第1366回 王権秩序の及ぶ範囲と正確な暦の重なり

 日本には無数の聖域があり、それらの聖域のあいだを線で結び、なんでもかんでもレイラインだと主張するのは、あまり意味がないことだと私も思っている。

 しかし、日本の各地を旅すればよくわかることだが、古代において、冬至夏至春分秋分の太陽の位置というものが強く意識されていたことが伝わってくる場所は多い。

 広く知られているのは、伊勢神宮宇治橋で、冬至の日に橋の真ん中から太陽が昇る。伊勢の夫婦岩は、夏至の日に、二つの岩のあいだから太陽が昇り、よく晴れた日なら、富士山が、二つの岩のあいだに見える。

 神社の鳥居のど真ん中に、秋分春分の日の出や日没の太陽が入るところは、いくらでもある。

 それらは、日々の生活のなかで、自然のサイクルや、自然のドラマを、特別なものとして受け止めている証だと言える。

 日本という国が一つの秩序の下にまとめられていく段階においては、そうした自然のサイクルや自然のドラマが政策的に取りこまれており、それがわかる痕跡が、各地で見られるようになる。

 たとえば東日本で最大規模の埼玉古墳群(6世紀前半〜)で最も古い稲荷山古墳の上に立つと、真北に日光の男体山、西に八ヶ岳、東に筑波山が見え、後円部分から前方部分の延長線上に富士山の姿が望める。

 また、第26代継体天皇の拠点だった近江の高島の「日置」という場所に、県下最大級の円墳をはじめとする王塚古墳群があるが、ここから真東に、琵琶湖に浮かぶ竹生島が見え、その向こうに、雄大伊吹山が聳えている。

 先日のエントリーでも書いたが、「日置」は、王権による統一的秩序が開始される頃、正確な暦の普及と関わっていたようで、欽明天皇の命を受けて出雲に派遣されたように、各地に痕跡を残しているが、東西のライン上や、冬至夏至のライン上に入植しているケースが多く見られる。

 正確な暦というのは、6世紀に大陸からもたらされた太陰太陽暦だ。

 古代、世界中ほとんどの地域がそうだが、日常的な生活は月の満ち欠けや月の位置をもとに行われていた。私たちの身体もそうだが、自然界は月のサイクルで新陳代謝が行われる。女性の月経のサイクルも同じである。月のリズムが、命のリズムになっている。

 しかし、月のサイクルは28日であり、そのサイクルの始まりと、地球が太陽の周りを一周する365日のサイクルの始まりは、重ならない。1年単位で物事を決めて行っていくためには太陽のサイクルを取り入れる必要があり、1年の始まりの日を確定させなければいけない。その始まりの日が冬至だった。冬至を知るためには、冬至の日に、目印にしている場所から太陽が昇ることを確認する方法がいい。冬至の時に重なる目印がなければ、春分秋分夏至の日に、太陽と目印になる山のピークなどが重なればそれでもいいだろうし、何も目印がなければ、影の長さを計ればいい。 

 古代、そうした王権とつながる正確な暦の普及に関わったのが日置氏であり、その役割は、律令制の頃からは賀茂氏になる。

 同じ暦を使う地域は、同じ時間の中を生きることで、正確な一つの暦が普及する範囲は、王権の秩序が及ぶ範囲ということになる。祭祀や会議や面会などの日取りも、暦に基づいて行われ、そうした約束事は、共通文字で記すことによって共有化された。

 正確な暦の普及は、共通文字による文章管理の普及と重なっていたはずであり、王権の秩序は、そういう官僚的職務によって成り立っていた。武力だけでは、広い範囲を治めることはできない。

 そうした官僚組織が、いつ頃から整えられていったのかを知ることが、日本という国が、いつ頃から一つの統一的秩序で治められるようになったかを知ることにつながる。

 出雲の国譲りの神話も、そのことを表している。普及文字がなかった時代は、新しい知恵や技術は、力のある王が独占していた。そのことを、武甕槌は大国主命に対して「ウシハク」だと非難し、知恵を共有する「シラス」にすべきだと説得した。

 この秩序転換の時期を探ることは、卑弥呼邪馬台国がどこにあったかを議論することより、よほど大事なことだ。

 日本の広い範囲での統一的秩序の成立に関わる考古学的大発見が、埼玉の荒川近くの稲荷山古墳と、熊本の菊池川流域の江田船山古墳から出土した鉄剣であり、その鉄剣には漢字で銘文が刻まれている。

 埼玉と熊本という遠く離れた場所に埋葬された人物は、同じ「ワカタケル」という王に仕えていた。そして、鉄剣が作られたのは、辛亥の年だった。このワカタケル王は、シキに宮を置いていた。

 さらに、埼玉の稲荷山古墳の被葬者は、杖刀人首(じょうとじんのおびと)という軍事的役職で、熊本の江田船山古墳の方は、典曹人(てんそうじん)という文官であったことも記されていた。

 辛亥の年というのは、60年を周期とする干支の一つで、副葬品の内容などから、西暦471年か531年のどちらかであるとされ、学会では、ワカタケル王を第21代雄略天皇としているので、471年というのが通説になっている。

 しかし、学会が、ワカタケル王を雄略天皇としている根拠は、『古事記』にある雄略天皇の名称の「大長谷若建」の「若建」を、ワカタケルと解釈したうえでのことで、これに対しては、「シキの宮」という具体的な宮名が記されているため、学者の一部から反論がある。雄略天皇の宮は泊瀬朝倉宮で、欽明天皇の宮が「磯城島金刺宮」なのだ。そのため、ワカタケル王は欽明天皇で、この鉄剣は531年に作られたものだと主張する学者が少数だが存在している。 

 471年か531年かというのは、日本の古代史において、極めて重要な違いである。

 というのは、5世紀の後半に「今来」という渡来人が大挙してやってきて、彼らが現在につながる訓読日本語を発明し、後の律令制につながっていく官僚組織を日本に浸透させていったとされているからだ。熊本の江田船山古墳の被葬者は、文章で管理を行う官僚であり、雄略天皇の時代に、熊本まで、そうした秩序化が及んでいたのかどうかという問題になる。

 しかも、雄略天皇欽明天皇のあいだは、血統が断絶されている。欽明天皇の父、第26代継体天皇は、前の武烈天皇が、子を残さずに亡くなったために、突如、王に抜擢された。

 日本という国の新しい秩序化は、雄略天皇の時代から始まっているのか、それとも、以前の王とは血統の異なる継体天皇および欽明天皇の頃からなのか?

 この問題を考えるうえで、もう一つ鍵になることがあり、それは暦のことだ。

 熊本の江田船山古墳の場所から菊池川を5kmほど下った河口地域が玉名市の日置であり、菊池川を上流に15kmほど遡ったところも日置で、この二つの日置は、冬至のラインで結ばれる位置関係に配置されているのだ。

 菊池川上流の日置の場所には、方保田(かとうだ)東原遺跡があり、ここは弥生時代から古墳時代にかけての大遺跡で、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器が発見され、鉄器を製作したと考えられる遺構も見つかっている。

 この菊池川は、砂鉄の宝庫として知られる。阿蘇山の噴火による安山岩の露頭の部分などに、今でも多くの砂鉄が見られるが、その大地を削る菊池川には砂鉄が流れ込んでいる。中世においても、この地の良質な砂鉄を使った日本刀が全国的に知られていた。さらに、阿蘇山周辺の草原地帯は馬の飼育に適していた。

 菊池川は日本でも有数の装飾古墳の集中地帯だが、馬を船で運ぶ絵が描かれたものが、その中にある。

 さらに、この川の流域にある阿蘇の凝灰岩(継体天皇推古天皇の石棺で使われている宇土のピンク石とは違う)を使った石棺が、四国の松山、香川の観音寺、京都の城南や大阪の藤井寺で見つかっている。装飾古墳の中には、船で石棺を運ぶ絵も見られる。

 王権拡大に大きな役割を果たした馬や鉄が、熊本の菊池川流域で得られ、この地の石材が、畿内の古墳の棺に使われたのだ。

 この菊池川の河口付近と上流に日置がある。日置氏は高句麗人である伊利須使主の子孫とされ、装飾古墳のルーツも高句麗だと考えられている。

 また、菊池川流域の馬や石棺などが畿内に運ばれるルートは、同じ有明海に注ぐ筑後川であり、この川もまた装飾古墳の宝庫である。そして上流部の日田は、江戸時代には天領で、ここから宇佐や別府へと移動し、瀬戸内海に至った。長崎の出島での欧米との交易品も、このルートを通った。そして、この交通の要の日田もまた、日置の地である。

 熊本の菊池川流域の二箇所の日置のあいだに築かれた江田船山古墳の被葬者は、文章管理の役職者であった。彼が仕えていたワカタケルは、雄略天皇なのか、欽明天皇なのか。

 ちなみに、島根県の出雲地方の神門郷に日置氏が派遣されたのは、出雲国風土記によれば、欽明天皇の命によるものである。

 そして、日本書紀」によれば、欽明天皇の時代に、百済から「暦博士」を招き、「暦本」を入手しようとした記事があり、これが、日本の記録の中で最初に現れた暦の記事である。

 これらのことから、熊本から埼玉まで王権による秩序化を広めていたワカタケル王は、欽明天皇の可能性が高い。

 日置は、暦とともに、王権の秩序を全国に浸透させるうえで役割を果たしていたと思われるが、日置の人々が入植した場所は、それ以前から栄えていた地域でもあった。

 熊本の菊池川の上流部もそうだが、島根の出雲地方の日置の場所でも、弥生時代の四隅突出型墳丘墓が、もっとも巨大化した西谷墳墓群がある。

 豊岡の円山川流域の日置の地の近くには、4世紀後半に築かれた入佐山三号墳があり、ここからは、木棺の被葬者の頭部付近で、約150gの砂鉄が壺に入れられて見つかった。砂鉄が副葬品として発見されるのは唯一の例で、国内の製鉄開始時期を解明するうえで貴重な資料とされている。

 日本は、統一国となる前から、各地域が様々な形で発展し、それぞれの地域のあいだに交流もあった。

 それらの各地域を敢えて一つの秩序のもとに束ねるためには、相当なエネルギーと犠牲を払う必要がある。

 王という一人の人間の野望のためなら、強力な武力によって他地域を略奪すればすむことであり、長いあいだ統一国家を作らなかったユーラシア大陸内部の騎馬民族は、それを繰り返していたし、おそらく日本においても、力の大小で競い合う時期はあっただろう。

 そのことが、大国主命の国造りの神話で示されている。

 それに対して、文章によって政治や祭祀の約束事を決め、その管理を行い、正確な暦を作って遠く離れた場所の人も同じ時間秩序の共同体の一員とする必然性は、王の野望によるものではなく、国際環境の変化の影響が大きい。

 近いところでは、黒船来航の後の明治維新の大変革がそうだった。明治維新は、天皇の野望によるものではなかった。

 古代において、対外政策が明確に変わったのは、6世紀の初頭、継体天皇が即位してからだ。

 その時から663年の白村江の戦いまで、朝鮮半島新羅が、明確な敵であった。そして、たびたび新羅討伐の兵が派遣された。しかし、その全てが失敗に終わり、その過程のなかで、日本は、飛鳥時代から奈良時代へと律令体制を確固たるものとしていった。

 この国内体制の変化において、当初、日置氏が、王権秩序とつながった正確な暦の普及に関わっていたと思われるが、飛鳥時代から奈良時代にかけて日本に陰陽道がもたらされ、暦は陰陽道の中に組み込まれ、陰陽道コスモロジーが、王権の秩序と重なり合うようになった。そのピークが、自らも陰陽道の使い手であった天武天皇である。

 そして、その陰陽道に大きく関わっていたのが賀茂氏であり、賀茂もまた日置と同じように日本各地に痕跡が残る。そして、賀茂氏と日置氏は、ともに須恵器作りという高温の火力を用いる技術と関わり、そのため、鉄製品作りの技術にも通じていた。

 神武天皇の東征神話は、史実なのかどうか? 神武天皇は、「ハツクニシラス」という名が示すように、日本をはじめて「シラス」=「知恵を共有する」国として治めた存在として描かれている。

 その神話において、最初の導き手になったのが、亀の背中に乗った椎根津彦で、この姿は浦島太郎を連想させるが、先日のエントリーでも書いたように、丹後国風土記によれば、浦島太郎は日置の出身である。その場所は、丹後半島の籠神社のすぐ北である。

 古代から現代まで籠神社の神職をつとめてきた海部氏系図では、椎根津彦は、海部氏の祖であり、安曇氏の系図でも、安曇氏の祖になっている。

 そして、日置の地は、近江の高島、信濃犀川、亀岡盆地北端の八木町など安曇氏の拠点だった場所や、福井県高浜町の青海神社や丹後半島宮津(籠神社)のように、椎根津彦の聖域に残っている。

 神武天皇を最初に導いた椎根津彦の背後には、日置氏の存在が見え隠れする。そして、次に神武天皇を導いたのが、ヤタガラス。

 ヤタガラスというのは、別名が賀茂建角身命で、京都の下鴨神社の祭神だ。すなわち、賀茂県主氏の祖である。

 神話のなかで、神武天皇の先導者が椎根津彦からヤタガラスに変わったのは、ハツクニシラスという新秩序の普及において、先導者が、日置氏から賀茂に変わったことが示されている。

 ともに、正確な暦を要にしたコスモロジーと関わりの深い氏族なのである。

 

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