第1132回 国生み神話や国譲り神話と、「いかるが」の関係。

 ここ数ヶ月、近畿に6箇所ある「いかるが」の地を探索してきた。

 「いかるが」と聞くと、法隆寺のある奈良の斑鳩を思い浮かべる人が多い。

 そして、奈良の法隆寺以外に「いかるが」という地名があると、法隆寺を作った聖徳太子との関係だろうと整理されてしまう。

 しかし、近畿に6箇所ある「いかるが」の地で、法隆寺が、一番古いわけではない。

 たとえば大阪府交野にある磐船神社の周辺も、「いかるが」である。ここは、記紀において、「饒速日命、天の磐船に乗りて天より降りませり。大和に入らんとして天翔り空翔リ河内国嗜ヶ峰に天降りつ」と記された嗜ヶ峰(いかるがみね)の場所だとされている。

 神武天皇が日向からヤマトの地に至った時、物部氏の祖神である饒速日命ニギハヤヒ)は、ヤマトの豪族、長髄彦の味方であったが、長髄彦を殺して神武天皇に従う。その時、自らも天孫神であることを示している。その饒速日命が降臨したとされる交野の「いかるが」の歴史は、法隆寺よりもかなり古い。

 ゆえに、「いかるが」の地は、法隆寺以前から特別の意味を持つ地名であり、法隆寺もその中に組み込まれたと考えた方が自然だ。

 このブログの第1119回 「いかるが」背後にあるもの⑵の冒頭でも書いたように、”いかる”は、洪水を意味する「いかりみず」ともつながり、また感情が溢れ出す怒りであり、それは怨霊や祟りともつながってくる。

 結論から先に述べると、「いかるが」の地は、古代から氾濫を繰り返してきた大河のそばであること。そして、その大河は、災いだけをもたらしたのではなく、農耕などにおける恵みでもあるし、さらに重要な交通路でもあった。渡来人は、大河を通って移動し、新しい技術をもたらした。また、鉱物資源、陶器、木材など、陸路では運びにくいものは、大河があることで、都など様々な地域へとは運ぶことが可能だった。

 西播磨の「いかるが」である揖保郡太子町は揖保川の流域で、揖保川因幡街道をたどれば、古代、早くから渡来文化がもたらされた鳥取因幡とつながっている。そして、揖保川の上流部は、宍粟や佐用など鉄の産地である。

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西播磨の「いかるが」、揖保川流域の太子町の斑鳩寺。

 

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播磨の「いかるが」、加古川流域の石切場に鎮座する生石神社。この竜山石は、仁徳天皇陵をはじめ、大王の石室に使われてた。

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交野の「いかるが」、磐船神社ニギハヤヒが降臨したとされる。



 そして、播磨の「いかるが」とされる鶴林寺加古川の流域であり、加古川の上流部の氷上は、太平洋側から日本海側に抜ける道としては日本でもっとも低い分水嶺で、標高100m弱でしかなく、氷上の地で由良川にアクセスして若狭湾へとつながる。

 また、加古川の支流の杉原川は、谷川健一氏が指摘しているように鉱物資源が豊富な地で、さらに、由良川流域には、大江山など鉄の生産地がある。また、京都府綾部の「いかるが」は、その由良川流域である。

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若狭湾へとつながる綾部の「いかるが」、私市円山古墳は、由良川沿いの高台に、まわりを見渡すように建造されている。る。

 上に述べた交野の「いかるが」である磐船神社は、天の川流域で、古代、渡来人は、淀川から天の川を通り、奈良の地へと入っていった。また、近くに鎮座する星田妙見宮(隕石が衝突した場所)の周辺には鍛治工房の遺跡がたくさん発見されている。

 そして、奈良の法隆寺のそばを流れる大和川は、まさにヤマト王権の中心部と淀川をつないでいた(古代においては、現在の大阪城のところで合流していたが、17世紀、洪水対策で、川の流れが西向きに変えられた)。

 さらに、四日市の「いかるが」の地は、朝明川の上流部が琵琶湖へと通じる愛知川の源流でもある。同時に、長良川木曽川などの大河の下流域にあたる濃尾平野は、古代、舟運でなければ渡れないところで、四日市は、東国へ向かう渡しの場だった。そのため、四日市の「いかるが」は、久留倍遺跡という弥生時代から続く要所であり、壬申の乱の時も、大海人皇子(後の天武天皇)が、この地でアマテラス大神を崇める勢力を味方につけ、戦いの勝利につながった地である。

 こうして見ていくとわかるように、6つの「いかるが」の地は、鉱物資源や水運の重要地であった。そこでは、”いかりみず”=洪水の対策も必要だったし、有力な勢力が支配に置きたい場所であり、その結果、新旧勢力の攻防の地であったと想像することは難しくない。

 実際に、「いかるが」の地は、神話の中で、国譲りや鬼退治、同盟のための御饗(みあえ)が行われた地であり、二つの異なる勢力による対立や和合があったことが、記紀風土記に記録されている。

 加古川の「いかるが」は、第12代景行天皇播磨稲日大郎姫はりまのいなびのおおいらつめ)を娶るためにやってきて、この地の勢力と結ばれた所であり、ここで、ヤマトタケルが産まれた。

 揖保川の「いかるが」は、播磨国風土記の記述では、以前からこの地を拠点としていた伊和大神(大物主と同じとされる)と後からやってきた天日槍が激しい国土争いをした場所である。

 京都府綾部の「いかるが」は、大江山の鬼退治で有名なところで、四日市の「いかるが」は、壬申の乱で、大海人皇子が、アマテラス大神に戦勝祈願をしたとされる場所。これら4つの「いかるが」は、ヤマト王権の中心から離れたところで、東国、丹後、吉備など、古代ヤマト王権の支配が完全に及んでいない地域との境界である。

 そして、ヤマト王権の中心地に近いところに位置するのが、交野のいかるがと、奈良のいかるがだ。この二つの地は、いずれも物部氏が拠点としていたところだった。

 物部氏は、7世紀の飛鳥時代に仏教をめぐる対立で、蘇我氏と戦い、敗れ去った氏族だと教科書で習うが、それ以前の古代史において、6世紀初頭、第26代継体天皇の擁立や、磐井の乱の鎮めるなど重要な役割を果たしていたことは、あまり知られていない。

 しかし、一部の古代史ファンのなかでは、物部氏の謎をめぐる議論はつきない。物部氏は、血縁関係で結ばれた氏族ではなく、職能集団であるという捉え方もある。平安時代藤原氏のように天皇に娘を嫁がせて外戚として権力を握ったという見方もある。

 いずれにしろ、血縁というのは、他氏族との婚姻を繰り返していくうちに特定化できなくなっていくが、先祖から受け継がれた知識と経験と役割と、その方法を守り続ける共同体というものが存在していたことは間違いなく、物部氏は、祭祀と武力を司っていた氏族だと考えられている。

 そして記紀などによれば、その祭祀と武力は、国の動向を左右するような局面で発揮されている。

  奈良の斑鳩の地の東方、天理市石上神宮が鎮座しているが、古代、ここはヤマト王権の武器庫だったとされる。石上神宮は、物部氏ゆかりの神社とされるが、その理由は、この神宮の祭神が、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊であるからだ。

 布都御魂剣は、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に用いた剣で、さらに神武天皇がヤマトの地を目指している時、勝利に大きく貢献した剣であるが、神武天皇の治世では、物部氏の祖とされる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭っていた。しかし、第10代崇神天皇の時、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、天皇の命で石上神宮に移し、御神体とした。

 第10代崇神天皇が実在していたかどうかわからない。

 しかし、日本中に数多く神社で、式内社であるがゆえに一千年を超える歴史を誇ることが確かであっても、その正確な起源のわからない神社の由緒に、崇神天皇の時代に創建されたと記されているところが多い。

 また、記紀においても、崇神天皇の時、疫病で多くの人が亡くなった時、天皇は、この災いは大物主の祟りだという神託を受け、意富多々泥古(おおたたねこ)という人物を神主として三輪山で大物主を祭らせ、物部氏の伊香色雄命にも、「天(あめ)の八十(やそ)びらか(=平らな土器。平たい皿様の器)を作り、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め奉(まつ)りたまひき。」と記録されている祭祀を行わせた。

 さらに宮中で祀っていたアマテラス大神を、宮中に祀ることは不吉だからと、この神にふさわしい地に祀るように命じて、まずは豊鉏入媛が各地を巡幸の後、それを受け継いだ倭姫命が、伊勢の地に至り、そこを鎮座地とした。

 こうして見ていくと、第10代崇神天皇の時代というのは、古代における日本の宗教革命の時代、つまり神々の再編成が行われ、現代まで連なるこの国の祭祀の起源と位置付けれられているように思われる。古代においては祭政一致が自然なことだったから、祭祀が新しく整えられるということは、政治も新しく整えられたということだろう。崇神天皇の時代に、四道将軍によって、吉備、丹波・丹後、東国の征伐が行われたと記録されているのも、それと関係している。

 第10代崇神天皇の名は、古事記において、「はつくにしらししみまきのすめらみこと」とされるが、日本書紀において、「はつくにしらすすめらみこと」と表記されるのが、初代神武天皇なのである。つまり、この二人は、ともに「初めて国を治めたみこと」として位置付けられている。

 そして、この古代における転換期として位置付けられる崇神天皇の時に、新しく定められた聖域、アマテラス大神を祀る伊勢神宮と、布都御魂剣を祀る天理の石上神宮の二つが、古代において、神宮と称する社だった。

 その後、平安時代醍醐天皇の時の延喜式神名帳では、鹿島神宮香取神宮という日本神話のなかで国譲りを迫る神様を祀る社が、神宮に付け加えられた。

 明治時代、天皇や皇室の祖先神を祭神とする神社の一部が、社号を「神社」から「神宮」に改めたため、神宮は急増した。そして、戦後、神社が国家の管理から離れてからは、「神社」のままか「神宮」とするのかは各神社の判断に任せられているので、神道新宗教教団をはじめ、神宮は、どこにでもある状態となった。

 しかし、古代において、神宮は、伊勢神宮石上神宮だけであり、その理由はなんだったのかと考えることも、日本の古代の真相を解く鍵の一つだろうと思う。

 石上神宮は、物部氏と深い関係にある。

 上に述べたように、石上神宮の祭神は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊で、タケミカヅチオオクニヌシに国譲りを迫る時に用いた剣で、かつ神武天皇がヤマトの地を目指している時、勝利に大きく貢献した剣である。つまり、この剣は、新旧の秩序交代の鍵を握っている。

 石上は、石神であり、石神というのは塞の神

 そして塞の神は、境界の神である。邪悪なもの、他からのものの侵入を防ぐ神。

 物部氏というのは、古代ヤマト王権の中で、祭祀と武力を担っていた。つまり、塞の神のような役割を果たしていたということだ。

 最近訪れている近畿に6箇所ある「いかるが」の地に、物部氏の影が見え隠れするのは、「いかるが」の地が、邪悪なもの、他からの侵入を防ぐ要所であったからだろう。

 交野の「いかるが」、磐船神社は、物部氏の拠点であり、物部氏の祖神、ニギハヤヒが降臨した場所とされる。

 京都府綾部の「いかるが」には、物部町があり、須波伎部神社が鎮座する。スハキは、物部氏の部民で、清掃具などを納めていた掃部と称される農民である。

 加古川の「いかるが」の場合、鶴林寺の西北4kmのところに仁徳天皇陵の石室などにも用いられた竜山石の産地があるが、この場所に、巨大な岩そのものを御神体とする生石神社があり、播磨風土記において、弓削大連(物部守屋)の造ったものと記されている。

 四日市の「いかるが」においては、伊賀留我神社の北5kmのところを流れている員弁川は摂津の猪名部川沿いに住んでいた木工技術を持つ渡来系の人々が移住したところであり、その猪名部氏の祖が、物部氏の伊香我色男命ということになっている。

  最後が、西播磨の「いかるが」であるが、太子町の西北5kmのところに名神大社で播磨三大社の一つ、粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)が鎮座し、祭神が、天火明命(あめのほあかりのみこと)である。

 天火明命(あめのほあかりのみこと)は、物部氏の祖神である邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の別名だ。古代、粒坐天照神社周辺は伊福部氏が勢力を誇っており、天火明命を祭神として粒坐天照神社を創建した。

 伊福部氏は産銅もしくは産鉄に関係する氏族である(谷川健一著、青銅の神の足跡・1989)。『因幡国伊福部臣古志』によると、伊福部氏は、物部氏が祖となっている。血統として伊福部氏が物部氏なのかどうかはわからないが、物部氏という勢力が担っていた役割の中に組み込まれていたことは間違いないのだろう。

 もし崇神天皇が実在していたとしたら、その時代は、4世紀のことと考えられるので、古墳時代の前期後半から中期だ。なので、実際に神宮の立派な建物が作られたのは、もう少し後のこと。

 なので、現在の立派な本殿よりも、神話に記述がある場所自体に大きな意味があるということになる。

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石上神宮の本殿の東は禁足地になっており、この先に、祓戸神社あり、さらにその先に、石上神社が鎮座する。本来の石上神宮は、そこに鎮座していた。中世、この一帯は、真言密教の寺院となり、石上神宮もそこに吸収されていた。

 現在の石上神宮は、本殿の裏に通じる道があり、そちらの方に足を運ぶと、とてもいい風の流れを感じる。そして、そこから先、道は通じているのだが禁足地となっている。その森の先には、祓戸神社が鎮座している。そして、そのさらに先の方、桃尾の山の麓に石上神社というのが今も鎮座しており、実は、このあたりが、本来の石上神宮の鎮座地だった。

 中世、ここには広大な真言密教寺が建設され、石上神宮は、その懐に取り込まれた。

 そして、この本来の石上神宮の場所は、ヤマトの聖山である三輪山の真北にあたる。三輪山も、崇神天皇の時、大物主の祟りを鎮めるために、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が関わって祭祀を行った場所である。そして、元の石上神宮三輪山の南北ライン(東経135.87)は、古代の重要な聖域が並ぶ特別のラインである。

 このライン上には、大津の日吉大社や、奈良の春日山吉野山、さらに修験の聖地、大峰山系が位置している。

 そして、石上神宮から真西に行くと、本居宣長が、イザナギイザナミの国生みの時に最初に作った島、オノゴロ島でないかと指摘する淡路の岩屋の絵島がある。

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淡路、岩屋の絵島。本居宣長は、ここが、イザナギイザナミによる国生みの最初の地、オノゴロ島だとする。

 オノゴロ島の候補地は、他にも幾つかあるが、その一つ、淡路島の南沖にある沼島は、世界的にも極めて珍しい『1億年前に出来た地球の“しわ”』である『鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)があり、その地勢的な特徴から、国生み神話にふさわしいと考えられるが、それに対して、もう一つの候補地、岩屋の絵島周辺は、大規模な褐鉄鉱の産地である。

 褐鉄鉱というのは、水酸化鉄のことで、砂鉄の磁鉄鉱や鉄鉱石の赤鉄鉱よりも不純物が多いために品質としては低いが、縄文土器を焼くくらいの温度でも溶かすことができるため、かなり初期段階(縄文時代という説もある)から、鉄の道具を作るために利用されたものだ。しかし、農具としては使えても、武器としての使用は難しい。

 褐鉄鉱は、銅と錫の合金である青銅と同じように縄文土器を焼くぐらいの温度で溶融するため、道具の作り方としては、後の時代の鍛治のような鍛鉄(高温で焼いても溶けない金属をハンマーで叩いてのばして形を作る)ではなく、鋳鉄(粘土を焼いて型を作り、そこに流し込んで形を作る)という方法が用いられる。

 流し込んだ褐鉄鉱や青銅が冷えて固まると、その粘土型を壊して金属製品を取り出す。銅鐸などの青銅器もそのように作られたのだが、外側の粘土の殻を破って眩い金属製品が出てくるので、そのイメージが、”さなぎ”と重ねられた。

 伊賀の佐那具や伊勢の佐那といった地名でもそうだが、”さなぎ”の地は、鉱物資源と関わりが深い。

 淡路島を目の前に望む兵庫県明石市明石川の河口にイザナミ神社が鎮座し、地元の人は、古くから”さなぎ”と呼んでいるのだが、イザナギイザナミの、”さな”という言葉も、原始の金属器の製造と関係しているという説を述べている学者もいる。(古代の鉄と神々:真弓常忠著)

 その原始の鉄生産と関わりがあると考えられる褐鉄鉱の産地で、かつイザナギイザナミによる国産みで最初にできたオノゴロ島の候補地の一つ、絵島のある淡路の岩屋と明石は、潮の流れの早い海峡をはさんで3kmの距離で、水深は100mしかない。明石は、かつて赤石という地名だったが、おそらく、岩屋周辺の褐鉄鉱の地層が、明石にも及んでいた可能性が高い。なぜなら、明石港近くにある龍の湯という温泉の泉質は、鉄分が豊富で、赤茶色に濁っているのだ。明石の地下は、今でも鉄資源が豊かなのだろう。そして、岩屋の絵島から北上すると明石を通って三木市となるが、三木は、現在でも金物製品で知られたところで、今でもノコギリのシェアは全国の15%もあり、古くから鍛治が盛んだった。この三木市明石市の境界あたり、明石川上流沿いの丘の上に鎮座するのが、可美真手命(ウマシマジノミコト)神社であり、神武天皇の治世において、現在は天理の石上神宮の祭神である布都御魂剣を宮中で祀っていたとされる物部氏の祖のウマシマジノミコトの聖域である。

 

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可美真手命(ウマシマジノミコト)神社

 この可美真手命神社は、雄岡山と雌岡山という鉄資源とも関わりの深い古代からの聖域を目の前に望む丘の上に位置しているが、その場所は、淡路の岩屋の絵島の真北(東経135.02)であり、交野の「いかるが」、磐船神社の真西であり、(北緯34.74)、さらに鶴林寺のある播磨の「いかるが」の真東なのだ。

 磐船神社の祭神は、ウマシマジノミコトの父と位置付けられるニギハヤヒであり、東西のラインで結ばれる交野と明石川上流が物部氏で深く関係しており、その明石川の河口の対岸の岩屋の絵島が、イザナミイザナギによる国生みの最初の地なのである。

 物部氏の祖とされるニギハヤヒは、天孫降臨を行った神として知られるニニギ(神武天皇の曽祖父)よりも前に地に降りてきた存在で、神武天皇が東征を行った時に、ヤマトの地を譲り渡す神として神話では描かれる。

 物部氏が、淡路の絵島で象徴される褐鉄鉱という原始的な鉄製品とも関係があるとすれば、そしてその絵島が、イザナミイザナギの国作りの起源だとすれば、かなり古い段階で、新しい技術を日本列島にもたらして新しい秩序を作り上げることに関係する勢力であり、その後、褐鉄鉱よりも質の高い金属製造技術を持った人たちがやってきた(神武天皇の東征で象徴される)時に、国譲りを行った。国譲りなので攻め滅ぼされたわけではなく、その後は、ニギハヤヒの息子であるウマシマジが、神武天皇の側近として、国譲りの象徴すなわち新たな技術の象徴である布都御魂剣を宮中で守る役割を担うことになった。

 さらに、第10代崇神天皇の時、同じ物部氏伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、天皇の命を受けて、布都御魂剣を、ヤマト王権の武器庫である石上神宮に遷して祀ったということになる。

 その物部氏が、近畿に6箇所ある「いかるが」の地に関わりを持っているということは、「いかるが」が、新しい技術に伴う国譲りの要所であったということではないだろうか。

 

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「いかるが」の地と、イザナミイザナギによる国生みの最初の地オノゴロ島と、物部氏のあいだに深い関係が見られる。物部氏の祖神、ニギハヤヒ降臨したとされる交野の「いかるが」である磐船神社から真西(北緯34.74)に行くと、明石川上流に可美真手命神社があり、ニギハヤヒの息子で、布都御魂を守っていたウマシマデが祀られている。その真西に加古川流域の「いかるが」鶴林寺が鎮座している。可美真手命神社の真南(東経135.02)が、オノゴロ島候補地の絵島(淡路島の岩屋)である。そして絵島の真東(北緯34.59)に行くと奈良の王子町で、鬼退治の元祖とも言える孝霊天皇の陵があり、これが、法隆寺一帯の斑鳩の地でもっとも古い聖域である。この孝霊天皇の陵の真北が、交野の「いかるが」磐船神社であり、真東が石上神宮石上神宮の真北が三輪山である。