第1076回 日本の古層(22)  元伊勢と鬼伝説の大江山(1)

 京丹後の鬼伝説で知られる大江山の傍に鎮座する皇大神社は、元伊勢伝承地の一つである。

 元伊勢というのは、第10代崇神天皇の時、それまで宮中に祀られていたアマテラス大神を怖れた天皇の命で、この神の適切な鎮座地を求めて各地を転々としたことである。

 アマテラス大神は、皇祖神ということになっているが、崇神天皇がアマテラス大神を恐れたということは、この神が、自分の祖神でなかったということではないか。おそらく、アマテラス大神は、崇神天皇側との戦いに敗れた人たちの神様だった。古代の氏族間の戦いは、それぞれが祀る神と神の戦いでもあり、戦いに敗れた側は、自分たちが大切にしていた神器を勝利者に差し出した。そして勝利者は、敗者が祀ってきた神を祀るということが行われた。祟りを怖れたからである。

 崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)とともにヤマトの地を出たアマテラス大神は、その後、第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に引き継がれて各地を巡り、最終的に伊勢に落ち着くが、それまでの間に訪れた一時遷座地が、各地で元伊勢として語り継がれている。

 アマテラス大神に相応しい場所を探して各地を巡っているわけだから、もともとアマテラス大神を祀っていた人たちの拠点を転々とした可能性が高い。

 元伊勢伝承地は、丹後(丹波)、吉備、紀伊、近江、愛知、岐阜、三重に残されており、いずれも海や湖の近くや、内陸部では木津川や野洲川木曽川など河川流域で、海人が活躍していたところであり、とくに、伊勢湾、愛知、美濃、近江などは、壬申の乱天武天皇が戦いを有利に進めたところで、安曇氏の拠点である。

 *天武天皇の養育係であった丹後の凡海(おおあま)氏は、安曇氏である。  

 いずれにしろ、京丹後の鬼伝説で知られる大江山の傍の皇大神社も、そうした元伊勢伝承地の1つである。

 元伊勢伝承地は無数にあるが、この大江山皇大神社は、それ以外の伝承地に比べて、三重県伊勢神宮と共通するところが非常に多い。

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皇大神社の傍を流れる五十鈴川に鎮座する天岩戸神社

 たとえば、伊勢神宮の内宮の北4kmのところに豊受大神を祀る外宮があるが、大江山皇大神社も、南3kmのところに豊受大神社がある。

 そして、皇大神社のすぐ傍を流れる川が、伊勢神宮の内宮と同じ五十鈴川である。

 外宮に該当する豊受大神社が平坦地に鎮座し、内宮に該当する皇大神社が、樹々が生い茂る森の中に鎮座する構造も同じである。

 また、皇大神社の両脇に鎮座する摂社が、左に栲機千々姫社、右が 天手力雄命社であるが、これらは三重の伊勢神宮の内宮の御正殿において天照大御神とともに祀られている神々であり、その左右の配置も同じである。

 大江山皇大神社の傍を流れる五十鈴川沿いに、天岩戸神社が鎮座しているが、そこに向かう途中に、美しいピラミッド型の神奈備日室ケ岳を望む遥拝所がある。

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 日室ケ岳は、天照大神が神霊降臨された山として今でも神聖視されている。

 この遥拝所に立つと、夏至の日、日室ケ岳の山頂に太陽が沈む。日室ケ岳は、今でも禁足地であり、かつて登ったことのある人の話では、山頂には三角形をした「磐座」と、その周りに環状列石があるそうだ。

 日室ケ岳の山頂から真西に1.5kmのところ、大江山の森の中に鬼獄稲荷神社が鎮座する。また、皇大神社の南10kmほどのところにも鬼ヶ城がある。

 皇大神社周辺は、古代から鬼退治伝説として知られるところだ。

 大江山は鉄資源など鉱物の豊かなところで、鬼というのは鉱山関係者のことではないかと指摘する研究者は多い。大江山以外の場所、たとえば吉備の鬼退治の物語も含め、鬼伝説のあるところは、確かに鉱物資源と関係が深い土地が多い。

 そして、鬼伝説は、異なる時代に何度か生まれている。大江山がある京丹後の場合も、第10代崇神天皇の時代の日子座王聖徳太子の時代の麻呂子親王、そして藤原道長の時代の源頼光などが知られている。

 鉄という強力な武器を持つ豪族が、各時代において、中央政府の指示に従わずに激しい抵抗をしていたのだろうか。

 また、丹後の皇大神社の日室ケ岳の遥拝所と、日室ケ岳を結ぶラインの延長上に、久美浜町の須田という土地がある。(このラインを逆方向に伸ばしていくと、三重の伊勢神宮である。)

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大江山の元伊勢、皇大神社の日室ケ岳遥拝所と、日室ケ岳を結ぶラインの延長上に久美浜の須田の豪族、河上摩須良を祀る衆良神社がある。この一帯は王家の谷と呼ばれ、無数の古墳がある。

 そして久美浜の須田には、王家の谷と呼ばれる伯耆谷があり、これに沿って弥生式後期の遺跡があり、伯耆谷一帯には、無数の古墳が存在する。

 そして、この須田に、河上摩須良という豪族がいて、その娘と日子座王の息子、丹波道主王が結ばれ、日葉酢媛を産んだと、古事記に記されている。

 日葉酢媛というのは、第11代垂仁天皇の皇后であり、第12代景行天皇の母親、ヤマトタケルの祖母である。さらに、天照大神に最適な地を求めて各地を巡幸した倭姫命の母親である。

 日葉酢媛は、第15代応神天皇が現れるまでの大和王朝にとって、重要な役割を果たす人物なのである。

 また、丹波道主命と河上摩須良の娘とのあいだに生まれた娘たちは、日葉酢媛以外も垂仁天皇の妃となった。

 久美浜の須田の地には、河上摩須良を祭神とする衆良神社と、そのすぐ近くに河上摩須良が崇敬したとされる三嶋田神社がある。三嶋田神社の祭神は、現在は、大山祇命であるが、かつては、上津綿津見命表筒男命、すなわち綿津見と住吉という海関係の神も祀られていた。

 この地は、金谷と称し、かつては鉱山の関係者、即ち金屋集団が住んでいたとも言われ、南北朝時代には足利尊氏の庇護も受け、隆盛を極めた時代もあった。

 河上摩須良という人物がなにものであるか記紀とも明らかにしていないが、古事記』において、「綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている安曇氏の可能性が高い。

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丹波道主命を祀る久美浜の神谷神社。丹波道主命が身につけていたという宝剣【国見の剣】を祀っているため【太刀宮】と呼ばれる。この地には巨大な盤座があり、太陽や星の位置との関わりが指摘されている。この岩の裂け目は真北を指し、夏至の日、かぶと山から昇る朝日が、この磐座の中心を照らす。古代太陽祭祀の跡と考えられている。

 谷川健一は、『青銅の神の足跡』の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」と記述し、香住や久美浜など、日本海岸の地名にミがつく土地が多いことも、それと関係があると指摘している。

 『古事記』の中では、丹波道主命の父、日子座王が土蜘蛛の玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を征伐するために丹後に派遣されたと記述されている。

 しかし、『日本書紀』の中では、丹波道主命が、四道将軍の一人として丹波に派遣されたと記述され、土蜘蛛退治などの派遣の理由は記載されていない。

 そして、その『日本書紀』の中で、丹波道主命の娘の日葉酢媛のことは記載されているが、妻の具体的な記載はない。それに対して、『古事記』の中で、丹波道主命の妻は、河上摩須良の娘と書かれている。

 いずれにしろ、日子座王もしくは丹波道主命が丹後・丹波の地に派遣されたのは第10代崇神天皇の時である。上にも述べたように、崇神天皇は、天照大神の祟りを怖れた。そして、この大神に相応しい場所を求めた巡幸があり、最終的に伊勢に至った。

 その伊勢と、丹後の元伊勢の皇大神社を結ぶラインの延長上に久美浜の須田の地があり、丹波道主命がその地の豪族の河上摩須良の娘を娶り、日葉酢媛が生まれ、第11代垂仁天皇の妃となるのは偶然だろうか。古代史において極めて重要なことが、このラインに隠されている。  (つづく)

 

ピンホールカメラで撮った日本の聖域→https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world