第1106回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(9)

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山添村 神野山 鍋倉渓。真っ黒で重く硬い「角閃石斑れい岩」の巨岩が谷を埋め尽くす。

 

  1995年から本格的に発掘が進められてきたトルコのギョペクリ・テペ遺跡が、放射性炭素年代測定によって12000年も前のものであることが証明された。

 この地の神殿は、繊細な模様が刻まれた10トン以上の巨大な石柱が幾何学上に配置されており、高度な技術と叡智を持った人々によって築かれたと考えられている。

 この遺跡が古代エジプトなど従来の謎の古代遺跡と異なるのは、人間が農業を始める前に築かれていること。農業による富の蓄積で権力者が登場してから巨大建造物が作られるようになったという従来の説を覆し、純粋に宗教的目的だけを共有する人々が協力し合って大建造物を作っていたことだ。

 これまでの歴史の概念を覆す”事実”の登場に、歴史の権威学者達は沈黙しているが、調査は着々と進んでおり、歴史の教科書が書き換えられる日はそんなに遠くないだろう。古代エジプト文明よりも七千年も前に文明が存在していた。しかも、大河のそばではなく丘陵地帯の上に。

 世界の古代文明に比べて、日本の文明の曙は随分と後になると考えている人が多いが、日本の土器は、世界で最古級である。

 現時点において世界で最も古い土器の破片は、約2万年前のものが中国・江西省の洞窟遺跡で2012年に発見されているが、日本の大平山元(青森県)で発見された縄文土器の破片(約1万6500年前)も世界最古級とされている。しかし、これらは無文土器で、縄文土器の特徴とされる隆起線文土器は12500年くらい前に登場している。土器の表面に、わざわざ線状の文様をつけており、ギョペクリ・テペ遺跡の幾何学のように、この時代、何かしらの心の変化、精神文化が生じたということだろう。

 この縄文草創期の隆起線文土器は、北海道や南西諸島以外の日本各地で見つかっているが、奈良の大和高原の山添村の桐山和田遺跡でも見つかった。この遺跡は、現在、布目ダムの湖底にある。

 山添村には、ここ以外に名張川岸の大川遺跡や、遅瀬川右岸の上津大片刈遺跡からも、縄文草創期の遺物や約8000年前の押型文土器や住居跡などが発掘されている。

 桐山和田遺跡からは、初期の土器、石の矢じり、石斧が揃って発見されており、この三つが揃って出土している遺跡としては日本でも最古級で、さらに約12000年前から約6000年前までの長きにわたって人々の生活の痕跡を辿ることができる。

 現在から古代ピラミッド時代までが約5000年なので、6000年ものあいだ同じ場所で人々が営みを続けるというのは、現代人の時間感覚では理解できない。縄文時代は争いごとがなかったから、それが可能だったのだろう。

 山添村は、村おこしのためか観光に力を入れているようで、お役所を訪ねたら膨大なパンフレットをくれた。そして、村内に磐座がたくさんあることから磐座Mapを作成しているが、その内容がどうにもお粗末だ。

 たとえば観光の中心となっている神野山にある磐座(単なる岩にすぎないものも含めて)を線で結んで、アルタイル、ベガ、デネブ、アンタレスなど天の川周辺の星々と重ね合わせて位置が重なっていると主張しているが、星の配置が作り出す三角形と磐座の場所を結んだ三角形の形が厳密に同じではない。しかも磐座とは思えないただの岩盤も含まれている。その上で、神野山の頂上にある古墳について、山頂に古墳があるのは珍しいので天体観測所でないかと説明しているのだが、その説は、かなり無理がある。

 それはともかく、山添村に多く見られる磐座に注目しているにもかかわらず、縄文や弥生文化古墳文化、そして地元の伝承との関わりについて一切言及されていないことが残念だ。過去から伝えられている物語の真意を洞察せず、現代人の天体感覚(古代は、星の見え方も大きく異なっていたはず)を磐座にあてはめて理屈付けるのは、磐座に対する敬虔さが弱いとしか言えない。西暦2000年をすぎてから山添村に磐座保存会が出来ているようだが、磐座保存というのは、磐座の背景に流れている歴史こそを大切にするものでなければならない。

 約12000年前からの縄文文化の痕跡が見られる桐山和田遺跡から真東に行くと、名張川の川岸に、縄文草創期からの遺跡である大川遺跡がある。(北緯34.69)

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名張川に面した大川の縄文遺跡の周辺には巨岩が多いのだが、この岩尾神社は、その巨岩を神体石として古くから祀っている。

 布目川の桐山和田遺跡の周辺もそうだが、名張川の大川遺跡の周辺にも、岩屋神社をはじめ、多くの磐座が点在している。

 山添村を流れる名張川も布目川も北上して木津川と合流し、やがて淀川となって大阪湾へとつながる。今でこそ過疎の村だが、古代は、水上交通の要で、そこに草創期の縄文遺跡がある。

 しかも、山添村は、大和高原の真ん中に位置するが、大和高原は標高300mほどの高低差があまりない丘陵地隊で、西の奈良が標高100m、東の伊賀が標高200mで、遥か遠くまで眺め渡すことができる高天原のようなところだ。

 その実感は、山添村の神野山(618m)に登ると、より強く感じられる。この山の頂きに立つと360度のパノラマが広がっている。とくに印象的なのが南側で、大和富士と称えられる額井岳と、神武天皇の東征が終了した時に天神を祀ったとされる鳥見山のあいだの香酔峠が、まるで異界への門のように見え、その峠の向こう側が、金峯寺や天河弁財天社など吉野の聖域である。 

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真ん中の谷に見えるところが香酔峠。その左が大和富士と言われる額井岳。右が、鳥見山。その向こうが宇陀、吉野の山々。

 山添村の神野山の山頂には王塚があり、これは天体観測所ではないかとか、白鳥座のデネブを表しているなどと観光協会配布のパンフレットに書いているのだが、あまりにも根拠が薄い。

 そんなことよりも、この王塚に隣接して神野大明神を祀る社が鎮座して甕速日神(みかはやひ)を祀り、大塚が、昔から樋速日神(ひのはやひ)のものと語り伝えられているのが気になる。

 甕速日神樋速日神は、イザナミが死んだ時、怒ったイザナギカグツチの首を切り落とした時、十束剣の根元についた血が、岩に飛び散った時に生まれた神であり、その時に、国譲りに深い関係のある武甕雷男神タケミカヅチ)も生まれた。岩に付いた赤い血のイメージは辰砂(硫化水銀)を思い起こさせる。

 これまでのブログで書いた吉野の室生龍穴や京都の貴船神社の祭神、龗の神(おかみのかみ)も、カグツチの血から生まれ、水銀と関係のある神である。

 そして、神野山の山頂に祀られて神については、次のような伝承がある。

 古い昔、伊勢に熯之速日命(ひのはやひのみこと)という女神が住んでいた。あまりにも美しいため、男の神々が恋い焦がれていた。

 女神は、多くの男神の期待には応えられないと身を隠し、伊勢から熊野を通って吉野の山中に隠れ住んでいた。

 しかし、男神達は女神を探し求めて追いかけてきた。女神はさらに北に進み、山添村の神野山の弁天地に隠れたが、さらに男神達が追いかけてきた。たまりかねた女神は、一匹のオロチとなって男達の目をごまかそうとした。しかし男達は、オロチが自分たちの行く手を邪魔するものとみなし剣でしとめてしまった。するとオロチは、傷ついた女神の姿に変わった。男達は涙が涸れるまで泣き、神野山山頂に女神を祀った。

 さらに神野山には次のような伝承もある。

 昔、神野山の天狗と伊賀の青葉山にいた天狗とが喧嘩をし、青葉山の天狗は石塊を神野山の天狗に投げつけた。神野山の天狗は弱いふりをしてほうっておいた。青葉山の天狗はこれにつけこんで、手当たり次第に石塊や芝生をつかんで投げた。そのため伊賀の青葉山は岩も芝生もなくなり、禿山になってしまったが、大和の神野山は石くれが集まって、鍋倉谷ができたり、山頂が芝生になったりして、きれいな良い山になったという。

 神野山には鍋倉谷という黒い巨岩が埋め尽くす谷があるが、ここの石は、真っ黒で重く硬く「生駒石」と呼ばれて造園用石材や墓石として珍重されていた。専門用語では「角閃石斑れい岩」と呼ばれ、磁鉄鉱なども含む場合がある。

 この岩は地中深くで固まった火成岩で、大和高原一帯は同じ火成岩の花崗岩で出来ているが、角閃石斑れい岩は花崗岩よりも風化しずらく、神野山全体がこの硬い岩でできており、そのため、長い歳月をかけて、なだらかな円錐形の山として残った。

 この角閃石斑れい岩は、山添村周辺では、三輪山の南部や、宇陀の大和水銀鉱山のあたりにも広がっている。生駒山も含めて、いずれも古代からの聖域だ。

 山添村は、1500万年前、吉野の修験の聖地、大峰から大台ケ原を中心に起きたとされる巨大爆発の影響が及んでいる北限である。

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この地質図の紫部分が角閃石斑れい岩。左端上が生駒山。右下の広大な部分が、宇陀の地の大和水銀鉱山周辺。その上の帯状部分の左端が三輪山。そして、生駒から真東に行ったところ、右上端の飛び地になっているところが山添村の神野山。

 

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神野山の磐座。上:竜王岩。下:天狗岩

 さて、伊勢から熊野、吉野と逃れてきた女神は、神野山でオロチの姿となり刀剣によって殺されてしまった。これは一体何を意味しているのだろう?

 上に述べたように、神野山の山頂に立つと、吉野や熊野の地とこの地がつながっていることが強く実感される。

 伊勢と吉野と熊野の共通点は、”丹生”という地名が多いことである。また、丹生という土地は、熊野の龍神村など龍神との関わりも強い。

 また、樋速日神(ひのはやひ)と同じくイザナギによって斬られたカグツチの血から産まれた龗の神(おかみのかみ)は、丹生川上神社の祭神で、龍神でもある。

 そして神野山の北、12000年前から縄文人が営みを続けていた布目川沿いの桐山和田遺跡から西2kmのところに丹生神社があり、この一帯は古くから丹生と呼ばれてきた。

 興味深いことに、桐山和田遺跡から東に約5kmのところに吉備津神社が鎮座している。吉備津神社は、第10代崇神天皇の時の吉備国の鬼退治と関係の深い神社であるが、それがなぜここにあるのか? 奈良県内で吉備津神社山添村だけである。

 この吉備津神社御神体は巨大な磐座であり、『波多野村史』では、このご神体について「竜神が本来の神で、村人が祭祀を怠ると夜半に神前で鼓を打って警告を発すると云う」と書かれているそうだ。

 つまり、この地にはもともと磐座祭祀で龍神を祀る人たちがいて、おそらくそれが”丹生”の人たちで、鬼退治という形で討伐された。討伐した側は、強力な剣を作り出す技術があった。その剣は、鉄の純度を高めるため高温に耐えうる窯が必要だ。

 山添村の東、原初琵琶湖の硬い土が露頭している伊賀の地は、伊賀焼きでも知られる陶芸の里で、高温に強い窯づくりが可能だった。また原初琵琶湖の湖底地層には鉄資源としての褐鉄鉱も多く存在していた。だから伊賀には鍛治関係の伝承や地名が多く残っている。

 神野山の真東17kmも大村神社という古社が鎮座し、境内に古い古墳群が存在する。

 この地は木津川の上流域であるとともに伊賀と名張と伊勢を結ぶ交通の要所であり、奈良時代の740年、藤原広嗣の乱が起こった直後、不安と恐れを感じた聖武天皇が伊賀に行幸する際に宿泊した阿保頓宮のあるところで、その後、斎王が伊勢に向かう際に宿泊所となった。(伊勢行幸の後、聖武天皇はなぜか平城京に戻らず、恭仁京難波京紫香楽宮と遷都を繰り返す。)

 大村神社の祭神は、息速別命(いこはやわけのみこと)で、第11代垂仁天皇丹波道主命の娘のあいだに産まれた皇子である。

新撰姓氏録』によれば、垂仁天皇は、息速別命のために阿保の地に宮殿が築いた。

 奈良時代から平安初期にかけて活動し空海とも交流のあった修験僧の勝道上人は、日光山を開山したことで知られるが、彼の伝記『補陀洛山草創建立記(ふだらくさんそうそうこんりゅうき)』によれば、息速別命の子孫となっている。

 その伝記には、息速別命は縁があって東国に下向したが、罹病により一眼を損失し、そこに止まったとされる。谷川健一氏は、この伝承について、古代日本においては鍛冶神が多く隻眼とされていることなどから、息速別命と鍛冶職との関連を指摘している。

 さらに、伊賀の大村神社から西北に2kmほどのところに城之越遺跡がある。ここは見事な曲線美と水の流れを利用した4世紀後半の古代庭園があるところで、竪穴住居跡は29棟以上、掘立柱建物跡は50棟以上が確認されている。4世紀後半というのは、第10代崇神天皇の勢力が拡大していく時期で、その時、四道将軍による鬼退治も行われた。城之越遺跡から北西に4kmほどのところに鍛治屋という地名もある。

 また伊賀の地においては、伊勢国風土記の中で、伊勢津彦(出雲建子命)に対して強力な武器によって国譲りを迫る天日別命(アメヒワケ)の神話も残っている。

 息速別命とゆかりのある伊賀の阿保周辺は、4世紀後半、鉄の力を備えた集団(第10代崇神天皇に象徴されるヤマト政権)の勢力拡大と関係が深かった可能性が高い。

 山添村の天狗と伊賀の青葉山の天狗の喧嘩は、その時の確執と争いのことを物語っているのではないだろうか。それが後に、鬼退治という伝承に発展し、神野山に逃れたオロチの死ともつながっている。

 天狗の戦いで、伊賀の天狗は力づくで勝利したように思えたが、伊賀の土地は荒れ果ててしまった。強力な鉄製品を作るためには大量の木材を燃やすなど、自然環境に大きなダメージを与える。第10代崇神天皇の治世の時、厄災が多発し、それがオオモノヌシの祟りであったと記録されている。その祟りを鎮めるため、崇神天皇は、オオモノヌシを三輪山に祭り、それまでヤマトの宮中に置いていたアマテラス大神を祀るうえで相応しい場所を探し、そこに遷すことを命じた(豊鉏入媛と倭姫による元伊勢巡幸)。

 おそらく、アマテラス大神は第10代崇神天皇の祖神ではなく、崇神天皇との戦いに敗れた人たちが祀る神だったゆえに祟りをもたらし、崇神天皇はそれを畏れた。その結果、アマテラス大神は、ヤマトの地を出て最終的に伊勢に落ち着くのである。

 崇神天皇との戦いに敗れたのは、伊勢から逃れてきて神野山で殺されたオロチであり、伊賀の天狗に負けた神野山の天狗に象徴される存在だろう。神野山のオロチや天狗は、殺されたり負けたように見えるが、その神聖さは維持され続けた。つまり祭祀は生き残ったのだ。地上の勝利や栄華は幻のようにはかない。神野山の天狗のように弱いふりをして永遠に続く精神を勝ち取るという在り方が、現代人の私の心にも響く。

 神野山の山頂に祀られているオロチである樋速日命(ひのはやひ)は、上に述べたように、「古事記』においては、イザナギに斬られたカグツチの血が岩に散って産まれた神とされる。

 しかし、日本書紀の第六段一書(三)や、第七段一書(三)では、樋速日命(ひのはやひ)は、アマテラスとスサノオの誓約の際に、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)をはじめとするアマテラスの子の5神ととともに産まれたとされる。つまり、アマテラスの子は実際は6神で、そこに樋速日命(ひのはやひ)が含まれていたのだが、何かしらの理由で、そのことが隠された。

 ”速日”は、火が激しく燃える様を表わし、 燃え盛る太陽とする説もある。

 伊勢から熊野、吉野、そして山添村の神野山に逃れてきて殺されてしまうオロチ、樋速日命は、太陽神でもあったということだ。

 そして丹生都比売神社の社伝では、丹生都比売大神の別名が稚日女尊(わかひるめのみこと)とされるが、稚日女もまた日に仕える巫女の意で、アマテラス大神の別名「大日孁貴(おおひるめのむち)」に対応した神名だと考えられている。

 そのため、稚日女尊は、この神を祭神とする生田神社では、アマテラス大神の幼名であるとしている。いずれにしろ、日の妻(め)であり、伊勢、吉野、熊野に多くの聖所を持つ丹生都比売大神も、日の妻(め)だということになり、樋速日命(ひのはやひ)は、そこに連なる神なのだ。

 日の妻(め)は、龍神だった。この龍神は、かつての騒乱の際、殺される側だった。しかし、その後、国を治める祭祀の中心の神として復活することになった。それが、伊勢神宮に祀られるアマテラス大神である。伊勢は、日の妻(め)でもあるオロチが最初にいたところだ。

 山添村で12000年前から縄文文化が栄えていた桐山和田遺跡が眠る布目湖の湖岸に牛が峯という地域がある。この場所は、古来から「みやま」と呼ばれ神聖視されてきた一帯で、その山の頂上部に巨大な磐座群が鎮座している。

 「牛」を生き贄にして腹を切った時に流れでる血が「朱」の語源である。古代、祭祀で用いられる朱の色は、丹(硫化水銀)から得られた。

 牛が峯の山頂に屹立する磐座は、鏡のように表面が平らで、真西を向いているので、夕暮れには夕日を浴びて金色に輝いていただろう。

 そして、その磐座の下方にも巨大な磐座があり、ここは、別の岩が巨大磐座の底を受け止めて支えており、その空隙が岩窟となっている。

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牛が峯の頂きに鎮座する磐座。

  伝説によると、空海が当地で睡眠をとったところ、夢枕に大日如来が立ち、「牛ヶ峰を、仏の教えを説く霊場とせよ」と告げたという。

 そこで空海が牛ヶ峰の山中に足を運ぶと、そこには岩窟にふさわしい巨大な組石状構造物があった。これこそ霊場にふさわしいとして、岩窟を構成する上部の主石表面に、空海自身がノミとツチを用いて大日如来の像を刻み込んだ。大日如来を刻み終わると、空海はその「岩屋」の上方に屹立している巨大な立岩の上部に枡形の刳り抜きを作り、その刳り抜きの中にノミとツチを収めたという伝承がある。

 大日如来を刻んだ岩窟状の磐座と、ノミとツチを収めた枡形の磐座の二つは、この伝説から弘法大師信仰の聖地となり、岩屋寺霊場として近世の頃まで栄えていたという。

 岩窟状の磐座には、巨大な大日如来が刻まれているだけでなく、岩窟内に不動明王、そして入口には、高野山麓の丹生都比売神社や宇陀の室生龍穴と同じく善女龍王が祀られている。

 大日如来は、前回のブログでも書いたように、空海にとっては丹生の神に等しい。

 この二つの巨大な磐座は、もともと一つの巨大石で、二つに割れて一方が下に落ちたのだと考えられている。

 下の磐座の岩窟は二つに分かれ、それぞれ冬至夏至の時の日没の太陽が差し込むようになっており、上の磐座は、真西を向き、日没の太陽を受けて鏡のように輝く。

 そして、この磐座の真西のすぐ近くに丹生の地があり、そこから東大寺平城京生駒山大阪城(かつては石山本願寺。瀬戸内海からの荷揚げをする渡辺津)が、北緯34.69度できれいに並んでいる。

 また、牛が峯の磐座から東経135.99のラインを真南に進むと、神武天皇が大和平定の直前に天神地祇を祀った吉野の丹生川上神社であり、さらにその南は熊野三山の一つ熊野速玉大社で、その南が神倉神社である。神倉神社は熊野速玉大社の元宮とされ、その歴史は古い。120mの神倉山の山頂に鎮座するゴトビキ岩と呼ばれる磐座がご神体で、岩の周辺からは、銅鐸片など弥生時代の祭祀に関わる遺物が出土している。

 そして、牛が峯の磐座の真北は、琵琶湖の近く、弥生時代後期の遺跡としては国内最大級、30万㎡におよぶ伊勢遺跡がある。

 この遺跡は、大型建物が計13棟も発見されており、直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群で、中心部には方形に配列された大型建物が計画的に作られている。大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはない。しかし、人々の生活の跡が見つかっていないため、日常生活を送る場所ではなく、トルコのギョベクリ・テペのように祭祀を行う公共的な存在であったと考えられている。また、伊勢遺跡の南西1.2キロメートルの下鈎遺跡で金属器生産が行われていた。

 さらに伊勢遺跡の真北6kmの所に、縄文時代から鎌倉時代にかけて人々が住んでいた服部遺跡がある。ここは、60万㎡以上に及ぶ日本屈指の巨大遺跡で、広大な水田跡、約7万㎡にも及ぶ日本最大級の方形周溝墓群、数百の遺構や約100万点もの遺物が確認された。

 なぜこの場所に、伊勢や服部の地名があるのか。ここは琵琶湖に流れ込む川では最大の野洲川下流域である。野洲川沿いは、伊賀の服部川と同じく、原初琵琶湖が移動してきた道筋であり、服部川と同じく古代の象やワニの足跡が多く残り、その土は伊賀焼きと似ていて信楽焼でも使われるほど高温に耐えうる良質の土である。さらに褐鉄鉱の存在も確認されている。また、伊賀と同じく、アマテラス大神に相応しい場所を求める倭姫命の元伊勢巡幸の跡が多く残っている。

 いずれにしろ、伊勢も服部も、後からやってきた強力な武器を持つ集団とのあいだに確執があった名だ。

 さらに不思議なことに、古代、有数の水銀の産地であった伊勢の多気町の丹生水銀鉱山は、山添村の牛が峯の磐座から見て冬至の日に太陽が上る方向にあり、ここに丹生神社が鎮座する。その逆方向、夏至の日に太陽が沈む方向に大阪高槻の神服神社がある。ここは帯仕山の山すその服部盆地であり、ここも服部連の拠点だった。この一帯には、約50基もの古墳が群集する塚脇古墳群(古墳時代)が、また、神社の南側には大蔵司遺跡(弥生時代鎌倉時代)がひろがっている。

 山添村の牛が峯の磐座を中心にして冬至の太陽のラインで、伊勢と服部がつながっているのだ。これは一体どういうことなのだろう?

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大阪府高槻市の古くからの服部氏の拠点、神服神社

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東経135.99度のライン。上から、近江の服部遺跡、伊勢遺跡、山添村の牛が峯山頂の巨大磐座、神野山、吉野の丹生川上神社、熊野の神倉神社。北緯34.69度のライン。西から渡辺津(難波京石山本願寺大阪城となる)、平城京東大寺、丹生神社。また、山添村の神野山の真東に、鉄と関わりがある伊賀阿保の地の大村神社が鎮座。右斜め下が伊勢多気の丹生水銀鉱山、左斜め上が高槻の神服神社。この斜めのラインは冬至のライン。

 服部氏は、伊賀の服部川の周辺に大きな拠点があった。そして、その祖神は、山添村の神野山の頂に祀られている殺されたオロチ、樋速日神(ひのはやひ)なのである。

 大阪の高槻にある神服神社の由緒によれば、第19代允恭天皇の時、樋速日神の12世孫の麻羅宿禰(まらのすくね)の後裔の服部連が、全国各地で養蚕農業の指導にあたり、織部の統括者となったと伝えられているのだ。

 丹生都比売大神の別名、稚日女尊(わかひるめのみこと)は、高天原で機織をしていた時に、乱暴な須佐之男命に馬を投げ込まれたことが原因で死んでしまい、それがきっかけとなってアマテラス大神が岩戸に隠れてしまう。このエピソードにも、古代、機織り部門を担っていた服部氏が関係しているように思われる。

 伊勢と服部との関係で、一つ気になるポイントがあり、それは伊勢神宮皇大神宮(内宮)で祀られている神のことだ。

 もちろん主祭神はアマテラス大神であるが、その左右に合祀されている相殿神が存在する。左側が、天の岩戸伝説で岩戸を開けた天手力男神 (あめのたぢからおのかみ)で弓を神体としている。そして右側が、機織や織物に関係する栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、なぜか剣が神体なのだ。この神様は、天孫降臨のニニギの母親とされているが、その程度のことが、日本でもっとも大事にされている聖域の真ん中に祀られている理由になるとは思えない。

 一緒に祀られている天手力男神との関係で考えると、アマテラス大神が岩戸に隠れるきっかけになったのが機織りをしていた稚日女尊(丹生都比売神)の死で、岩戸から救い出したのが天手力男神ということになる。世界が真っ暗闇になるアマテラス大神の岩戸隠れと機織神が関係しており、伊勢と服部のつながりが、その線上にある。

 服部氏は、伊賀忍者服部半蔵で有名だが、世阿弥観阿弥もその血統とされる。

 伊賀出身の芭蕉とも関係が深く、芭蕉の弟子、服部土芳(はっとりとほう)が、『三冊子』、『蕉翁句集』、『蕉翁文集』の著書で、芭蕉の俳論、俳句を後世に伝えている。

 伊賀一之宮の敢国神社では、神事に従事する者が服部一族に限られ全員黒装束に身を固めることが厳格に守られる黒党(くろんど)まつりが、平安時代から行われてきた。

 そして、敢国神社においては、服部氏の守護神であるスクナヒコが、主祭神である四道将軍大彦命(オオヒコ)の配神として祀られている。

 大彦命は、埼玉の稲荷山古墳から出てきた鉄剣に刻まれた銘文に、この鉄剣の製作者の祖先として名が記されているように、刀剣の力が象徴された存在だ。

 服部氏は、その刀剣の力の前に屈したが、祭祀を通じて、この国の記憶の中に生き続けることを選んだのだろうか。

 大和高原の中央に位置する山添村は、琵琶湖、大阪湾、伊勢、吉野・熊野のヤマト圏のど真ん中である。そして、山添村の神野山からは、360度のパノラマで、南に吉野・熊野、西に生駒、北西に京都の愛宕、東に鈴鹿山脈が見渡せ、高天原のようなイメージの場所であり、その山頂にアマテラスの隠された6番目の子供である樋速日神(ひのはやひ)が祀られている。

 その樋速日神は、丹生とも関わる竜神であり、刀剣によって殺された神でもある。アマテラスの6人の子の1人であったが、なぜかそのことが隠されている。そして、その樋速日神(ひのはやひ)を祖神とするのが服部氏である。

 改めて、山添村の牛が峯の頂上の巨大磐座を中心としたラインのことをふりかえってみよう。

 二つの巨大磐座の下の磐座に、空海が刻んだとされる巨大な大日如来の像が描かれている。

 上にある巨大磐座は鏡のように表面が平で、西を向いて夕日を反射する。西は、胎蔵曼荼羅図では上部の釈迦院である。真理があまねく広がっていくことを示し、大日如来の化身として出現した釈迦や、歴史上の釈迦の弟子などが並び、人々に真理を語りかける。地図上では東大寺をはじめとする奈良の各寺院が、この方向にある。

 そして、南は、胎蔵曼荼羅では左部の蓮華部院で慈悲に関わっており、諸菩薩が清浄なる本来の心を悟らせる。地図上では、蘇りの聖地、熊野や吉野の方向となる。厳しくもあり寛容でもあるこの地の神々は、浄不浄や老若男女、身分の差もなく、全ての人々を受け入れてきた。

 北は、胎蔵曼荼羅の右部で、ここに金剛手院が位置しており、菩薩心を得るため、そして迷いを断つために必要な智慧と深く関係する。地図上では、琵琶湖の湖畔で縄文、弥生と続いてきた服部遺跡や伊勢遺跡の方向である。数千年を超える時間を身近に識ることは、現世の分別や迷いを卑小なものと感じさせる。また、琵琶湖は、日本海と通じ、新しい思想文化の入り口だった。

 最後に東は、胎蔵曼荼羅の下部であり、持明院が位置付けられる。諸明王が、人々の煩悩や妄執を根本から打ち砕く。地図上では、戦争の武器や農具を進化させる鉄製品の産地で、新旧勢力の戦いがあり、国譲り神話などが残る伊賀となる。そうした文明の成果は、現代でもそうだが、煩悩や妄執と、どう折り合いをつけていくかという問題に直面させる。

 こうして見ていくと、12,000年前からの縄文文化が栄えていた山添村の布目川流域の、牛が峯山頂の磐座に描かれた大日如来を中心として、胎蔵曼荼羅の世界が四方に広がっているようにも感じられる。

 トルコのギュベクリ・テペと匹敵する12,000年前という遥かなる昔からの人間の営みが、山添村を中心としたライン上に展開している。

 日本の古層の謎は、日本の精神文化と深いところでつながっている。

 世阿弥観阿弥芭蕉など服部氏と関わりの深い人々や空海は、その深層意識をしっかりと共有して、意識して、創造行為を行っていたのだろうか。

 

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