第1369回 古代の二つの海人勢力について

これまで、古代における転換期に大きく関わっていた二つの海人勢力のことを書いてきた。

 一つは、安曇氏(海部氏や、その同族の尾張氏和邇氏を含む)と呼ばれる勢力で、もう一つは、紀氏(越智氏や平群氏も含む)と呼ばれる勢力だった。

 古事記において、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが禊をした時に、綿津見三神住吉三神が生まれ、アマテラス、ツキヨミ、スサノオ三貴神が生まれたのは、その後である。

 イザナギの禊の時に生まれたこれらの神々は、古代日本における転換期の再秩序化に関係している。なぜなら、カグツチの誕生でイザナミが亡くなって黄泉の国の住人になってしまうというのは、古代日本における重要な転機を象徴しているからだ。

 この転機は、神話の時代の終焉を意味している。

 イザナギイザナミ両神が存在する陰陽一体の時は、神話の時代であり、人々は、永遠の時間の中にいた。

 神話の時代の意味について、白川静さんは、このように述べている。

「神話の時代には、神話が現実の根拠であり、現実の秩序を支える原理であった。人々は、神話の中に語られている原理に従って生活した。そこでは、すべての重要ないとなみは、神話的な事実を儀礼として繰り返し、それを再現するという、実修の形式をもって行われた。神話は、このようにして、つねに現実と重なり合うがゆえにそこには時間がなかった。」

 そして、神話の時代の終焉とは、白川さんの言葉では、こうなる。

「しかし、古代王朝が成立して、王の権威が現実の秩序の根拠となり、王が現実の秩序者としての地位を占めるようになると、事情は異なってくる。王の権威はもとより神の媒介者としてのそれであったとしても、権威を築き上げるには、その根拠となるべき事実の証明が必要であった。

 神意を、あるいは神意にもとづく王の行為を、ことばとしてただ伝承するだけでなく、何らかの形で時間に定着し、また事物に定着して事実化して示すことが要求された。それによって、王が現実の秩序者であることの根拠が成就されるのである。この要求にこたえるものとして文字が生まれた。そしてまたそこから歴史がはじまるのである。」

 陰陽一体の時は、人々は永遠の時間の中にいた。過去も現在も未来も一つだった。だから、黄泉という概念もなかった。

 黄泉という概念は、大王の石室が、縦穴式から横穴式になった時と重なる。

 縦穴式の時は、死んだ王は天に上って神となった。だから、石室は、天に最も近い場所に築かれて、決して開けられないように重く巨大な石で蓋をされていた。

 横穴式になって、死んだ王は、地面の奥深くにつながる黄泉の国に旅することになった。だから、黄泉の旅のための食べ物や酒が供えられた。その石室への出入りは、イザナギが黄泉から逃げ帰る時のように、石の扉の開け閉めで行われ、後に他の人物の棺を運ぶための出入りも可能だった。

 つまり、イザナギイザナミを失ったのは、そんなに昔のことではなく、大王の墓が横穴式石室になった西暦500年頃の状況を象徴的に伝えているのである。

 神話の時代の終焉に関わる王権の管理による共通文章を書き表す訓読み日本語も、この時期から始まった。

 西暦500年頃、神話の時代から王権秩序の時代に切り替わる引き金となったのが、新羅の脅威に対する国内体制の変革だった。

 それまでの朝鮮半島は、南には百済、北には高句麗が勢力を誇っていた。この両国は、西に位置する中国の脅威に対抗する必要性のためか、東に位置する倭の国々とは外交的な努力を行って対立的にならないよう注意を払っていたようで、その融和的な政策の結果なのか、朝鮮半島の南の任那の地を倭国の勢力が経営を行っていた。その中に、海人族の紀氏の祖にあたる人物名が多く見られる。

 しかし、5世紀後半から、中国(北魏)は、国境を侵犯する高句麗に手を焼き、高句麗の南で高句麗に従属していた豪族勢力の支援を強化した。この勢力が、503年に「新羅」を正式な国号とし、その勢いで、523年頃より倭国勢力の管理下にあった任那の地に少しずつ進攻するようになり、527年、南加羅など奪い、562年には、完全に支配下に置いたとされる。

 それまでの天皇と血統の異なる第26代継体天皇が、西暦507年に天皇に即位することになったは、朝鮮半島のこの動きと関係があると思われ、継体天皇は、即位後の19年間はヤマトの地に入らなかったが、526年にヤマトの磐余の地に宮を築き、527年に、新羅から奪われた地域を取り戻すために6万の兵を送ろうとした。

 継体天皇の息子の欽明天皇は、新羅から任那を奪還することが宿願であり、遺言にまで残した。その後も、推古天皇をはじめ歴代の王は新羅討伐の兵を送ろうとしたが失敗に終わり、ついには663年の白村江の戦いとなり、新羅と唐の連合軍に大敗する。

 日本における海人勢力は、663年の白村江の戦いで戦死した将軍の阿曇比羅夫や、捕虜になった記録が残る越智直など、6世紀以降、新羅との戦いにおいて、大きな役割を果たした。

 日本は、新羅に対抗するため、国内を一つにまとめあげるための強力な王権を必要とする時代に突入することになったわけだが、この時、国内の新秩序化と新羅との戦いにおいて、海人族が重要な役割を担った。

 日本は海に囲まれた島国であり、山がちな国土は、河川のネットワークで結ばれている。

 それゆえ、船がなければ、人の移動も、物質の移動も難しかった。縄文人は、山の中の狩猟採集者というより、海人といってもいいぐらい水上交通で各地と交流していた。糸魚川のヒスイは北海道から沖縄まで流通し、青森の亀ヶ岡式土器も沖縄まで流通していた。神津島八ヶ岳隠岐などのブランド黒曜石も、各地で人気があった。

 縄文時代においても大陸との交流を示す痕跡が発見されているが、渡来人が日本にやってきて、各地に移動する場合も水上交通が主だった。

 また、鉱山開発も海人勢力によって行われた。

 樹木や腐葉土に覆われた山の中を歩き回って鉱脈を見つけることは難しいが、河川は、地層を削り取っているので、河川沿いに移動すると、その土地の地質がすぐにわかり、鉱脈にあたりをつけやすい。

 たとえば金や銅や水銀などは、主に花崗岩地帯の熱水鉱床に生成され、砂鉄は、玄武岩安山岩花崗岩などの火成岩で多く採取される。

 鉄が重要な鉱物資源となる前から、この国では、丹と呼ばれる辰砂(硫化水銀)が重要な鉱物資源だった。

 魏志倭人伝においても、倭の海人は、辰砂で文身をして、卑弥呼の国では辰砂が得られると記録されている。

 辰砂の赤い色が生命を象徴していると考えられたのか、初期古墳の石室が辰砂で染め上げられているケースも多い。

 海人勢力にとって、辰砂の重要性は、その防腐と防水効果であり、船作りにはこれは欠かせなかった。

 もともと日本に存在していた海人は、一つの血統を長く保ち続けていたとは思えず、渡来人との混血も含め、多様な特徴を持つようになっていたと思われるが、西暦500年頃に起きた国内の再秩序化のために、大きく二つの勢力に分けられた。それが、イザナギの禊の時に生まれた綿津見三神住吉三神に象徴されている。

 またニニギの天孫降臨の神話にしても、二種類の海人族の存在が暗示されている。

 ニニギは、コノハナサクヤヒメと結ばれるが、これは、神吾田津姫という別名を持ち、南九州にツーつを持つアタの海人勢力の女神である。

 この女神は、オオヤマツミの娘となっているが、オオヤマツミを奉斎してきたのは瀬戸内海海人の越智氏で、紀氏の同族である。この勢力が住吉神につながる。(これについては後述)。

 コノハナサクヤヒメは子を身ごもった時、誰の子なのかわからないとニニギに疑われるが、「あなたの子供だったら無事に生まれる」と言って産屋に火を放つ。つまり、ニニギというのは、高熱処理の窯技術を持った渡来人であり、須恵器や鉄道具の生産をもたらした勢力を象徴している。

 そして無事に生まれた山幸彦と海幸彦の兄弟に諍いが起こり、山幸彦は、豊玉姫という別の海人勢力とつながることで、正当な世継ぎとなり、海幸彦は、隼人(南九州の海人)の祖という位置付けに限定され、陰ながら王権を支えることを誓う。

 豊玉姫というのは、綿津見豊玉彦の娘である。

 そして神武天皇は、山幸彦と豊玉姫の子であるウガヤフキアエズ豊玉姫の妹の玉依姫のあいだの子だから、二つの海人勢力の血統を継ぐ存在ということになる。

 二つの海人勢力のうち、綿津見神の聖域が北九州の志賀島であり、ここを拠点としていたのが安曇氏と呼ばれる海人勢力だった。 

海部氏の拠点、丹後の籠神社の前の海岸から見る天橋立。海部氏は安曇氏と同族

 これは、主に、食膳に関わる海人グループだった。

 後に「贄」(にえ)とか「饗」(あへ)呼ばれる海産物は、単なる食用ではなく、古代日本では祭祀に用いられ、房総半島、淡路、若狭、伊勢といった地域が、その調達において重要な役割を担っていた。

 また、有力者の食卓を管理したり、今でもそうだが、外交においても食事は重要な式典となるので、食膳係は、外交や護衛の役割を担うようになり、軍事的な力も持つようになった。

 こうした海産物に関わりながら勢力を増していったのが、安曇系とされる海人勢力で、聖徳太子の妃として有名な膳氏や、飛鳥時代から奈良時代に権勢を誇った阿部氏もここに含まれる。陰陽師で有名な安倍晴明の父、安倍 益材は大膳大夫という饗膳を供する機関の役人だった。 安倍晴明は、親から陰陽道を受け継いだのではなく、賀茂氏の門下生となって陰陽道を学んだのだ。

 もう一つの海人勢力を象徴する住吉神は、神功皇后新羅遠征と密接に関わっている。

 神話のなかで、神功皇后新羅を攻めよと神託を下すのが住吉神である。

 「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」という住吉神の神託があった時、神を信じなかった仲哀天皇は、熊襲を攻め、敗れて矢に当たって亡くなったとされる。そして、神に従った神功皇后は、新羅を攻撃し、勝利したと神話は伝える。

 神功皇后は、応神天皇の母とされるが、仮に応神天皇が史実だとしても、その時期は、おおよそ5世紀初頭となり、この時には、新羅という国じたいが成立していない。

 そして、神功皇后は、お腹に応神天皇を妊娠したまま鮮半島に出兵して新羅の国を攻めたとされ、その時に、産月を延ばすため石をお腹に巻いたという不可思議な話があり、その石は、当初、戦いの後に応神天皇を産んだ北九州の系島にあったのだが、雷が落ちて三つに分かれ、一つは壱岐島の月読神社、もう一つが京都の月読神社にはもたらされたということになっている。

京都の月読神社には、新羅討伐の国威発揚と関わりの深い神功皇后の月延石がある。

 三つの石のうち、残っているのは、京都の月読神社のものだけである。

 なんとも奇妙なこのエピソードは、いったい何を象徴しているのか?

 まず、京都の月読神社は、畿内に月読神とともに亀卜がもたらされた場所であり、現在は松尾大社の摂社となっているが、もともとは、桂川西芳寺川の合流点に鎮座していた。

 ちょうど桂川の曲がりに位置して、左手川に愛宕山、右手川に比叡山を望む雄大な景色の場所であり、隣の松尾中学校を建設する時に弥生遺跡が発見されているので、古くから人々が営みを続けていた場所である。

 この場所に月読神がやってきたのは、日本書紀では西暦487年。この年号が正確がどうかはわからないが、顕宗天皇の時期となっているので、応神天皇の時代よりはかなり新しいということを、日本書紀の編纂者は理解していた。

 なぜか、新羅征伐の象徴である神功皇后の伝承と、5世期末に畿内にもたらされた月読神がつなげられているのである。

 明らかなことは、伝説上の応神天皇が生まれた頃は、新羅という国は存在しておらず、その脅威もなかった。

 新羅が、日本にとって意識せざるを得なくなっていくるのは、月読神が京都に祀られるようになった5世紀末からである。

 京都の月読神社の旧鎮座地は、現在も、吾田神町という地名である。

 「アタ」というのは、上に述べたように南九州から各地に広がった海人勢力を示す言葉であり、コノハナサクヤヒメの別名が、神吾田津姫だった。

 そして、月は、潮の干満と大きく関わっており、特に瀬戸内海は、引き潮と満ち潮では潮の流れは大きく変わり、潮を読まずして、航海は不可能だった。

 月延石によって月読神と神功皇后を結びつけたのは、瀬戸内海で活動をしていた海人勢力だったと思われ、これが、後に越智氏や紀氏と呼ばれた氏族だった。彼らは、朝鮮半島任那の経営に積極的に参加していたが、そのことを伝説的に象徴している人物が、紀氏の祖の武内宿禰である。

 彼は、神話上、5代の天皇に仕えた忠臣で、神功皇后新羅征伐に深く関わっているなど、朝鮮半島における軍事面や外交面で活躍した。

紀ノ川下流域の日前神宮は、紀氏の聖域だが、ここは、もともとは、海上交通と林業の神、五十猛神の聖域だった。

 紀氏は、安曇氏や阿部氏のように食膳を司ったという記録がない。その代わりに、紀伊国は木国の意で、木材の産地・供給地として重要地だったため、紀氏は、杉や楠木を用いて外航用の構造船をつくり、森林資源を調達しやすい瀬戸内海周辺や、紀伊国の神で林業の神でもある五十猛神の聖域の多い伊豆などの海人勢力とネットワークを作っていた。

 そして、住吉神というのは、新羅討伐を転機にして、紀伊国の丹生都比売が、国家神となって名前が変わった存在なのである。

播磨国風土記』によれば、神功皇后新羅出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来て、この討伐の後、丹生都比売は、紀伊国の管川の藤代の峯に鎮まったとある。

 しかし、住吉大社の神官が大社の由来を伝える『住吉大社神代記』では、神功皇后新羅討伐の後に、紀伊国の藤代の峯に鎮まったのは、住吉大神となっており、その後、住吉大神が播磨の国に住みたいと言い、大藤を切って並べて流れ着くところに祀れということになり、明石に流れ着き、ここが、住吉神の聖域となった。

 住吉神も、丹生都比売も、紀伊国の藤代の嶺に鎮座していたのである。

丹生都比売神社。紀伊国の丹生都比売が、瀬戸内海に移って、新羅討伐と深く関わる住吉神となった。

 つまり、新羅との戦いの前、紀伊国にいた丹生都比売大神が、新羅との戦いを通して、瀬戸内海に遷って、住吉神に変わったのだ。これは、紀伊国の地主神だった丹生都比売大神が、新羅対策のために住吉神という国家神となったことを示している。だから、古事記日本書紀には、丹生都比売大神は存在しない。

 そして、この時期、紀伊国の紀氏が、瀬戸内海に勢力を拡大していった。

 紀ノ川下流域の岩橋千塚古墳群は、日本最大の群集墳であり、紀氏の墓とされているが、この場所に特徴的な石棚付き石室を持つ古墳が、6世紀、瀬戸内海を取り囲むように広がっていった。

 そして、この二つの海人勢力と、婚姻などを通じて同族していた渡来系技術集団がいて、安曇系海人とつながっていたのが、日置氏だった。現在も残る日置の場所は、近江高島、丹後、信州の安曇野千曲川をつなぐ犀川など、安曇氏が活動していた場所に多い。

海部氏の拠点、丹後の籠神社の奥宮の真名井神社。すぐ北に日置の地があり、ここは、丹後国風土記では、浦島子(浦島太郎)は、この日置の出身である。

 そして、紀氏など、黒潮系、瀬戸内海系の海人勢力は、先日のエントリーでも書いたように額田氏や平群氏など、鍛冶や馬の飼育と関わる勢力と同族化して、それらが一体化した軍事勢力となっていった。

 また、神武天皇の東征神話において、最初に神武天皇を導くのは椎根津彦だが、これは、丹後の籠神社の神職をつとめてきた海部氏の系図では海部氏の祖神であり、安曇氏の系図では、安曇氏の祖神となっている。

 そして、神武天皇を、紀伊国の熊野の地から導くのは、ヤタガラスであり、これは、別名が、賀茂建角身命賀茂氏の祖神である。

 紀氏の拠点だった和歌山の紀ノ川から奈良盆地に到る出入り口は、現在の御所市であり、ここには、高鴨神社や鴨都波神社をはじめ、カモ系の代表的神社が集中している。 

 山城賀茂氏系図一説では「陶津耳命賀茂建角身命」という注釈がある。

 そして、葛城国造の祖は剣根命だが、葛城氏の系譜を見ると、剣根命は、陶津耳命の孫にあたる。

 つまり、ヤタガラスを祖とする賀茂氏は、葛城氏と同族ということになるのだが、葛城氏の祖の葛城襲津彦は、朝鮮半島における外交で活躍する伝説上の人物であるが、武内宿禰の子とされ、紀氏と同族となる。

 こうしてみると、賀茂氏と、海人勢力の紀氏はつながっている。

 神武天皇の東征において、最初は、安曇系海人勢力とつながる椎根津彦が導き、その後に、紀氏系海人勢力とつながるヤタガラスが導くという構図になっているのだ。

 ちなみに、西暦500年か律令制度が始まる西暦700年までの200年間で、国内統一に大きな力を発揮した代表的な天皇が、6世紀の継体天皇と、その子の欽明天皇、および7世紀後半の天智天皇天武天皇である。

 継体天皇の最初の妃は尾張目子媛で、尾張氏は安曇系の海部氏と同族である。そして、その後に結ばれたのが手白香皇后で、彼女の父の仁賢天皇の父、市辺押磐皇子は、葛城氏の黒媛の子である。継体天皇は、二人の妃を通じて、二つの海人勢力とつながっている。

 欽明天皇の場合は、蘇我稲目の娘、堅塩媛と小姉君を娶ったが、この二人は、先日のエントリーで書いたように、紀氏系と、安曇系の母を持つと思われる。

 天智天皇は、乙巳の変蘇我入鹿を打倒する前に、藤原鎌足の助言で、越智娘と姪娘を娶り、この二人の娘は、それぞれ、後の天皇となる持統天皇元明天皇を産むが、これも先日のエントリーで書いたように、越智氏は、紀氏系の越智氏、姪娘は安曇系の阿部氏の母を持つと考えられる。

 最後に天武天皇だが、安曇系の凡海氏によって養育され、持統天皇と大田皇女という越智娘の娘たちと、阿部氏の母を持つ新田部皇女を妃にしている。

 この4人の天皇は、国内を一つにまとめるために、神話の中の山幸彦のように、二つの海人勢力と深い関係を結んでいることがわかる。

 神話の中で、黄泉から逃げ帰ったイザナギが禊をする時に生まれる綿津見三神住吉三神は、アマテラス、ツキヨミ、スサノオ三貴神に先行する形で生まれており、この海人の神が、国内の新秩序において、いかに重要な存在なのかが示されているのだが、それは、西暦500年から700年のあいだの日本の転換期における史実を反映しているのだろうと思われる。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー


ピンホールカメラで向き合う日本の古層。Sacred world Vol.1,2,3 販売中 https://www.kazetabi.jp/