第1107回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(10)

 

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奈良県宇陀郡曽爾村、済浄坊の滝

 神話に事実が厳密に書かれているわけではない。神話は、大切なものを次世代に伝えていくために創り出された物語だ。

 神話は、その多くが口承によるものだったため、人間の記憶に頼らざるを得ず、人から人へと伝えていくうちに話の内容が大きく変わってしまう可能性がある。そのため、一度聞いたら忘れにくい物語に置き換える工夫がなされ、英雄物語や悲劇が発明された。

 だから、ヤマトタケル神武天皇など初期の天皇が実在していたかどうかを議論するのはあまり意味がないことで、古代人が、それらの物語を通して何を伝えようとしているのかを洞察した方が、歴史の核心に近付くことができる。

 奈良県宇陀郡曾禰村は、1500万年前の室生大噴火の影響を受けた地勢が非常に印象的な場所であり、山々の光景を見るだけで別世界に彷徨いこんだような不思議な感覚になるが、この地にも、気になる伝承が残されている。

 1つは、現代の曾禰村が、”ぬるべの郷”をキャッチフレーズにする元になっている物語で、平安時代末期に成立した色葉字類抄という古辞書のなかの「本朝事始(ほんちょうことはじめ)」に書かれている内容である。

 ヤマトタケルが、宇陀の阿貴山で狩猟をしていた時、大猪に矢を射たが、止めを刺すことができなかった。部下(てした)の1人がそれならばと、漆の木を折ってその汁を矢先に塗り込めて、再び射ると、見事に大猪を仕留めることができた。塗りの木汁で手が黒く染まった皇子は、部下の者に命じてその木汁を集めさせ、持っている品物に塗ると、黒い光沢を放って美しく染まった。そこで、その地を漆河原(現・大宇陀町嬉河原)といい、漆の木が自生している宇陀郡の奥、曽爾の郷に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いた。

 この物語をもとに、曾禰村は、当地を漆文化発祥の地と位置付けている。

 平安中期に作られた『和名抄』にも、曽爾村と、その南隣の御杖村が、「宇陀郡漆部郷」と記されている。

 しかし、漆の歴史は縄文時代に遡ることはよく知られているので、ヤマトタケルの伝承が、漆文化の発祥のことではなく、武器としても重要な漆を大和朝廷が管理するようになったことを伝えているのであろうと、少し考えればわかる。

 2011年、福井県若狭町の鳥浜貝塚で出土したウルシの木片が世界最古の約1万2600年前のものだと判明した。

 また、北海道函館市の垣ノ島B遺跡から出土した約9千年前の装飾品が、世界最古の漆製品とされている。日本の縄文文化は、土器もそうだが、漆もまた世界最古級なのだ。

 このことはとても重要なことで、なぜなら土器や漆製品を作り出した人たちは、おそらく土器や漆の分野だけが得意だったということはあり得ない。なぜなら、土器にしても漆製品にしても、複合的な知恵を組み合わせて製作が可能なものだからだ。そして、複合的な知恵を組み合わせる力を備えていたということは、必ず、他の分野にも応用される。

 たとえば木の樹液から得られる漆にしても、その使用は、器を彩ることに限定されない。 

 漆は、木製品に塗って耐久性を増したり防水効果を発揮するが、それだけでなく、強力な接着剤効果があるし、抗菌性があり腐食を抑える。また、その性質を利用して薬にもなる。漆は、古来から実に様々な用途に使われていたのだ。

 日本の縄文文化の中で、世界最古級の土器や漆製品が発見されているのは、それらの製品が、その物自体の性質として何千年もの歳月を経ても分解されずに残るからだ。エジプトなど有名な遺跡が多く残る乾燥地に比べて、日本の湿潤な風土のなかでは、多くの物が簡単に朽ちてしまう。日本において高度な漆製品や土器が作られた時代に作られていた他の多くのものは、長い歳月を経て簡単に朽ち果ててしまったのだろう。

 多くの古代文明が現在の乾燥地に位置しているが、それらの地域は遺物を長く保存するための環境条件が整っていただけであり、古代文明が、それらの地域だけで発展していたわけではないと思う。

 世界でも最古級、約9000年前に作られた北海道函館の垣ノ島B遺跡の漆製品は、埋葬者の副葬品の衣服だが、頭から膝にかけておおわれた繊維が赤色に染められており、漆と、赤色を発色するベンガラを焼いて混ぜたものだ。

 そして、そこからわずか2kmほどの大船遺跡は、縄文中期(約5000年ほど前)の遺跡だが、膨大な数の石皿が発見されており、それらは木の実などをすり潰すものとされているが、当然ながらベンガラなど鉱物色素を作り出すためのものでもあり、色素の大量生産が行われていたということになる。石川県や福井県などからも、5、6千年前の真紅の漆塗りの精巧な櫛が出土している。

 また、装飾用としてではなく、漆の接着剤効果は古くから知られており、貝塚な どから出土する石の鏃のつけ根部分に漆が付着している場合がある。矢を作る時、木の棒の矢柄の先端に鏃を固定させなくてはならないが、その時に、漆の接着効果がとても重要だった。

 矢柄に鏃をつなぎとめる際、植物の蔓で縛り付けるだけでは頼りなくて、獲物に刺さる時に矢の威力が半減する。植物の蔓で縛った後に漆で固めることで矢先は強靭になる。漆は、一旦固まると、紫外線に晒すことさえしなければ劣化しないのだ。

 曾禰に伝わるヤマトタケルの伝承を振り返ってみると、「大猪に矢を射たが止めを刺すことができず、それならばと、漆の汁を矢先に塗り込めて再び射ると、見事に大猪を仕留めることができた。」とあるのは、矢の先端の鏃の固定に用いられた漆の接着効果のことを伝えている。

 そして、弓矢というのは、古代において極めて重要な武器だった。刀剣よりも大量に生産ができ殺傷力も十分だった。とすれば、その弓矢の威力を高める漆資源は、武器として重要だということになる。

 古代日本において、朝廷により漆の生産を管理するために「漆部造(ぬりべのみやつこ)が置かれたのは、武器の管理がとくに必要だったからだろう。

 3世紀末に書かれた魏志倭人伝において 卑弥呼が治めていた邪馬台国の軍隊の武器について、「兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」という文章がある。

 武器には矛・盾・木製の弓を用いていて、弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃やじりがついていると書かれている。

 また、飛鳥時代物部氏蘇我氏が台頭するが、物部氏は、同族に弓削氏という弓矢を統率する氏族がいたように、弓矢と関わりが深かった。

 蘇我氏物部氏の戦いについて、『日本書紀』巻第二十一によると、587年に漆部造兄(ぬりべ の みやつこ あに)が他2名とともに、物部守屋の使者として蘇我馬子のもとへ派遣されたと記されており、漆部造は、物部氏と関係があったことが伺える。

 そして、蘇我氏物部氏の戦いは、当初は、弓矢の力に勝る物部氏が優勢だった。

 その状況を見た蘇我馬子は、物部氏随一の弓の名手であった迹見赤檮(とみのいちい)を引き抜いて味方につけた。その迹見赤檮が物部守屋を射落とし、総大将を失った物部氏の軍勢は総崩れとなって大敗した。

 そして、日本に律令制が定着すると軍隊の主力は弓となり、武官は騎射、歩射の成績が勤務評定で重視されることとなった。また、儀式への参列にも弓矢を携えることが定められるようになった。

 そして、弓矢は、邪気払いとも深く関係している。

 現在の節分の豆まきは、もともと宮中で大晦日に悪鬼疫病を追い払う儀式、鬼やらいで、奈良時代初期、文武天皇の時に中国から伝わったとされる。

 (もともとは立春が新しい年の始まりだったので、節分の時期が大晦日ということになる。)

 元来の鬼やらいは豆を使わず、鬼の仮面をつけた者を桃の木を使った擬似的な弓矢で追い払うものだった。桃太郎の”桃”は、中国で悪鬼を払う呪力ある木と考えられていた。

 その宮廷儀礼に、豆を焼いてその年の吉凶を占う豆占いや、自分の厄を豆に移して辻(現世と来世との境界)に捨てる厄落としの民間習俗が重なったのが、現在にも伝わる「鬼は外、福は内」の節分の習俗だ。

 また、馬に乗って矢を射る流鏑馬の起源は、第29代欽明天皇の御世、国の内外が戦乱のため、心を痛められた天皇は、これを平定するに先立ち、豊前の国、宇佐の地(宇佐八幡宮の鎮座地)に神功皇后応神天皇を祀られ、神前で、天下平定・五穀成就を祈られて、馬上で三つの矢を射られたのが起源とされる。

 現在でも、毎年1月12日に、京都の伏見稲荷では、矢を射ることで邪気を払う神事、奉射祭が行われるし、島根県太田市物部神社の奉射祭(ぶしゃさい)では、氏子らが「鬼」と書かれた的を矢で射て無病息災を祈願する。

 これらのことからわかるように、矢は、こちらの世界と鬼の世界との境界と関わっており、その矢は、漆の接着効果があってこそ威力を発揮する。

 山々の姿が印象的な曾禰村で、とりわけ目を引く鎧岳の麓に門僕(かどふさ)神社という古社が鎮座している。

 現在の主祭神天津児屋根命だが、「惣国風土記」では、ヤマトに征伐された隼人の祖の火蘭芹命(ほのすそり)を祀ると書かれ、実際のところ詳しくはわからない。また、生贄を象徴する神事も今に伝えられている。

 その参道の案内に、「鍫靫を奉納すとあり今にその先金●●を伝承する古社」とある。●●は、謎の象形文字だが、文字の形からして鏑矢に使われる鏃の雁股に似ている。

 それはともかく、鍫靫の靫(ゆぎ)は、矢を入れる武具だ。そして、当社の宝物として、鉄製武器(鏃・鏑矢・鉾尖)と書かれている。

 いずれにしろ、”ぬるべの郷”の真ん中に鎮座するこの古社が、武器と関係するものであることは明らかだ。

 しかし、それらの武器に象徴される勢力は、もともとこの地にいたのではなく、後からやってきて支配するようになったのだろうと思う。

 神話の中で、ヤマトタケルは、宇陀の阿貴山で狩猟をしていた時、大猪に矢を射たが、止めを刺すことができなかったが、漆を矢先に塗りこめることで、大猪を仕留めることができたとあるが、宇陀の阿貴山というのは、曾禰から25kmほど西に行ったところの宇陀の嬉河原であるとされる。

 その場所には、屑(くず)神社という古社がある。吉野の国巣という先住の人たちがルーツとされるが、日本書紀の中で、国巣の人たちは、純朴で、山の菓やカエルを食べるなど古い習俗を残し、大和朝廷から珍しがられた存在だったと記されている。

 そして、その屑神社で祀られているのが、道返之大神(ちかへしのおほかみ)と衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)である。これらの神は、黄泉から逃げ帰るイザナギが、追ってくるイザナミに対して、これ以上来るなと言って投げ捨てた”杖”と、黄泉と現世のあいだを閉ざすために置いた”大岩”が元になった境界の神、塞の神である。

 そして、ヤマトタケルが、この屑神社のある宇陀の嬉河原の大猪を漆で補強した矢で仕留めた後、曽爾の郷に「漆部造」(ぬりべのみやつこ)を置くことになるのだが、曾禰の南隣の御杖村に御杖神社が鎮座しており、御杖村も、古代においては曾禰の地に含まれる。

 その御杖神社に祀られているのが、久那斗神(くなど)、八街比古神(やちまたひこ)、八街比女神(やちまたひめ)で、イザナギが黄泉から逃げ帰って禊をする時に生じる神々で、境界を守り、邪悪なものを祓う塞の神である。

 そして、なぜ”御杖”なのかというと、この曾禰の地は、倭姫命がアマテラス大神を祀るうえで相応しいところを訪ね歩く元伊勢巡幸の伝承地であり、倭姫命が、この地に杖を残したとされているからだ。黄泉の国でのイザナギの場合、追いすがるイザナミを追い払うために用いられたのが杖だった。杖には、邪霊を防ぎとめる効果が期待されているのだろう。

 前回のブログで、アマテラス大神は、もともとは皇室の祖神ではなく、第10代崇神天皇の時に鬼退治された人たちの祀る神で、そのため、崇神天皇の治世においてアマテラス大神の祟りがあり、それを怖れた崇神天皇によって、アマテラス大神を祀るうえで相応しい地を求めて(鎮魂のため)、倭姫命が巡幸したのではないかと書いた。

 御杖村のある曾禰の地も、鬼退治と関係ある場所の一つということだろう。

 そして、ヤマトタケルの大猪退治と関連する宇陀の地の屑神社と、曾禰の地の御杖神社は、ともに塞の神を祀っているが、北緯34.49度と東西のライン上に並んでいる。しかも、この北緯34.49というのは、神武天皇がヤマトを平定して宮を築いたとされる畝傍山橿原宮)、すなわち藤原京と同じなのである。さらに東に行くと、伊勢神宮豊受大神を祀る外宮の別宮、月夜見宮である。

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北緯34.99度のライン、左から橿原宮藤原京)、宇陀の嬉河原の屑神社、曾禰の御杖神社、伊勢神宮外宮(トヨウケ大神を祀る)の別宮の月夜見宮。縦軸の左は東経135.98度のライン、上から服部遺跡、伊勢遺跡、牛ヶ峯岩屋桝型磐座、丹生川上神社、熊野の神倉神社。右は、東経136.19度で、下から御杖神社、伊賀の服部川の真泥(原初琵琶湖の湖底であり、高温に耐える窯づくりに使われた粘土の産地)、東近江の服部町。ここから東に1.8kmのところに日本最古の前方後方墳、神郷亀塚古墳があり、西に1.2kmのところに弥生時代の巨大な鍛治工房跡が発見された稲部遺跡がある。この服部町は、愛知川の河岸であり、愛知川の上流に日本最古の土偶の一つが発見された滋賀県相谷熊原遺跡 がある。前回のブログで書いたように、日本の最深部の古層に、服部の存在が関わっている。


 そして、曾禰の御杖神社と橿原宮のあいだが38kmで、そのど真ん中が、前回のブログで書いた、12500年前の隆起線文土器が発見された桐山和田遺跡のある山添村の布目湖の湖岸、牛が峯山頂の巨大磐座を軸としたラインである。この東経135.98度の南北のラインには、日本最大級の弥生時代の祭祀都市である伊勢遺跡や、縄文時代から鎌倉時代までの遺構が残る巨大な服部遺跡、そして、熊野南端の神倉神社(ゴトビキ岩)、神武天皇がヤマト平定の前に天神地祇を祀った丹生川上神社が並んでいる。

 この不思議な合致のことはともかく、ヤマトタケルの大猪退治の神話に関係ある二つの場所が、ともに塞の神を祀る場所であり、しかも、曾禰の地に、倭姫命が、邪霊を防ぐ杖を置いた伝承があるのは重要なポイントだ。

 宇陀の嬉河原は、古くから日本最大級の水銀鉱脈がある地域で、そこに鎮座する屑神社は、吉野の国栖がルーツで、純朴で山の菓やカエルを食べるという人々がと関わりがあった。そして、もう一方の曾禰には、どういう人たちが住んでいたのだろう。

 このあたりも、かなり古くから人々が営みを続けていたことは間違いなく、御杖村から東に18km行ったところの粥見井尻(かゆみいじり)遺跡からは、13000年前〜9000年前の竪穴住居群がある。竪穴式住居じたい、これほど古い時期のものは全国的にも発見例が極めて少ないが、ここからは日本最古、13000年前の土偶が見つかっており、女性の上半身をかたどったものだ。その後、近江の相谷熊原遺跡でも同じ時期の土偶が発見され、この二つの縄文遺跡が、現時点では日本最古の土偶の出土地とされる。

 相谷熊原遺跡は、愛知川の上流にあり、愛知川を下ったところに服部の地があり、そこに日本最古の前方後方墳や、弥生時代の巨大鍛治工房が発見された稲部遺跡がある。その服部町は、曾禰の御杖神社の真北にあたり、同じライン上に伊賀の服部川の真泥があり、ここが原初琵琶湖の湖底で、その土が、鉄の質を高めるための高温に耐えうる窯づくりに利用された。

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13000年前の日本最古の土偶(左)三重県粥見井尻遺跡(右)滋賀県相谷熊原遺跡 

*発掘調査資料より

 曽爾村の中にも、縄文時代の遺跡がたくさんあり、土器のかけらや矢尻を畑で見つけた農家も少なくないそうだ。

 現代人である私たちが見ても心惹かれる場所というのは、古代人も同じであり、とくに縄文遺跡はそのほとんどが眺望がよく、遠くまで見通せるような場所にある。

 曾禰村の風景は、とても魅力的で、古代人も何かしら神聖なものを感じたであろうことは間違いないが、その中でも鎧岳の天に突き刺すような山容は、一度目にしたら忘れられない。

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左は兜岳、右が鎧岳、女山、男山と、古くから崇められていた。

 この山もまた、吉野や宇陀から伊賀の名張山添村一帯にかけて独特な地勢を作り上げた1500万年前の室生大爆発の影響によって形成された。

 この鎧岳の麓に鎮座しているのが、上に述べた門僕神社だが、山の懐深くに、皇大神社と、金強稲荷神社が鎮座している。

 皇大神社は、伊勢神宮の内宮と同じでアマテラス大神を祭神とする現代の日本人でも馴染みの深い神社である。

 鎧岳においては、この皇大神社は金強稲荷神社までの長く険しい参道にあり、神社そのものは小さなものだが、その場所が遥拝所のように素晴らしい。北に目前に鎧岳が聳え、東と南と西は広々と開けている。つまり、太陽の動きが確認できる。おそらく、昔から何かしらの祭祀が行われていたのは間違いないと思われる。

 そして、ここからさらに険しい山道を登っていき、垂直にそそり立つ鎧岳の岩盤、柱状節理がそのまま御神体となっている場所に、金強稲荷神社がある。

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金強神社への長い参道の途中、皇大神社が鎮座する遥拝所から見上げる鎧岳。

 

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鎧岳の柱状節理が、金強稲荷神社の御神体である。

 稲荷神社は、現世御利益の神様として日本中どこにでもあって珍しくもなんともない。しかし、京都の伏見稲荷神社のように全国から商売繁盛を願って参拝に来る人が大勢いて、御利益は大変あるのだけれど、祈願が成就した後きちんとお礼をしなければ酷い目にあうということは認識されている。つまり、この神は祟り神であることを承知のうえで、大切に祀られている。

 そして、鎧岳の最奥にある金強稲荷神社そのものは、実はそんなに古くなく、明治の初め頃、村人たちの1人が白い蛇を見たり、村人の大勢が白狐の夢を見たなどということがきっかけで、稲荷を祀れという神託を受けて社が作られたようだ。

 鎧岳の山容そのものが御神体であり、ずっと以前から何かしらの原始宗教があっただろうことは想像できるが、なにゆえにこの山の奥に稲荷なのか。

 稲荷の神様は、ウカノミタマであるが、豊受神(トヨウケ)や保食神ウケモチ)など、”ウケ”の神と同じとされる。これらの神は、記紀神話で食物神として登場する。

 稲の神である稲荷神と同神として、稲荷神社に祀られることが多い保食神ウケモチ)は、日本書紀』において次のように描かれる。

 高天之原の天照大神の命を受けて、月読尊が葦原中国保食神のもとを訪れると、 保食神は口からいろいろな食物を吐き出してもてなした。月読尊はそれを「穢しい」と怒って保食神を殺してしまう。天照大神はこれを怒って月読尊と仲違いし、昼・夜を分けもち別れて住むようになった。

 大和朝廷の人たちは、吉野の国栖の人たちが食べているものを珍しがったという話があるが、ツキヨミに殺されてしまった保食神と関係のある人たちも、大和朝廷と習俗が違っていたのかもしれない。

 しかしそれだけでなく、大和朝廷の人たちは、新しい知識文化や技術を備えていたかもしれないが、どうにも体裁にこだわる分別が強いとも言える。美味しければそれで十分なのに、作り方が汚いからという理由だけで殺してしまうなんて。

 保食神以外にも、たとえば、天孫降臨のニニギに対して、オオヤマツミ神が、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの2人の娘を嫁がせたが、ニニギは、イワナガヒメが美しくないという理由で父親の元に返してしまう。それに対して、オオヤマツミ神は、コノハナサクヤヒメを嫁がせたのは、天孫が花のように繁栄するように、イワナガヒメを嫁がせたのは岩のように長く続くように誓約を立てたからだと怒った。

 天孫とされる人たちは、どうやら現代の私たちと似た分別を持っている。

 かつては、天孫とは違う価値観を持っている人たちがいた。オオヤマツミ神や保食神など黄泉から逃げ帰ったイザナギが禊をする以前に生まれた神は、異なる価値世界に生きていた人たちの神だった。

 だから彼らは鬼とされ、彼らとのあいだに分別の境界線が引かれた。しかし、その後、祟りを恐れる人たちによって、それらの神も丁重に祀られるようになった。

 保食神に対するツキヨミの行為を非難したアマテラス大神は、イザナギの禊の後に生まれた神と位置付けられているにもかかわらず、古い神様たちと通じるものがあるようだ。

 アマテラス大神は、もともとは鬼とされた人たちの神様だった可能性がある。

 アマテラス大神を国家神とし、伊勢神宮を特別に重視し、『古事記』の編纂を命じたのは天武天皇だ。

 天武天皇は、アマテラス大神の加護を受けたから壬申の乱(672)に勝利できたので、この神を重要視したとされる。しかし、加護を受けたという伝承は、困った時の神頼みという程度のことではないだろう。

 天武天皇は、壬申の乱が始まる前、吉野に隠れ、国栖(くず)の人たちと交わっていた。国栖の人たちは丹生とつながる鉱山の採掘者たちだったように思われる。吉野から伊勢にかけて丹生という場所が多くあるが、おそらく丹生が、アマテラス大神と深く関係があったのだ。

 そして天武天皇と対立した天智天皇の息子の大友皇子が近江を拠点にしていたのは、吉野や伊勢の勢力とは別の、琵琶湖を中心とする勢力と近い関係にあったからだと考えられる。

 しかし、壬申の乱で勝利した後、天武天皇は、分裂している日本を一つにまとめる必要があった。当時、日本は白村江の戦い(663)で唐と新羅の連合軍に大敗し、海外からの脅威に晒されていたからだ。

 天武天皇は、古来の神の祭りを重視しながらも、アマテラスを中心とする国家祭祀を整え日本人の民族意識を高めるとともに、天文学陰陽道など大陸から輸入した最新の科学や思想を組み込み、富国強兵を行い、急速に律令国家を作り上げていく。150年前、武家と公家の戦いを経て実行された明治の改革のように。

 曾禰村とか御杖村は、今でこそ山岳部のローカルな場所というイメージを持たれているが、古代においては、奈良と伊勢を結ぶ最短の伊勢本街道沿いの地域だった。

 奈良から宇陀を通り、曾禰、御杖、そして13000年前の土偶の発見された三重県粥見井尻遺跡も同じ道沿いなのである。漆にまつわるヤマトタケルの大猪退治の伝承地、宇陀の嬉河原と曾禰(御杖神社)が東西の同じライン上で、ともに境界の神を祀っているのも、単なる偶然ではない。

 

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ヤマトと伊勢を結ぶ最短の道、伊勢本街道沿いの拠点。西から大和三山に囲まれた藤原京ヤマトタケルが矢の先端を漆で補強して大猪を仕留めた宇陀嬉河原の屑神社、大和水銀鉱山、漆部の置かれた曽爾の御杖神社、13000年前の土偶が出土した粥見井尻遺跡、多気の水銀鉱脈地の丹生神社、同じく水銀鉱脈の地の佐那神社(祭神はアメノタヂカラオ)、伊勢神宮外宮。伊勢本街道沿いに古代の水銀の大産出地が三つも含まれ、漆に関連する二つの地に境界の神(塞の神)が祀られる。この道沿いに13000年前からの縄文遺跡も含まれており、かなり古代から使われた道の可能性が高い。下の二つのポイントは、西が、壬申の乱の前に天武天皇が隠れた吉野の国栖、東が、神武天皇がヤマト平定の前に天神地祇を祀った丹生川上神社

 

(つづく)

 

 

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