第1134回 日本の重要な聖域を結ぶ不思議なライン

f:id:kazetabi:20201110141229p:plain

 なんとも不思議なことに、日本の重要な聖域が、このラインのなかにきれいに収まる。

 桜島コノハナサクヤヒメを祀る月読神社から、足摺岬室戸岬を横切って伊勢神宮を通るラインは、コノハナサクヤヒメが祭神の富士山から、武蔵国一宮の小野神社を経由して武蔵国国府があった府中に至る。これは、冬至に太陽が沈む方向のライン(30度)。

 八ヶ岳付近から、諏訪大社のある諏訪湖、岐阜の南宮大社、大津の日吉大社、京都の松尾大社を通るラインは、阿蘇神社から、有明海宇土の馬門というところに至る。これも冬至のライン(30度)。

 宇土の馬門というのは、阿蘇のピンク石の産出地で、阿蘇のピンク石というのは、第26代継体天皇推古天皇など大王の石室で使われており、なぜ、こんな遠くから石が運ばれたのかは謎とされている。その宇土の馬門は、桜島の真北である。

 日本を代表する4つの山、阿蘇八ヶ岳桜島と富士山は、それぞれ冬至に太陽が沈む方向のライン(30度)で結ばれ、並行しており、このライン上に、ここに挙げたもの以外にも多くの聖域が配置されている。

 また、島根の出雲大社から、丹後の元伊勢、皇大神社伊吹山を通るラインは、東西のライン(秋分の日と春分の日に太陽が昇り沈む)で、富士山、そして、千葉の九十九里浜に鎮座する一宮の玉前神社に至る。

 玉前神社の社伝によると、この神社の前の浜が豊玉姫の妹の玉依姫が上陸したところで、玉依姫は、乳母として山幸彦の子供のウガヤフキアエズを育て、そしてウガヤフキアエズと結ばれて初代神武天皇を産んだ、ということになっている。その神話はともかく、この神社の鳥居は真東を向いており、秋分春分の日九十九里の海から昇る太陽を望むことができる。

 この玉前神社から、夏至の日に太陽が沈む方向が、府中の国府跡(現在、大國魂神社が鎮座している)を通り、八ヶ岳から諏訪湖に至る。

 玉前神社と富士、出雲大社を結ぶ東西ライン上にある伊吹山、元伊勢の皇大神社の距離は、伊吹山伊勢神宮伊勢神宮熊野本宮大社熊野本宮大社と淡路の伊奘諾神宮、伊奘諾神宮と、元伊勢の皇大神社のあいだの距離と同じ(110km)で、この5つの聖域を結ぶと、綺麗な五角形になる。

 そして、東京の府中の国府は、桜島、伊勢、富士山と結ぶ冬至のライン上にあるのだが、この場所の真北が、日光の男体山だ。男体山は、関東のランドマークといえる火山で、かなり遠くからでも秀麗な姿をのぞむことができる。

 そして、府中の国府男体山のあいだに、埼玉の行田の埼玉古墳群がある。この古墳群は、南関東で最大規模のもので9つの巨大古墳があるが、雄略天皇の名(ワカタケル)や、四道将軍オオヒコの名が刻まれた鉄剣で有名な稲荷山古墳や、日本最大の円墳の丸墓山古墳もここにある。

 興味深いのは、この古墳群にある二子山古墳、稲荷山古墳など巨大な前方後円墳が、同じ方向を向いており、その延長上に富士山があることだ。つまり、稲荷山古墳の後円の部分のてっぺんに立つと、晴れた日は、前方部の方向の先に100km先の富士山が見える。明らかに富士山が意識されて、そしておそらく、真北の男体山も意識されて、埼玉古墳群は作られている。

 この埼玉古墳群と男体山のあいだに栃木県の足利(足利氏の出身地)があるが、ここも不思議な雰囲気のあるところで、1600ほどの古墳が集中し、その北に、空海ゆかりの巨石群、名草厳島があり、その北が、足尾銅山など鉱山地帯である。

 富士山の神様は、天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメで、桜島の月読神社でもコノハナサクヤヒメが祀られ、二つの聖域のあいだに、アマテラスを祀る伊勢があり、これらは、冬至のラインで結ばれている。

 冬至の日、一日の長さは一年で一番短くなるが、翌日からは一日ずつ長くなっていくわけで、すなわち、冬至というのは復活の意味と重ねられる。

 そして、これらのラインにおいて太陽が沈む西の端に位置する熊本の宇土の馬門。ここから産出された阿蘇のピンク石を使った石室は、第26代継体天皇の陵墓とされる高槻の今城塚古墳と、推古天皇とその息子の竹田皇子の合葬墓であったとされる橿原市の植山古墳であるが、実は、この二つの古墳は、今日につながる天皇の系譜を考えるうえで、極めて重要なものである。

 まず、継体天皇は、現代の天皇が系譜を遡ることができる最古の天皇である。というのは、継体天皇の前の第25代武烈天皇が子供を産まずに若くして亡くなり、皇位が途切れた時、大伴氏と物部氏が、応神天皇の5代後とされる豪族を見つけて即位させたのが継体天皇なのだ。この継体天皇は、即位後、九州で起こった古代最大の内乱とされる磐井の乱を制圧して日本を治めるのだが、この磐井の墓とされるのが、九州最大規模の前方後円墳の岩戸山古墳である。この古墳は、前方後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及ぶ八女古墳群を代表するものだが、この八女古墳群は、熊本の宇土の馬門の真北60kmのところに位置する。

 継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳は、この反乱を起こしたとされる磐井の勢力拠点と、何かしらの関わりがありそうな場所のピンク石を使って石室が作られている。

 しかし、今城塚古墳は、考古学的に継体天皇の陵墓とされているものの、宮内庁は、そのように認めておらず、宮内庁は、今城塚古墳の西1.5kmの茨木市の大田茶臼山古墳継体天皇陵としている。

 そして、推古天皇と竹田皇子の合葬墓とされる植山古墳は、上に述べた近畿の美しい五角形の伊勢神宮と淡路の伊奘諾神宮を結ぶライン上にあり、その真ん中に位置している。

 推古天皇は、聖徳太子とセットにして覚えられている日本の天皇でもっとも有名な天皇の一人だが、この推古天皇について、中国の隋書に、不可思議な記述がある。

 隋の文帝の開皇(かいこう)二十年(600年、推古天皇8年)、倭(原文は俀(たい))王で、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)と号している者が、隋の都大興(たいこう)(西安市)に使者を派遣してきた、文帝は担当の役人に俀国の風俗を尋ねさせた。使者はこう言った。
「俀王は、天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、あぐらをかいて坐っている。太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽にまかせようという。
俀国王の妻は、雞弥(きみ)と号している。王の後宮には、女が六、七百人いる。

 有名な小野妹子が遣隋使として派遣されたのは第2回の607年で、600年が遣隋使の最初であるが、日本書紀には、600年のことが記載されていない。

 そして、600年というのは推古天皇の時代のはずだが、隋書の記述では、妻がいたり、後宮に大勢の女性がいたり、男性として描かれている。

 実際に、日本書紀で描かれる推古天皇の即位には、不自然なところが多い。まず、推古天皇は、593年、39歳という高齢で即位している。

 第33代推古天皇は、第30代敏達天皇の妻であるが、敏達天皇は、異母兄である。また、聖徳太子の父とされる第31代用明天皇は、推古天皇の同母兄だが、在位はわずか2年であり、その死後の587年、蘇我氏物部氏の戦いが生じた。(仏教をめぐる争いとされているが、実際は、皇位継承問題も絡んでいる)。この戦いで蘇我氏が勝利し、蘇我稲目の孫の第32代崇峻天皇が即位する。崇峻天皇は、推古天皇の異母弟であり、在位5年で、蘇我馬子に殺害されて、死亡した当日に葬られている(歴史上、天皇暗殺は唯一であり、死後、もがり がないのも不自然である)。

 崇峻天皇が殺害された後の推古天皇の擁立は、推古天皇の息子の竹田皇子を即位させるためのつなぎとされるが、竹田皇子は、物部氏蘇我氏の戦い(587年)の後、記録がなく、推古天皇が即位する頃、生きていたかどうかわからない。

 こうした経緯から生まれた推古天皇が、593年から628年まで36年にもわたり、74歳で亡くなるまで在位したことになっており、この期間、600年に、第一回の遣隋使の記録が、男の王によって行われたと『隋書』に残り、そのことが『日本書紀』には記録がない。

 そのため、この隋書の「阿毎(あま)多利思北孤(たりしほこ)」は、蘇我馬子とか聖徳太子ではないかと言われている。

 そして、”あま”と発音されるこの人物が、伊勢神宮と伊奘諾神宮の真ん中の植山古墳において、阿蘇のピンク石の石室に葬られているのである。

 しかも、その『隋書』には、阿毎多利思北孤の領地は、「阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。」と書かれている。

 つまり、阿蘇山が、信仰の山として紹介されているのだ。

 阿蘇山が信仰の山であれば、阿蘇のピンク石を使った大王の墓があっても不思議ではないが、そういった墓が九州にはなく、近畿の真ん中に存在するのである。しかも、継体天皇推古天皇は、有名なわりに、その登場の仕方に不自然なことが多い。

 「隋書」に書かれている600年の遣隋使を送った阿毎多利思北孤は、阿蘇山の記述などから、明らかに九州と関わりが深い。

 しかしながら、この時代、飛鳥に飛鳥寺が作られ、宮が築かれていたことも確かであり、その場所に、阿蘇のピンク石で作られた大王の墓があるのだ。

 この矛盾をどう結びつけて考えればいいのか。

 日本の重要な聖域を結ぶラインを見てみると、九州と近畿と東国が、冬至のラインや東西のラインで厳密につながっていることが確認でき、それぞれの地域が別々に活動していたとは思えず、確かな連携があっただろうことは想像できる。

 しかし、それぞれの存在の仕方は、ヨーロッパの絶対王政のような中央集権的な体制で、近畿を中心に国土全体が完全に統一されていたわけではなかったのかもしれない。

 阿毎(あま)多利思北孤(たりしほこ)」という名前が気になる。アマタリシホコは、アマテラスとか、アメノヒボコ応神天皇の母、神功皇后の祖神で渡来系とされる)という、神話の中の神の名とニュアンスが重なる。

 ”アマ”は、日本古代においては、天とか海を指している。

 飛鳥時代の後、壬申の乱を経て日本を統一し、律令制を築いた天武天皇は、天皇に即位する前は、大海人皇子(おおあまのおうじ)で、海人(アマ)と関わりが深い。

 日本列島の九州と近畿と東国を結びつけるライン上の聖域も、海人と関わりの深いところが大半である。

 宮が築かれた中央政府とは別に、海人ネットワークが日本に張り巡らされていて、中央政府の強力な後方支援を行ったり、自ら前面に立って実権を握るということが、交互に繰り返されていたのだろうか。