとなっていくのである。

 戦いの後の和合の象徴として、日葉酢媛の御陵の位置が定められた。そのように想像してしまうほど、日葉酢媛の御陵と、鬼退治の舞台など先住民の拠点と、ラインで強く結ばれている。

 日本の歴史は、戦いの後、勝者は敗者を絶滅させたり、彼らの聖域を破壊するということを行わずに、たとえば婚姻という形で和合を行ってきた。だから、現在でも、時代ごとに異なる古墳が、16万とも20万とも言われる規模で残っている。

 大国主や初代神武天皇や第10代崇神天皇が実在したかどうかはわからない。しかし、彼らの物語の中には、日本の歴史の根幹の部分が象徴的に示されている。

 ちなみに初代神武天皇と第10代崇神天皇は、記紀による両者の敬称は、「はつくにしらすすめらみこと」、すなわち初めて国を治めた天皇ということで同じである。

  そして、5世紀、第15代応神天皇が即位する時、時代は大きく動く。中国の五胡十六国の混乱時代、治水感慨や織物など様々な技術を持った秦氏や、韓鍛治の忍海氏など新たな技術を持った渡来人が大挙してやってくる。

 応神天皇の母、神功皇后は、日葉酢媛の曽孫にあたる第14代仲哀天皇ヤマトタケルの息子)の皇子、忍熊皇子たちと戦って勝利する。

 大古墳の建造も、日葉酢媛の御陵のある佐紀盾列古墳群から河内に移る。

 しかしながら、その時もまた、興味深い和合の痕跡が象徴的に残されている。

 日本で2番目に大きな前方後円墳応神天皇綾は、日葉酢媛の御陵と、和歌山の日前・国懸神宮を結ぶライン上に位置しており、さらに、応神天皇綾は、応神天皇の息子の仁徳天皇綾(日本一巨大な古墳)と、それらよりも200年近く前に築かれ33面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳と、まったく同緯度の東西ライン上に位置しているのである。

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world