神話上、ニニギは、天孫降臨つまり外部からやってきた存在だが、神武天皇は、そうではない。
神武天皇の母親は、豊玉彦の娘の玉依姫であり、祖母は、豊玉彦の娘の豊玉姫、曾祖母は、コノハナサクヤヒメと、女系を通じて海人が三代に渡って続いているし、神武の父親のウガヤフキアエズも、豊玉姫の息子で祖母がコノハナサクヤヒメで、二代わたって女系に海人族が関わっている。
神武天皇の物語を作った人たちは、この国を最初に治めた王に、縄文時代から存在していた海人族の血がしっかりと流れ込んでいるという前提を崩していない。
第26代継体天皇もまた、海人族の安曇氏の拠点である安曇川が琵琶湖に流れ込む近江高島出身で、継体天皇が築いた三つの宮も、河川交通との関わりが深い。
その上で、(3)で述べたように、継体天皇は須恵器という新しい技術関連の勢力と結びついており、さらに、鍛冶関連勢力がそこにくわわる。
継体天皇が弟国宮を築いた京都の向日市に鎮座する向日神社は、明治神宮のモデルになった神社で、明治神宮は、この向日神社を1.5倍にして設計された。
この向日神社の由緒では、「神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立です。」となっているのだが、神武天皇は、山城国に遷り住んでいないので、この場所に宮を築いた継体天皇が、火雷神を祀ったと考えた方が自然だ。
火雷神は、古事記の中では、カグツチを産む時に陰部が焼かれて亡くなったイザナミを、イザナギが黄泉の国に訪ねた時、「決して見るな!」と言われたのに見てしまったイザナミの身体の胸のところに生じていた神である。
イザナミの死によって陰陽のバランスが崩れるこの物語は、古代におけるコスモロジーの転換を伝えており、そこに、火雷神も関与している。
黄泉から逃げ帰ったイザナギは、禊を行い、その時、綿津見三神と、住吉三神という海人族の神々と、アマテラス、月読、スサノオが生まれた。
この神話が伝えている内容も、それほど昔の出来事ではない。なぜなら、黄泉というコスモロジーが登場するのは、西暦500年頃、大王の古墳が横穴式石室になる頃だからだ。
それ以前、亡くなった大王は、天に上って神となった。だから石室は墳丘の一番高いところに作られた。
横穴式石室は、死んだ後、大地の底の黄泉の世界に旅立つために、墳丘の一番下に築かれ、石室内には、黄泉の旅のための食物が祀られた。
ちなみに、カグツチを祀る聖域として知られた場所が、京都の愛宕山だが、この山頂に愛宕神社が築かれたのは、奈良時代後半、和気清麻呂によるものであり、元愛宕神社は、亀岡に鎮座している。
その場所は、(3)でも紹介した、ヤタガラスの聖域の下鴨神社と、ヤタガラスの妻、イカコヤヒメの聖域の宮川時神社を結ぶライン上で、宮川神社から東に10kmのところ、丹羽富士とも言われる秀麗な牛松山の麓である
愛宕神社は、もともとは阿多古と表記し、ここにも南九州の海人族である「アタ」が関係してくる。
亀岡のこのあたりを拠点としていた阿多根子という人物が、阿多古神社の創建に関わっており、この人物は、神武天皇の時代、山城国(京都)の国造に任命されたと『先代旧事本紀』が伝えている。
愛宕山は、京都と亀岡のあいだに聳えているが、阿多古は亀岡の地を指しており、愛宕山は、もともと亀岡側から見ることを基準に名付けられたようだ。
さらに『先代旧事本紀』では、神武天皇の功臣として、天目一命(天御影命)を山代国造に任命したと記される。
同じ神武天皇の時代という設定で、山城と山代を書き分けているが、漢字表記は、せいぜい6世紀の前半くらいまでしか遡らないのだから、同じ「やましろ」で、阿多根子が、鍛冶の神、天御影命と重ね合わされている。
さらに、日本書紀では、第26代継体天皇を支えた三尾氏と、継体天皇の母の振姫は、垂仁天皇と山城国王の娘のあいだに生まれた磐衝別命(いわつくわけのみこと)をルーツとしている。
時代設定がわからないように操作されているが、継体天皇の母、振姫の血に、「やましろ」王の血が入っていることを暗に伝えている。
そして、阿多根子が、神武天皇の時代の人物だと設定されているが、これまで書いてきたように、神武天皇は、継体天皇の時代を神話的に描いたものであり、継体天皇の背後に、「天御影命」という神で象徴される阿多根子という人物が存在し、彼は、カグツチを祀る阿田古神社(愛宕神社)の創建と関わっていた。
上に述べたように、カグツチは、黄泉という概念が生まれた時のコスモロジーの転換を引き起こした存在である。
それは単なる火の神ではなく、天御影命が象徴しているように、鍛冶のための火である。しかも、その鍛冶は、鍛鉄よりも高温の火によって、大量の鉄製品を作り出すことができる鋳鉄技術(韓鍛冶)とつながったものだろう。
人間が鉄を手にいれるだけでは、社会構造の変換まで至らない。一本の剣を作り出すのにも大変な時代、貴重な鉄製品は、権威の象徴になったかもしれないが、実生活や実際の戦闘において決定的な効力を生み出すものではなかった。
さて、ヤタガラスを祖とする賀茂氏と関わってくる須恵器は、コスモロジーの転換と大きく関わっている。
先にも述べたが、水が漏れないこの陶器は、酒や食物を盛って祭祀道具として用いられることが多く、とくに、横穴式石室になった後には、死者の黄泉の旅の食物が須恵器に供えられた。
死んだ王が神になる時代から、王もまた、死んだ後、黄泉の旅に出る時代への転換である。
また、須恵器という硬い陶器を焼くための窯は高温に耐えうるもので、これが、鉄製品の技術進化にも関わっている。
古来、日本には倭鍛冶があったが、古事記によると、新しく韓鍛冶(からかちぬ)という鍛冶技術をもった渡来人が来日したことが記録されている。
この新しい鍛冶技術というのは、鋳鉄技術ではないかと思われる。
鍛冶には鍛鉄と鋳鉄があるが、鍛鉄というのは、鉄を熱して柔らかくなったところをハンマーで叩いて鉄製品を作る。それに対して鋳鉄は、ドロドロに溶かした鉄を型に流し込んでつくる。
ヒッタイトなど世界の鉄先進地帯で行われていたのが鍛鉄だった。しかし、殷や周の時代に優れた青銅器文化を築き上げた中国では、複雑な青銅器製品を作るために発達させた鋳鉄技術を、鉄製品づくりにも応用した。
鋳鉄は、大量生産には向いているが、鍛鉄に比べて脆い。だから、日本刀など最高品質のものは、いわゆる倭鍛冶とされる鍛鉄で作られている。
しかし中国は、鋳鉄技術を発展させ、鉄製品の強度としては鍛鉄に劣るものの、十分に実用に耐えうる鋳鉄製品を作ることを可能とし、これによって大量生産が可能になった。一種の産業革命であるが、この技術が、5世紀の日本にもたらされたのだ。
神話の中で、スサノオ が八岐大蛇を退治した時、スサノオ の剣と、八岐大蛇の中にあった剣がぶつかって、スサノオ の剣が欠けてしまったというエピソードがあるが、これは、新しい技術で作られた鋳鉄の鉄製品の方が、古い技術で作られた鍛鉄の鉄製品よりも、脆いということを伝えていると思われる。
鋳鉄による鉄製品は、溶かした鉄を鋳型に流し込んで作るが、この鋳型は陶器であり、高温に耐えうるものでなければならない。
継体天皇の母、振姫の出身の福井の坂井市の北に位置する石川県の小松市の木場町から那谷町への丘陵地で、約60箇所もの古代の製鉄遺跡が、須恵器の窯場と重なる形で残っている。ここは、北陸地方でも最大の古代の鉄製造拠点だが、耐火性に優れた粘土で作る須恵器と、鉄技術の関連が伺える。
いずれにしろ、5世紀、大挙して渡来人がやってきた後、武器や農具として十分に使用に耐えうる鉄製品の大量生産の時代が始まった。
鉄が普及品になることで、社会構造も変わる。その転機が、鋳鉄技術であり、その時、コスモロジーの変化が生じた。イザナミの死は、そのことを伝えており、コスモロジーの変化の後、新しく秩序の中心になるのが、黄泉から逃げ帰ったイザナギが禊をした時に生まれた二つの海人勢力(綿津見と住吉)と、三貴神(アマテラス、スサノオ 月読神)だった。
スサノオ は、5世紀の鋳鉄技術(韓鍛冶)の伝来と普及を象徴している。月読神は、5世期末、壱岐から山城国に月神祭祀とともに伝わった亀卜と関わっており、亀卜は、継体天皇の時代の頃より、重要な朝廷儀礼や重要意思決定において、占に用いられた。
そして、イザナギとイザナミの両神がそろっていた時代の太陽神は、「おおひるめ」という自然神の一つだったが、イザナミが死んだ後、太陽神は、アマテラスという形で復活する。それは、鋳鉄技術を象徴するスサノオ の狼藉によって、太陽神が天岩戸に籠もって世界が闇に包まれてしまったが、新たな祭祀体制によって、新たな秩序づくりのために、太陽神が岩戸から顔を出して地上に現れる神話で説明されている。その新しいビジョンは、「あまねく照らし渡す」ということであり、ウシハクという強いものが全てを独占する世界から、シラスという共有の時代への移行という、タケミカヅチがオオクニヌシに迫る国譲りのビジョンと同じである。
鋳鉄技術によって生産性が高まるものの、破壊力や殺傷力も高まる転換期には、新たなビジョンによる体制づくりが必須だったのだ。
継体天皇の皇后、手白香皇女の父、仁賢天皇は、幼少の頃、雄略天皇による殺害を逃れて、韓鍛冶の忍海氏に支えられて、兵庫県の志染(金物生産で知られる三木市)に匿われていたという神話が作られている。
これは、雄略天皇を独裁と殺戮の象徴として示しながら、新しい鍛冶技術をもった忍海氏が、そうした専横体制に従属しない存在として伝え、手白香皇女を皇后とした継体天皇に、そのスタンスが引き継がれたことを意味している。
継体天皇が弟国宮を築いた地に鎮座する向日神社の祭神は、火雷神だが、ここから真南50kmの奈良県葛城に笛吹神社(葛木坐火雷神社)が鎮座しており、ここもまた、代表的な火雷神の聖域である。
この神社の周辺には、継体天皇の時代と重なる6世紀中葉頃を中心とした約80基で構成される群集墳があり、笛吹神社境内にもある古墳が、その盟主のものと考えられている。
このあたりは、渡来系で鍛冶技術に優れた忍海氏の拠点であり、すぐ近くに、鉄器生産で知られる脇田遺跡がある。忍海氏は、飛鳥時代の推古天皇の治世における新羅討伐のために鉄の武器を製造したことが記録として残っている。
火雷神は、この渡来系の鍛冶関連氏族、忍海氏と関わりがある。
さらに、この火雷神を祀る笛吹神社(葛木坐火雷神社)は、もともとは火雷神社と笛吹神社(尾張氏の祖神の天香山命が祭神)の2社だったものが合祀されたもので、この地は、古代、尾張氏の拠点であり、高尾張邑という地名だった。
つまり、この場所は、継体天皇にとっては、最初の妃である尾張目子媛と、皇后になった手白香皇女に縁がある土地だということになる。
そして、継体天皇が築いた弟国宮(向日山)の火雷神は、山城国風土記のなかで、朱塗りの矢となって賀茂建角身命の娘の玉依姫と結ばれて、賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)が生まれたと記録されている。
賀茂建角身命というのは、別名がヤタガラスで、神話の中では、神武天皇の東征で、熊野からヤマトへの道案内をしたとされる。この賀茂建角身命を祀る代表的聖地が京都の下鴨神社だということと、神武天皇と継体天皇と重ね合わせて、下鴨神社が、筒城宮の位置に合わせて建造されたことは、(3)の記事で書いた。
そして、この朱塗矢の物語だが、火雷神が天御影命に置き換えられて、そっくりの話が播磨国風土記に記録されている。
女神の道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父のわからない子を産んだ。
父親を知るために占いにつかう酒をつくり、神々をあつめ、生まれた子神に、自分の父だとおもう神に酒をささげさせた。
その子神は、天目一箇命(天御影命の別名)にささげたので、この子の父が判明した。
これは、山城国風土記のなかの「朱塗りの矢と玉依姫とのあいだに生まれた賀茂別雷命に対して、賀茂建角身命が、自分の父に酒を飲ませよと命じると、賀茂別雷命は屋根に穴を開けて天に昇った。そして、彼の父、丹塗りの矢は、乙訓神社の火雷神であることがわかった。」という内容と同じである。
火雷神と天御影命は同じであり、いずれも鍛冶関連の神なのだ。
継体天皇の背後にいた阿田根子と、天御影命は同じであると上に書いたが、そこに火雷神が重なってくる。
だから、弟国宮があった地の向日神社に、火雷神が祀られている。
この向日神社が、明治維新の時に作られた明治神宮のモデルになったことも、初代天皇を、継体天皇とみなしているという真相が関わっているのだろう。
山城国と亀岡と継体天皇の出身の近江のあいだで、「天御影命」つながりの興味深い地理的な痕跡がある。
近江富士を称される三上山は、天御影命が降臨した山とされるが、その北麓の三上神社、京都のヤタガラスが降臨したとされる御蔭山。ここが、下鴨神社の元宮とされている。5月、賀茂神社で行われる葵祭に先立って、この御蔭神社で御蔭祭が執り行われるが、この祭は、鴨社創祀の祭とされている。
そして、父親が、火雷神=天御影命の賀茂別雷命を祀る上賀茂神社、カグツチと火雷神の聖域、愛宕神社、そして亀岡の出雲大神宮(背後の神体山が御影山)と、北緯35.06に、火雷神や、天御影命の聖域が並んでいる。
出雲大神宮の神体山の御影山は今でも禁足地だが、山中や麓に、横穴式石室を持つ古墳がある。下鴨神社の周辺にも出雲という地名が多く残るが、そもそも、下鴨神社の祭神、賀茂建角身命(ヤタガラス)の父の天櫛玉は、別名が、出雲建子命である。
この「出雲」という名は、多くの人が思い込んでいる島根県の出雲ではなく、現在の伊賀から伊勢にかけての勢力であることが、伊勢国風土記に記録されている。
そして、亀岡の出雲大神宮の領域に、横穴式石室の古墳があるというのは、ここにいた勢力が、それほど古いわけではないことを示している。
丹後の天橋立の近くに鎮座する籠神社は、尾張氏と同族とさえる海部氏が、宮司を世襲してきたことで知られるが、国宝で、現存では日本最古の系図とされる海部氏系図というものがある。
この系図の中で、天御影命の別名が、海部氏の三代目の倭宿禰とされている。さらに、この倭宿禰は、(2)と(3)で述べた、亀の甲羅の上で神武天皇を案内した椎根津彦と同じとされている。倭宿禰=天御影命=椎根津彦(安曇系海人の祖)のようだ。
話を整理すると、(3)で書いたように、八木に拠点を置いていた海人族の女神、「いかこやひめ」は、須恵器=高温の窯の技術に象徴される賀茂建角身命と結ばれて玉依姫が生まれ、その玉依姫が、鍛冶の忍海氏と関連する火雷神と結ばれて、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命が生まれた。
海人という縄文時代からこの国に展開してきた勢力と、須恵器や韓鍛冶という新しい勢力が結びついた象徴が、賀茂別雷命である。
この神の聖域である上賀茂神社が鎮座する北緯35.06は、その統合を象徴している。
だとすると、亀岡の出雲大神宮の「出雲」が示しているのは、ここが古いコスモロジーの聖域であるということではなく、新たなコスモロジーに基づいて作られた聖域であり、新旧の統合が、この地ではかられたということだろう。
出雲大神宮の神体山の御影山は、 先代旧事本紀』では、天御影命と同一視され、継体天皇の母、振姫の中にも血が流れている阿多根子が築いたカグツチの聖地、阿田古神社(元愛神社)の真北2kmのところである。
「御影」は、神武天皇の神話の中では、阿田根子や椎根津彦と表現されるが、これは、継体天皇の時代にコスモロジーの転換に重要な役割を果たしていた南九州の海人族のことである。
そして、「みかげ」の「かげ」は「うら」と同じで、西行の歌では、「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」で示されているような、陰に隠れた尊い存在を指す。
神武天皇の神話において、なぜ、コノハナサクヤヒメや、豊玉姫の話が必要なのか?
それは、古代、コスモロジーの転換期、はじめてこの国を一つにまとめあげることが必要だった時、女系と通じて関わった陰の力が重要な役割を果たしていたかを示している。
(つづく)
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