第1454回 古代、聖から邪に転換した竜蛇神。

 

 数日前に、近畿の真ん中の縦長の盆地の北と南の端にあたる吉野と京都を結ぶ丹生の女神のことについて書いたが、今度は、その京都を軸にした東と西の関係について考えてみたい。
 吉野三山に鎮座し、蛇神の天津羽羽神を祀る波宝神社の真北に位置する上賀茂神社は、京都を代表する二つの聖山、比叡山愛宕山を結ぶ東西の同緯度ライン上に鎮座している。
 この東西ラインは、東に行けば近江富士の三上山で、西に行けば亀岡の出雲大神宮にいたる。

 不思議なことに、この東西ラインには、「御影」という名が深く関係している。
 三上山に降臨したのは、鍛冶の神、天御影命であり、比叡山の西麓には御蔭山がある。下鴨神社の祭神である賀茂建角身命は、ここに降臨したとされる。
 さらに、亀岡の出雲大神宮の背後にそびえる山も、御影山だ。
 天御影命が鍛冶の神ということからか、この東西ラインには、鍛冶関連の場所も並ぶ。近江の三上山の近くには、製鉄関連の遺跡や、日本最大の銅鐸の出土があるが、京都の愛宕山上賀茂神社のあいだにある高山寺あたりは、世界最高品質の仕上げ砥石の産地であり、この東西ライン上の西の端には、現在、砥石館(亀岡市)があるが、ここは、中砥としては世界最高品質の青砥石の産地だ。
 金属製品は、砥石がなければ、使い物にならない。
 さらに言うならば、愛宕山カグツチの聖域で、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命は、火雷神の子である。
 火雷神は、カグツチの火によってイザナミが黄泉の国で醜い姿になっていた時、その身体に現れていた神。
 この火雷神は、奈良の葛城を拠点にしていた鍛冶関連氏族の忍海氏が祀っていた神で、現在、そこには葛木坐火雷神社が鎮座している。
 火雷神というのは、鍛冶の際の火花が象徴化された神だと思われる。
 そしてカグツチというのも、単なる火の神ではなく、古代の産業革命を引き起こした火であり、なぜなら、カグツチの火で陰部に火傷を負ったイザナミの大便から生まれたのが陶器の神であるハニヤスで、陶器というのは、器として使われるだけでなく、鉄製品の鋳鉄技術においては、高温で焼き固めた須恵器という陶器が必要だった。
 そして、瀕死の状態のイザナミの尿から生まれたのが、もともとは水銀の神であろうミズハノメだ。ミズハノメは、一般的に水の神のように思われているが、この神を祀る代表的な聖域である丹生川上神社の鎮座地は、丹生(辰砂=硫化水銀)と関わりの深い地だ。水銀というのは天然では液体状態で存在せず、そのほとんどが辰砂という硫黄との化合物で存在しているが、この化合物を熱することによって液体水銀を分離して取り出す。火傷を負ったイザナミの尿からミズハノメが生まれたというイメージは、辰砂を熱して水銀を取り出す工程に重ねられている。
 そして、このようにして取り出された水銀は、化合しやすい性質なため、金や銀や銅の精錬に利用される。
 このように鍛冶など新技術と関わりが深いラインが、近江から京都にかけて東西につらぬいているが、このライン上の亀岡のところで、日本の歴史上極めて重要なことが、1500年前に起きている。
 御影山の麓の出雲大神宮の真西700mのところに千歳車塚古墳があるのだが、これは、6世紀前半、第26代継体天皇の時代に築かれた全長が82mの前方後円墳であり、古墳時代後期としては丹羽地方最大だ。
 そのため、この古墳の被葬者は、倭彦王とされている。
 倭彦王というのは、第25代武烈天皇が後継者の子供をもたずに亡くなった時、天皇への即位を望まれた王なのに、殺されるのではないかと恐れて逃げてしまったため、代わりに継体天皇が即位することになったという奇妙なストーリーが、日本書紀に残されている。
 現在の天皇の血統を遡れるのは、第26代継体天皇までである。それゆえ、もし亀岡の倭彦王が逃げなければ、天皇の血統は違ったものになっていたということになる。
 この話が史実かどうかはわからないが、たとえフィクションであったとしても、なぜ、亀岡の地が、天皇の血統の分かれ目であるかのような記録が残されているのかが気になる。
 現在、丹羽と丹後は分かれているが、律令制以前は但馬、丹後も含んで丹波国造の領域とされ、その中心が、亀岡だった。
 国府が置かれていた場所は、千歳車塚古墳から北西2.0kmの八木町だと考えられている。
つまり、丹羽というのは、若狭湾日本海を通じた大陸への玄関口で、その政治的拠点の亀岡は、桂川を通じて京都から瀬戸内海、奈良方面にも出られやすいところだった。
 この地は、平安後期に台頭した清和源氏とも関わりが深く、神蔵寺は、鬼退治で有名な源頼光藤原道長の後援者でもあった)が帰依し、源頼政首塚も亀岡にある。
 足利尊氏が、鎌倉幕府打倒の挙兵をした地も、亀岡の篠村八幡宮だ。
 日本海畿内をつなぐ要衝の地である亀岡は、古代から、歴史の転換に関わる場所だった。
 そして、比叡山愛宕山と亀岡の出雲大神宮を結ぶライン上で、もう一つ気になるところがあり、それが、昨日訪れた千代川町だ。

石器時代から中世にかけての千代川遺跡のある場所は、保津川桂川)の向こうに、丹羽富士と称される牛松山を望むことができる。

 保津川桂川)の西、現在、千代川インターチェンジがあるところに、石器時代から中世まで続く千代川遺跡があった。
 そして、このあたりには、18基にも及ぶ拝田古墳群がある。
 なかでも16号墳は、和歌山の紀ノ川下流域の岩橋千塚古墳群や、瀬戸内海沿岸に見られる石棚付石室を備えた古墳だ。
 亀岡盆地は、この石棚付石室を備えた古墳が7基発見されており、全国的には紀ノ川流域に次いで集中している。この石室の分布が、海人勢力の紀氏の活動域と重なっているため、内陸部でありながら、亀岡も、海人勢力と関わっている可能性が高い。
 というのは、この千代川には、保津川を挟むように月読神の聖域があり、とくに小川月神社は、延喜式名神大社である。
 亀岡に月読神の聖域があるのは、現在、京都の松尾大社の摂社になっている月読神社との関わりが指摘されているが、京都の月読神社も、もとは延喜式名神大社であり、その歴史は、隣の松尾大社より古い。
 日本書紀によれば、京都の月読神社は、西暦487年に、壱岐から亀卜がもたらされた場所である。
 日本の卜占は、弥生時代から牡鹿の肩甲骨を使った鹿卜が行われていたが、6世紀以降は、亀卜が吉凶の判断を司ることになった。
 亀卜が導入された時期は、今来という渡来人が大挙してやってきており、訓読み日本語や官僚制度など、その後の日本の秩序形成において重要な役割を果たした。
 そして、月読神というのは、三貴神の一神でありながら、アマテラスやスサノオと比べて、神話の中の存在感は小さく、物語は一つだけであり、しかも、かなり特殊な内容だ。
 その内容は日本書紀に記録されており、月読神が保食神と対面する時、保食神が饗応として口から飯を出したので、「けがらわしい」と怒って保食神を剣で刺し殺してしまい、保食神の死体からは、牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となったというものだ。
 古事記の中では、これと同じ内容の物語が、スサノオ と大宜津比売(オオゲツヒメ)のあいだで起きている。
 数日前のエントリーで、大宜津比売の別名が天津羽羽神で、”はは”というのは蛇を意味し、大宜津比売が殺されるエピソードは、古代ギリシャにおいて、蛇神で豊穣の神であったメドゥーサが、都市秩序の守護神(=合理主義精神)のアテナイの助力を受けたペルセウスによって殺されたことと同じだと書いた。
 日本においても、縄文土器には蛇のモチーフが多く用いられており、蛇は豊穣神だった。
 しかし、日本に新しい秩序がもたらされた時、蛇神は、邪悪な神として殺された。そのことが、スサノオによって殺された豊穣神である大宜津比売、月読神によって殺された保食神の物語に象徴されているのだろう。
 さらに、数日前のエントリーにおいて、大宜津比売の別名の天津羽羽神は、阿波比売という名を持ち、この女神は、『続日本後記』(840年)によれば、大山祇神三島明神)の后でもあり、近畿の吉野川や四国の紀ノ川など、中央構造線上と、そのラインを伊豆までのばしたところに祀られているということを書いた。
 大山祇神というのは、天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメの父である。
 そして、古事記においては、大山祇神​​と結ばれて神々を産んだのは、野椎命(ノヅチノカミ)であり、野椎というのは、野つ霊(ち)であり、これは、草や野の精とも言われるが、伝説的な蛇であるツチノコの別名でもある。
 この野椎命を祀る藤越神社が、亀岡の千代川町の、石棚付き石室を持つ拝田古墳や千代川遺跡の近くに鎮座している。

藤腰神社。南九州の海人、吾田の女神であり蛇神の野椎神を祀る。

 大宜津比売や野椎神といった竜蛇神は、イザナギイザナミの陰陽両神が並び立っていた時の神であり、これは縄文時代から続くもので、この時代、蛇は、聖なる存在だった。
 それに対して、大宜津比売を殺したスサノオや、保食神を殺害した月読神は、カグツチの火によってイザナミが死んだ後に生まれた神であるから、陰陽の調和が崩れるような社会変化があった新しい時代の神だと言える。この時代、蛇は邪悪とされた。
 近江の三上山から西に伸びる鉄関連の場所や「御影」の名が残るライン上にある亀岡の千代川町には、石器時代からの遺跡があり、保津川を挟むようにして月読神の聖域があり、さらに、瀬戸内海の海人と関わりが深いと思われる石棚付き石室を備えた古墳があり、この古墳のすぐ近くに、蛇神の野椎命を祀る藤越神社が鎮座している。
 陰陽調和の時代と、陰陽調和が崩れた時代の聖域や史跡が、重なり合うようにして存在している。
 野椎命は、別名が、カヤノヒメで、南九州の吾田の海人勢力の女神である。
 千代川遺跡から真南3.5kmのところに、稗田野神社が鎮座しており、ここは、古事記編纂に関わった稗田阿礼生誕の場所とされるが、この神社も祭神は、野椎命と、大山祇神と、さらに保食神である。
 奇妙なことに、紀ノ川河口と瀬戸内海沿岸に分布し、例外的に内陸部の亀岡に7基存在する石棚付石室を持つ古墳は、この稗田野神社と、千代川遺跡のあいだの南北3.5kmに集中しているのだ。
 石棚付石室を持つ古墳は、6世紀以降に築かれており、月読神が京都の桂川沿いに祀られるようになった後だから、月読神と石棚付石室を持つ古墳の勢力は関係していると思われる。
 そして、この月読神に殺された保食神は、スサノオ に殺された大宜津比売と同じ性質で、大宜津比売は、蛇神の天津羽羽神と同じ。同じ蛇神である野椎命とともに、これらの女神神は大山祇神の妻であり、吾田の海人勢力の女神でもある。
 大山祇神の娘であるコノハナサクヤヒメもまた、別名が神吾田津比売だから、野椎命や大宜津比売の娘という位置付けになる。 

 天孫降臨のニニギは、大山祇神の妻である吾田の海人勢力の女神の子であるコノハナサクヤヒメと結ばれる一方、コノハナサクヤヒメの姉妹であるイワナガヒメのことは拒んだ。
 同じ吾田の海人勢力の女神であるイワナガヒメは、古代ギリシャにおいてペルセウスに殺された蛇神のメドィーサと同じで、新しい秩序体制からは嫌われたのだ。
 同時に、新しい秩序体制は、コノハナサクヤヒメを通して、古くから伝えられてきた価値観も融合した。
 これが、日本の古代に秘められた構造であるのだが、さらに複雑なことに、表から排除されたように見えるものは、祟り神となりながらも、丁寧に祀られることで門客神(アラハバキ)となって、門を守る鬼神になった。
 京都においては、上賀茂神社から鴨川をはさんで真西1kmのところに西賀茂大将軍神社が鎮座するが、祭神は、イワナガヒメである。この場所は、平安京を守る四神相応の神、北を守る玄武とされる船岡山の真北2kmで、大極殿からは真北4.5kmだ。
 このイワナガヒメの聖地は、平安京の北の門を守っている。
 さらに、平安京大極殿の真西19kmところが、保食神を祀る亀岡の稗田野神社なのである。この場所は、古代、山陰道沿いの佐伯郷で、南九州の海人族の隼人が居住する場所でもあった。
 隼人は、宮中における門の番人でもあった。さらに、四神相応の西を守る白虎は、「道」とされるので、山陰道に沿った稗田野神社の場所こそが、平安京の白虎(専門家のあいだでもどこなのか定まっていない)だった可能性が高い。 
 四神相応で平安京の南を守る朱雀もまた、専門家のあいだでも場所が定まっていない。一般的には巨椋池ではないかとされているが、この場所は、平安京から西にずれている。平安京の真ん中を貫く朱雀通りの真南の場所は、京田辺の月読神社であり、ここもまた隼人の居住地で、隼人舞の発祥の地で知られている。
 古代中国において、朱雀は「鳥隼」のことである。それゆえ、その朱雀の地の守り人として居住させられた南九州の海人が、隼人と呼ばれるようになったのだろう。
 南九州の海人は、呪力を持つと信じられており、それゆえ門の番人になったわけだが、祟り神もまた、丁寧に祀ることで守神となるという思想があって、それが門客神になった。
 いずれにしろ、この国の古層には、南九州の海人たちの文化があり、新しくやってきた人たちによって、一部は忌避されながらも、一部は融合された。さらに忌避されたものも、祟り神から守り神へと転換された。
 そうした複雑な構造が、今でも紐解くことが可能な状態で残されているのが、亀岡だということになる。
 第25代武烈天皇の後継者がいない時、新しい天皇の候補となりながらも逃げてしまった亀岡の倭彦王という奇妙な物語。そして、月読神が、食事の作り方が不潔だからという理由で殺してしまった保食神の物語。この月読神の聖域と保食神の聖域が、亀岡においては、同じところに残っているという事実。
 非常にわかりにくい日本の古層であるが、1500年も前のことを、現代に引き寄せられる可能性のある事物や痕跡が、残り続けていることもまた、歴然たる事実だ。
 ただし、大きな課題は、それらの事物や痕跡と、どう向き合うかだ。
 そして、その事物や痕跡の背後を、どのように洞察するのか?
 教科書に書かれている歴史は、事物を並べているだけであり、その背後への洞察は、まったくといっていいほど含まれていない。
 実証主義というのは、明確に書かれた記録でも出てこなければ、事実とはしない。だから想像力を駆使して読み解かなければいけない神話も、単なる作り話として、隅に置かれてしまう。

 

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