第1343回 神武天皇とは何か(1)

神武天皇が、いつの時代のことなのかについて、これまで色々と複雑な読み解きがなされてきた。
 しかし、そもそも日本に文字が流通するようになったのは西暦500年頃からで、それまでは口承で物事が伝えられていたわけであり、弥生時代の始まりとされる紀元前500年までの1000年にも渡る出来事や系図を正確に伝えられるのかどうか、また事細かに伝える意味があったかどうか、という疑問がある。
 また、広範囲にわたる長期間の統治を行うためには、武力だけでなく、優れた官僚組織も必要であり、そのためには法律を文章化する文字が必須であり、中国で初めて大帝国を築いた秦の始皇帝は、文字を整備し、法の力と官僚組織を構築した。
 弥生時代後半、魏志倭人伝に記録されている邪馬台国の場所が九州か畿内かの論争が続いているが、どちらであったにしろ、邪馬台国が、日本全体を統一していた国だと考えない方がいいだろう。
 九州の吉野ヶ里遺跡と同じレベルの弥生時代の遺跡は、日本中に残っており、それらの地域間の交流があったとしても、どこが一番かという議論は、あまり意味がないし、どの地域の遺跡からも、大陸との交流の跡が見られる。
 三国志時代の分裂と混乱の中国において、その一国の魏の記録に少し載っていることが日本の古代を決定する重大事であるかのような歴史観は、そろそろ終了にすべきだろうと思う。
 神武天皇においても、史実ではなく、日本という国が一つにまとまっていった時代の象徴として捉え直した方が、日本の歴史を正しく認識することにつながるのではないか。  
 神武天皇という名は、奈良時代後半に淡海三船によって名付けられたもので、古事記日本書紀も、正式名は「かんやまといわれびこ」。日本書紀では、「はつくにしらすすめらみこと」という美称や、「ひこほほでみ」という諱(=隠れた名)がある。
 「はつくにしらすすめらみこと」は、「初めて国を治めた天皇」という意味で、「ひこほほでみ」は、日本書紀では山幸彦のことだ。
 山幸彦もまた、史実ではなく象徴である。
 神話の中で、山幸彦と海幸彦は、天孫降臨のニニギとコノハナサクヤヒメ(別名が、神阿田津姫)の間に生まれた子である。
 神阿田津姫というのは、南九州を拠点とする阿田の海人族の女神であり、山幸彦は、その血を受け継いでいるが、海幸彦との諍いの時に、別の海人勢力を象徴する豊玉姫と結ばれて、その御蔭で海幸彦を懲らしめ、海幸彦は、山幸彦に仕えることを誓った。
 南九州の海人族の血だけ受け継ぐ海幸彦は、隼人の祖に位置付けられている。
 この神話が何を物語っているかというと、天孫降臨で象徴される新しくやってきた勢力と、二つの海人勢力がつながることが、この国を一つにまとめていくうえで重要だということを示している。
 「国を治める」ためには、山幸彦=「ひこほほでみ」であることが重要だった。だから、神武天皇の別名が、「ひこほほでみ」なのだ。
 さらに、神武天皇の本名とされる「いわれびこ」の「いわれ」は、第26代継体天皇が奈良の地に入った後に宮を定めた磐余(いわれ)と同じである。
 6世紀初頭に即位したことになっている継体天皇は、古事記日本書紀でも、それ以前の天皇とは血がつながっていないので、史実としては、継体天皇が初代天皇の可能性が高い。
 継体天皇が出現した6世紀初頭と、それ以前では、国内の情勢は、ガラリと変わった。
 まず、大王の古墳の石室構造が、縦穴式から横穴式になった。これは技術的な違いだけではなく、コスモロジーの違いである。


 縦穴式石室は、墳丘の頂上に作られ、上から重い岩で塞がれており、埋葬された後は開けられないことを前提としていた。亡くなった王が、天にのぼって神となるためだ。
 それに対して、横穴式石室は、墳丘の横に通路を作り、その奥に遺骸をおさめる玄室を作った。玄室は、二つ以上の棺をおさめる空間があり、石室への入り口は取り外しが可能な石を設置しているだけなので、何度も出入りができて、追葬が可能なものだった。亡くなった王は、神にはならず、黄泉への旅に出る。その黄泉の旅の食べ物が須恵器に盛られた。
 この石室構造の変化は、王の立場が変わったことを示している。
 日本神話の中の国譲りの物語において鍵になる言葉は、「ウシハク」と「シラス」である。
 ウシハクは、強いものが全てを独占する状態で、シラスは、共有する状態を意味する。
 タケミカズチは、オオクニヌシに対して、ウシハクからシラスへの転換を呼びかける。これが国譲りに真意だ。
 死んで神になる王の時代から、死んだ後の王が、他の者と合葬されるようになる。これが、継体天皇の時代に起きた変化だが、さらに、この頃から、臣(オミ)、連(ムラジ)、造(ミヤツコ)など氏姓制度が整えられていった。 
 これは、血族集団としての氏族ではなく、大王を中心とする統治システムの中で、各勢力の役割に応じて与えられたものだ。
 だから、その多くは、物部や中臣などの職掌や、吉備や葛城など地名がもとになっており、中央集権的国家を整えていくための一種の官僚組織のようなものである。
 この制度の中で世襲が行われていくことになるが、あくまでも政治的な組織であり、血族ではない。
 だから、たとえば秦氏とか物部氏などを太古の昔に遡って、その氏族のルーツを探すのは、日本の歴史を理解するうえで、あまり意味がない。
 6世紀以前は、大王のもとに、各種の職務を世襲的に分掌する「トモ」が組織化されていたようで、新しい知識や技術を持って日本にやってきた渡来人などは、トモとして大王に仕えていたと考えられる。
 5世紀後半に登場する「おおはつせわかたけのすめらみこと=雄略天皇」という存在は、一人の大王による専制支配のピークだと考えられ、これが、「ウシハク」で象徴される状態だと思われる。この体制の中で大王に仕えていたのが、5世紀初頭に大挙してやってきた渡来人だった。
 神話のなかで、ニニギよりも前に降臨していながら、オオクニヌシに仕えることを選んだというアメノホヒは、この5世紀の状況を象徴しているのだろう。
 しかし、5世期末に大挙してやってきた今来漢人と呼ばれる渡来人が、この状況を一変させていく。
 石室構造の変化や、氏姓制度、さらに訓読み日本語を作ってヤマト言葉の日本文字化を行い、仏教という新しい宗教観も彼らによってもたらされた。
 5世紀初頭の渡来人が、技術・産業の発展に貢献したのに対して、5世紀末の今来漢人は、官僚体制や飛鳥文化など、制度や文化への貢献が大きかった。
 渡来人が日本に大挙してやってきたのは、何段階かある。
 明確なのは、紀元前5世紀頃の弥生時代の始まりの時期で、この時、中国は、春秋戦国時代の内乱状態だった。
 その次が、5世紀の初頭、中国が五胡十六国時代の内乱に陥っていた時、韓鍛冶など新しい技術を持った渡来人がやってきており、そのリーダー的立場としてアチオミという固有名詞が、記紀に記録されている。
 そして、5世期末、中国は南北時代であり、北の北魏は比較的安定した政治を行っていたものの、南の南宋は不安定で、たびたび北魏から攻撃され、国内では激しい権力争いが繰り広げられ、新しく権力を握った者は、以前の権力者の血族を皆殺しにすることが繰り返されていた。
 その時期に、日本に渡来した人たちは、朝鮮半島に居住していた漢人とされているが、もしかしたら、そうした国内の情勢から逃れていた人たちだったかもしれない。
 いずれにしろ、日本に渡来人が大挙してやってきたのは大陸の政情が不安定な時であったが、5世紀末、新しい知識や技術をもって渡来した人たちは、後の飛鳥時代にかけて、中央集権的な国家制度の発達と飛鳥文化の展開のために目覚ましい活躍をしたとされる。
 オオクニヌシの時代は、国造りの時代であり、オオクニヌシは、今でも、五穀豊穣や商売繁盛と結びついた神だが、経済と産業を重視する社会は、資本主義世界でもそうだが、強いものが全てを独占する傾向が強い。
 このウシハクの状態を終了させて、国内の和合を目指す動きが強く意識されたが、6世紀初頭でありその歴史的背景として、北魏の後押しを受けて急激に国力を増大させた新羅が、日本にとって目の前の敵として存在感を高めていたことがある。
 この新しい時代の始まりに、継体天皇が即位した。そして、継体天皇は、新羅討伐のために、60,000の兵を送ろうとして、九州で磐井の反乱に直面する。これは、国内が、まだ一つに束ねられていなかったことを象徴している。
 継体天皇が即位してしばらくは、神武天皇の東征の神話で象徴されるように、国内での戦いは続いていた。継体天皇が、即位した後の20年間、奈良の地に入らなかったのは、奈良の勢力を警戒したからではなく、その戦いの最中にあったからだろう。
 しかし戦いといっても、武力だけに頼るわけではなく、現在においても、経済封鎖という戦略があるように、様々な方法がとられる。
 たとえば、継体天皇が宮を築いた樟葉、筒城、弟国の三箇所は、淀川、桂川、木津川という水上交通の要であり、日本海や瀬戸内海から畿内に入ってくる物資を管理できる地だ。
 奈良盆地に、古いシステムに従う勢力が存在していたとしても、交通の大動脈を抑えられれば、外部との交流が難しくなる。
 また、継体天皇のことを語るうえで、今城塚古墳から出土した阿蘇のピンク石の石棺のことを無視することはできない。
 それまでの王の代表的な棺であった長持形石棺とは形も材質も違う阿蘇のピンク石を使った家形石棺である。
 5世紀後半までは、兵庫県加古川の竜山石や、奈良県葛城市と大阪府太子町のあいだの二上山の凝灰岩など、畿内の石が有力者の古墳の石棺として切り出されていたが、継体天皇の石棺の阿蘇のピンク石は、宇土の馬門(熊本県)の石切場から船で畿内へと運ばれたと考えられている。
 阿蘇のピンク石を使った石棺は、継体天皇のものも含めて畿内で10箇所が発見されており、近畿以外では、九州を除くと、5世紀のもので吉備に、それらしきものが2つほど見つかっているだけだ。

阿蘇のピンク石を使った石棺の畿内の配置

 

 畿内における阿蘇のピンク石を使った石棺は、継体天皇と関わりがあった勢力のものと考えて間違いないと思うが、この添付の地図を見ればわかるように、奈良盆地を取り囲むような配置になる。藤井寺のところは大和川で、桜井市は伊勢に抜ける陸路の要。これを見る限り、紀ノ川を除いて、奈良盆地と他地域との交通の要所に、阿蘇のピンク石の石棺がある。
 わざわざ阿蘇のピンク石が石棺に使われた理由として、明確な答えは出ていないが、一つ考えられるのが、神武東征神話が、神話上のルートから判断して、九州の日向から始まっていることだ。
 継体天皇の出身は、近江もしくは福井とされており、残された記録からは、九州とのつながりを見出しにくい。
 しかし、継体天皇の出身地である近江高島を流れる安曇川は安曇氏の拠点として知られており、安曇氏は、北九州の志賀島から全国にネットワークを広げた海人勢力である。この近江高島を治めていた三尾氏は、この地の安曇氏と関わりが深いか、婚姻を通じて同族化していた可能性が高い。
 そして、三尾氏は、継体天皇の母親の振姫とも血縁で、継体天皇は、二人の妃を三尾氏から迎えている。
 さらに、継体天皇の最初の妃である尾張目子姫の尾張氏の祖に位置付けられる天忍人命の母は、日向阿俾良依姫(あひらよりひめ)である。
 神武天皇が東征の前に日向の地で妻としたのは、阿比良比売(あひらひめ)だった。「よりひめ」というのは、「たまよりひめ」もそうだが、神が憑りつく姫のことで巫女につけられる名前だから、尾張氏の祖にあたる日向の女性と、神武天皇が日向で娶った女性は、同じ「あひらひめ」ということになる。
 神話の中で、神武天皇の東征と同じく古代日本の統一過程を象徴化したヤマトタケルの物語においても、尾張氏は、重要な役割を担う。
 ヤマトタケルは、東征の帰途、尾張へ入り尾張氏の娘、宮簀媛(ミヤズヒメ)を娶って滞在した後、伊吹山に荒ぶる神を退治するために出かけたが、その時、草薙剣を媛の家に残した。ヤマトタケルは、この時に病にかかり、その後、伊勢の地で亡くなるのだが、草薙の剣は、尾張氏が祀り続け、これが熱田神宮の起源とされる。
 この草薙剣は、熱田神宮に本体を残したまま現在に到るが、形代が作られ、これが宮中で三種の神器となる。
 この熱田神宮のすぐ近くに、断夫山古墳がある。これは、6世紀前半という継体天皇の時代に築かれたものだが、墳丘長は151mあり、この時代のものとしては、継体天皇の今城塚古墳に次ぐ大きさを誇る。このことから、ヤマトタケルの物語も、継体天皇尾張氏との関わりの中から生まれた可能性が高い。
 尾張氏というのは、第26代継体天皇だけでなく、第40代天武天皇にとっても、壬申の乱に勝利した最大の功労者でもあった。
 熱田神宮の北11kmのところ、春日井市に6世紀前半に作られた味美二子山古墳がある。全長92mと、熱田神宮のそばの断夫山古墳には及ばないが、この時代の古墳としては、かなり巨大で、構造が断夫山古墳と似ていることから同じ勢力と見られ、味美二子山古墳を、継体天皇の最初の妻、尾張目子媛の墓で、断夫山古墳が、その父の尾張草香の墓とする説もある。
 この春日井市には、和邇氏の祖神である阿太賀田須命(あたかたすのみこと)を主祭神とする式内社の和爾良神社の候補である朝宮神社や和爾良神社が鎮座し、さらに、ここは、三跡の書家、小野道風の生誕の地だとする伝承もある。小野氏は、和邇氏の末裔である。
 和邇氏の祖は、阿太賀田須命であり、これはアタ、つまり南九州の海人族をルーツとしている。系図的にも、和邇氏と尾張氏は、重なりが見られる。
 高千穂に降臨したニニギが最初に出会ったコノハナサクヤヒメの別名、神吾田津姫は、和邇氏と関わりのある女神と考えられ、その理由は、コノハナサクヤヒメを祭神とする富士山本宮浅間大社の歴代の神職は、和邇氏がつとめてきたからだ。
 6世紀初頭の継体天皇と、律令制を整えた天武天皇を支えた尾張氏と、その同族の和邇氏が、九州を舞台にしたニニギの天孫降臨や、神武天皇の東征の物語に大きな影響を与えたのだろう。 


 この地図は、神武東征の地、日向にそびえる阿蘇山と、コノハナサクヤヒメを祀る富士山を結ぶラインだが、2点の距離は750kmで、その中間が、オノゴロ島の有力候補である沼島。
 オノゴロ島は、日本神話では、国生みの際の始原の一点であり、イザナギイザナミがここに降り立ち、天の御柱を巡り、出会った所で相手の魅力を褒めあって成婚した場所である。
 そして、国譲りの第一将軍であるフツヌシ(鹿島神宮タケミカヅチは副将)を祀る千葉県の香取神宮阿蘇山のあいだが930kmで、その中間が、継体天皇がヤマト入をした後に築いた磐余の宮なのだ。「いわれ」は、神武天皇の名前でもある。
 さらに、このラインを阿蘇山から西に50kmに延長したところが宇土の馬門で、ここが阿蘇のピンク石の石切場だ。
 継体天皇の時代の史実は、日本を代表する火山である阿蘇(日向)と、富士山(コノハナサクヤヒメ)を結ぶラインを通して、神話の国生みや国譲りと重なられている。
 磐余の宮も、阿蘇のピンク石も、日本の秩序化のために、壮大なスケールのなかで、計画的に実行された結果だといえる。
(つづく)

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