第1133回 早わかり歴史講座の問題点。

先日、友人の写真家のところに行ったら、奥さんが歴史に関心が深くて、オリエンタルラジオというお笑いコンビの中田が、ユーチューブで歴史講座をやっていて、ものすごい数の視聴者がいて、けっこう面白いよと教えてくれた。

 それで、ちょっとユーチューブを見てみた。

 どうやら、近年、数多く発行されている「早わかり日本史」の一つを読んで、暗唱して、ユーモアを交えて、予備校の名物教師のようなパッションで語りかけるという展開になっている。

 その元ネタになっている「早わかり日本史」の内容は、とくに新しい視点があるわけでなく、中学くらいの学校教科書の内容を、かなり薄くして、要点だけまとめてわかりやすくした解説書のようなものだ。ウケている理由は単純で、教科書だと一年かけて習うような内容を、2時間くらいで、いっきょに縄文から平安まで単純化して伝えて、歴史をわかったつもりにさせてくれるから。

 けっきょく、何も知らないという不安を、わかったつもりになって落ち着かせてくれるという程度のものでしかないが、そのまとめ方が真相を歪めてしまっている。つまり、間違ったことを伝えている。

 たとえば、中田は、「古事記について説明させていただきます。古事記には色々とややこしいことが書かれていますが、ポイントはここ。イザナギイザナミがたくさんの神様を産むのだけれど、イザナギイザナミが産んだ重要な神様が、この三つ、アマテラス、スサノオ、ツキヨミです。みんな神様の名前くらい聞いたことがあるでしょ?」みたいなノリで話す。

 ぼんやりと聞いていると、この短いセンテンスを誰も間違っているとは思わない。しかし、大きな間違いをおかしている。

 アマテラスとスサノオとツキヨミは、イザナギイザナミが産んだ神様ではない。この3神が生まれた時は、イザナミは既に死んでいる。死んだイザナミに会うために、イザナギが黄泉の国に行って、醜い姿に変わったイザナミから逃げ帰って、禊をしている時に生まれたのが、海神三神と、住吉三神と、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三神だ。

 イザナミイザナギの二人の神から生まれた神々と、イザナミが死んで禊をしている時に生まれた神々が存在する。この違いがなんなのかを考えることが重要なのだ。禊は何を意味しているのか? 穢れを清めるために禊をするのだが、その穢れは何だったのか? イザナミを死に追いやったカグツチは何を象徴しているのか(一般に言われている単純な火ではない)。

 中田が語っている内容の間違いは、他にも色々あって数え上げたらキリがないが、壬申の乱の前、大海人皇子(後の天武天皇)が逃げた場所が、後に都のできる奈良であるというのも間違っている。正しくは、奈良よりも南の吉野。吉野の国栖と呼ばれる人たちが、大海人皇子を守っていた。国栖というのはどういう人たちなのかというのが重要な鍵。

 奈良というのは農業のできる盆地であり、吉野は山岳地帯。吉野では、農業はできないから、そこに住む人たちは、漁猟や狩猟や鉱山開発などを行って、生活習慣も価値観も異なる人たちだった。彼らは屈強で、水上交通も得意で、武器の資源にもなる鉱山にも通じていた。吉野には、古代から丹生とか国栖と呼ばれる人たちがいて、神武天皇の東征の時にも彼らが力になっている。そして、最初に大海人皇子を支えた人たちは、この人たちだった。天武天皇の死後、持統天皇も、数えきれないくらい吉野に通っている。後の南北朝後醍醐天皇が拠点にしたのも吉野。吉野と奈良は、異なる世界である。

  さらに、普通に聞いていると、ほとんど誰も気に留めない彼の間違いは、シャーマンの卑弥呼が、亀の甲羅で占っていたなどと言うところ。

 『魏志倭人伝』に、卑弥呼が「骨を灼きて以って吉凶を占う」とあるのは、鹿の骨(肩甲骨)のこと。もともと、古代日本では、鹿卜という鹿の骨を焼いて占う方法が行われ、天岩戸の神話でも、イザナギイザナミの国生み神話でも出てくる。

 鹿の骨でも亀の甲羅でも大して変わらないだろうと言う人がいるかもしれないが、亀の甲羅で占う亀卜は、卑弥呼の時代(3世紀)よりもっと後で、5世紀の後半、壱岐の卜部が伝えたものと記録が残っている。

 これは、けっこう重要なことで、これ以降、壱岐の占い師たちが、古代政治のなかで重要な役割を果たす神祇官を構成する主要メンバーになる(壱岐以外は対馬と伊豆だけ)。つまり、彼らは、いわゆる神道と政治を結びつけていく役割を果たし、それが、今日に伝わる神道儀礼のルーツ。神道は単なるヤオロズの神々のことではなく、自然神をもとにしながら政と祭を統合した秩序づくりのシステムで、そのルーツは、亀卜と一緒にやってきた壱岐対馬の人たちと関係がある。なぜ、壱岐対馬なのか、というのも、とても大事なポイント。

 中田は、「卑弥呼って、占いで政治をやっていたんだよ、古いねえ」という感覚だけで喋っているから、亀でも鹿でもどっちでもいいじゃん、ということになる。

 彼は、卑弥呼よりも450年も後、天武天皇陰陽道の使い手であったことを知らないのかもしれないし、奈良や平安時代も、天皇の側近として陰陽師安倍晴明など)がいたことを無視している。陰陽道に占術は欠かせないし、長いあいだ、政治的重要な会議の日時などは、神祇官による占いで決められ、それは、5世紀後半、壱岐からもたらされた亀卜、つまり亀の甲羅で占う方法で行われていたのだ。

 卑弥呼の時代は、亀の甲羅ではなく鹿の骨で占いが行われ、それは、もっと古い時代から続いていた方法だ。占いというのは、単なる山勘ではない。天文や暦を駆使する陰陽道もそうだが、膨大な知識や情報を獲得したうえで、どうすべきか判断をするうえで行われる。壱岐対馬というのは大陸に対する前線基地であり、壱岐の占い師たちは、常に最先端の大陸事情を知るネットワークを持っていたのだろう。5世紀後半以降、ヤ大陸の動向を読むことが、政治的判断のなかで得に重要だったことを裏付けている。

 あと、中田は、縄文人が大陸と陸続きの時に大陸からやってきた人々で、弥生人が、大陸と少しつながっている時にやってきた人々とか、メチャクチャな話もしている。

 縄文時代黒潮に乗って、南から人々がやってきているし、弥生時代の曙は、中国の江南の人たちが、船でやってきた可能性が指摘されている。

 それ以外、空海最澄の話や、武士の始まりや、源氏物語や、呆れるくらい単純化し、真相を歪めている。源氏物語など、明らかに彼は読んでいないであろう内容説明。藤原道長が美男で、プレイボーイで、紫式部の愛人で、藤原道長を主人公に源氏物語のプレイボーイ小説ができたなどと。

 中田は、藤原道長が、蘇我氏とかがやっていた外戚の権力装置を平安時代に復活させたという説明をしているけれど、これも大間違い。

 藤原道長の系譜である藤原北家外戚による摂関政治体制を整えたのは、桓武天皇の息子の嵯峨天皇に仕えた藤原冬嗣、それに続く良房、基経だ。

 そして、桓武天皇外戚として力を持ったのが藤原式家藤原百川。しかし、藤原式家は、藤原薬子の変など、藤原冬家との権力闘争に敗れる。

 藤原道長の登場は、ずっとその後のことであり、彼は、最後の花火を打ち上げたにすぎないし、その結果、貴族社会の寿命も縮めた。

 藤原道長の栄華というのは藤原氏の栄華というよりも、藤原兼家道長の親子一族の栄華だ。

 この一族の栄華は、10世紀の菅原道眞の怨霊騒ぎとも関係している。菅原道眞と対立し、彼を太宰府に左遷したのは、藤原氏の全てではない。藤原兼家の祖父にあたる藤原忠平は、菅原道眞と親交が深く、道眞の左遷にも反対した。

 そのため、道眞の怨霊騒ぎで藤原時平たちが死んだ後、藤原忠平が、長いあいだ、摂政、関白として活躍した。なぜなら、彼の一族だけは、道眞の霊に守られると信じられたからだ。

 この藤原忠平の孫にあたる藤原兼家は、このことを利用した。菅原道眞を祀る北野天満宮を国家の神社に仕立て上げたのも彼だ。さらに、兼家と、その息子の道長は、当時、武士として力を増していく過程にあった源満仲清和源氏の祖)と組んだ。摂津に拠点を置く源満仲、その息子の源頼光に様々な特権を与えて清和源氏の勢力拡大の後押しをしたのだ。その見返りに、源満仲源頼光は、獲得した利権の一部を藤原兼家道長に還元し、武力による護衛も行った。

 藤原兼家藤原道長親子は成長過程にあった清和源氏を利用して権力を強め、財を成したが、その結果、武士が貴族以上の力を持てるような環境を整えたのだ。

 このあたりの歴史背景を丁寧に把握していないと、藤原道長の「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の有名な歌の解釈も間違う。

 この歌は、藤原道長が栄華の絶頂で自惚れている心を表していると解釈しているのは、中田だけでなく、多くの専門家もそうなのだけれど、この歌に対する感受性は、日本文化の真髄に通じるところがあり、これを間違ってしまうと、日本文化への理解が大きく歪んでしまう。

 そして日本文化への理解が歪んでしまうと、日本の歴史の本質もわからなくなり、間違った歴史解釈が広がっていく。

 日本文化の核心には、もののあはれがある。

 なので、藤原道長のこの歌も、”もののあはれ”で読まなければならないし、源氏物語も同じだ。

 この歌は、栄華の絶頂を歌ったものではなく、

「満月を見て、どこにも欠けたところがないと安心できるようであれば、この世も、我が世だと思えるんだけど、(そうはいかんだろう)という意味になる。。

 当時の歌詠みたちは、月を見る時に、月というものはすぐに欠けていく存在だということを承知のうえで、”あはれ”の心情をそこに重ねた。満月を見ても、その状態は刹那的なものだと、当然ながら認識している。

 どこにも欠けたところのない満月を見て、当時の教養人が、「ああ、私の天下だよ」、なんて、下手な歌を読むはずがない。

「望月の欠けたることもなしと思へば」の、”思えば”は、「そう思うんだからね」ではなく、「そう思うことができるならば」と解釈すべき。

 藤原道長は、貴族から武士の時代へと急激に進む流れを止められないことを悟っていたし、当人も、ずっと病気がちで、すぐに政治の一線を退いて出家している。

 ”もののあはれ”というのは、現代の超高齢化社会の問題を超克していくうえで鍵になる世界観なのだけれど、間違った歴史解釈の”早わかり”がメインストリームになると、ますます、その真意は遠ざかっていくなあと、悲しい気分になる。

  しかし、こうした大事なことが、なぜ間違ってしまうのか。その原因は、中田個人だけでなく、今日の歴史研究や歴史学習にも通じる問題でもあると思う。

 なぜ、中田が間違ってしまうのかというと、彼自身の中で、「そんなの別にどっちでもいいじゃん」、という気持ちがあるからだ。

 たとえば、古事記のなかでアマテラスとツキヨミとスサノオが生まれたことが書かれていることが重要で、それがイザナミが死んだ後か、生きている時かは、どっちでもいいじゃんという感覚。

 また、天武天皇になる前の大海人皇子が逃げたのは、奈良か吉野か、逃げたという事実が大事で、その場所がどこかは、どっちでもいいじゃん、という感覚。

 さらに、卑弥呼が占いをしていたことが重要なんだから、みんな覚えておいてよ、その方法が、鹿の骨か、亀の甲羅か、そんな細かなこと、どっちでもいいじゃん、という感覚。

 つまり、並べられた事実を覚えることが歴史であり、その過程や、個々のつながりや流れは、まあどうでもいいじゃんという感覚なのだ。「大化の改新、虫5匹」で覚えているだけで、その内容を知らないでしょ、その内容は簡単に言うとこうだよ、というのが早わかり歴史解説なのだ。

 しかし、歴史は、事実よりも過程や、その背景の方が大事。吉野と平城京のあった奈良盆地の違いがわからなければ、なぜ、どのように大海人皇子が勝利できたかもわからないし、その勝利が何を意味するのかも、その勝利の後に行った改革のこともわからない。

 そうした事実の背景は、正しいか間違っているかは、専門家でさえまだ誰でも明確なことは言えず、これからも探求していくべく未開の領域だ。

 探求しながらより真実に近いものを探していくための”間違い”と、どっちでもいいじゃんという感覚で、この件はこれで終わり、と処理してしまう”間違い”がある。”どっちでもいいじゃん”の間違いは、より深い探求につながらない。

 早わかり歴史講座の問題点は、そこにある。