第1458回 口先だけの分析なら、もはやAIの方が上手にできる。

昨夜の地震の状況を知ろうと思って、朝、テレビをつけたら、屋台を引きながら無料でハーブティーをふるまい、薬に関する相談などにのっている若い薬剤師が紹介されていた。
 彼がこういうことをするようになったきっかけは、病院の待合室で、患者さんが隣の人に対しては気軽に自分の症状や心配事について話をしているのに、いざ医師や薬剤師の前に来ると、素直に心の中を打ち明けてくれないことがあって、自分と患者さんのあいだにある壁のようなものを取り払う必要を強く感じたからだと言う。
 彼は、壁の外側から相手と接するのではなく、壁の内側に入って相手と接することが大事だと思い、そう思うだけでなく、具体的な形にしたことが素晴らしい。 
 医療分野に限らず、「外側から見る」ことと「内側に入って見ること」の違い。
 この違いこそ、意識の転換、すなわち世界の転換に関わる大きなポイントでないかと私は思っている。
 「外側から見て分析する」ことの問題は、レヴィ=ストロースが、100年前に文化人類学の研究において問題提起していたことだ。自分が向き合う対象を、博物館の展示物のように整理することを目的化しているような学問研究に対しての問題意識。
 こうした「外から目線」は、今日的学問の隅々なで行き渡った目線であり、その学問的目線から派生した今日的な情報伝達において普通になされていることである。
 相手を単なる「物」として冷たく扱うということ。その「物」じたいに、魂などまったく感じていないことが当たり前になっているが、対象が人間である場合も同じ。その行き着く先は、人間も、ただの「数値」に置き換えられて判断される現実である。
 結婚相手の人間の優劣は所得で判断され、 健康度を計る目安は、血圧や血糖値がいくらか?であり、芸術作品の素晴らしさを判断する目安は販売数や集客数。ニュースソースの優劣は視聴者数。SNSやユーチューブでは、いいね!の数で一喜一憂。
 南海トラフ地震においても、想定震源域で「マグニチュード6.8以上の地震が起きたとき」に、気象庁は専門家による検討会を開くことになっているそうで、昨夜、豊後水道で起きた地震は、想定震源域であるものの、基準を下回るマグニチュード6.6だったため、検討会は開催されないと気象庁から発表があった。
 現代社会において、数字の力、その説得力は最強であるらしい。
 しかし、数字には現れにくい(現時点では現れていない)内実というものがあり、未来の種は、そこに潜んでいる。
 そして、外側から見ているだけでは、その内実に触れることができない。
 リヤカーを引きながら、相手と同じ目線で語り合うことを始めた若い薬剤師は、そのことがわかっている。
 「わかっている」とか、「わかっていない」という言葉も、安易に使われており、専門家と称する人は、世間一般では、わかっている人だとみなされている。
 しかし、経営評論家に、本当の経営ができるだろうか。写真評論家や芸術評論家に、いい作品が作れるだろうか?
 作る側と評論する側では、役割が違うとか専門が違うと言われるけれど、本当にそれでいいのだろうか。
 外から評論することと、実際に会社を経営することや作品を作ることのあいだに、言いようのない隔たりがある。そして、この隔たりの中にある言うに言われぬものこそが、実際の経営や作品作りにおいては、極めて重要な鍵である場合が多い。
 経営評論家が、実際に会社の経営者にならないとしても、経営者の身近にいるアドバイザーとして、毎日のように起きる複雑なトラブルや課題に対して、その都度、優れた経営者が判断するように、素早く、適切な判断ができるようでなければ、信頼できる経営評論家とは言えないだろう。
 写真評論家や芸術評論家にしても、実際に写真を撮ったり作品を作ることを行わなくても、クリエイターが、作品をまとめた形で発表するための作品集や展示会などを行う場合、口先でああだこうだと言うだけでなく、最も適切な形でアウトプットするための具体的な対応ができなければ、信頼できる評論家とは言えないだろう。
 なぜなら、相手(作品)のことをわかるというのは、相手(作品)を分析することではなく、相手(作品)の中に秘められた力を引き出せること、生かせることだからだ。
 これは、会社組織の中の上司と部下の関係においても同じ。部下のことをわかっている上司というのは、部下を分析して、それらしく評価付けする人ではなく、部下の力を引き出せる人。
 それができる人は、リヤカーを引いている若い薬剤師のように、相手との併走ができる。
 昨日、希望者に対して実施しているポートフォリオレビューを行った。
 私のポートフォリオレビューは、一般的によくあるように、写真家が持参する作品を見て、あれこれ分析したり、上から目線でアドバイスをするといったことは行わない。
 私のポートフォリオレビューは、実際に本や展覧会などのアウトプットを行うことを想定したうえで、その写真家と一緒に、作品を組み上げていく。もちろん、手を動かすのは私であり、写真家が、それを見ながら、どう思うか、どう感じるかをくみとって形にしていく。
 私は、20年以上、それこそ無数の写真家の作品に対して、そのように対応してきた。そして、その集中時間を苦としていないので、時間を忘れて没頭してしまう。 昨日も、午後1時から始めて、休憩もなしに、午後7時半まで行った。
 写真をセレクトしながら構成して、全体の入り口となる表紙からタイトルから、展開から、具体的なレイアウトデザインまで、一挙に60ページほどの形にした。
 だいたい、いつもこのくらいのボリュームまで作り上げて、後は、ソフトの使い方や印刷発注の方法などを伝え、写真家自身の手で続きを行えるようにしている。
 もちろん、この時間で私と写真家が併走して作ったものを絶対視する必要はなく、家に帰って冷静になって自分で手を加えていけばいいし、そのようにして改良したものをPDFで送ってもらえば、それを見て、さらなる対話を行えばいいと思っている。
 目指すべきは、その人が作り上げていくものとして、最適で最善のものであること。
 「数字」ではなく「内実」で人の心に働きかけができるもの。
 展覧会などに行って、心の中では、そんなにいいとは思っていないのに、有名人が絶賛していたり専門家が高評価を与えていたり、なんかの賞を受賞していたり、世間で評判のようだから「いいもの」なんだろうなという感じで見るのではなく、その「内実」に、本当に心が動かされるのかどうか。
 そうした「内実」のあるものを作り出して、それが伝わることこそが、作り手として本当の喜びであることを、わかってほしい。心の底でわかっていながら、社会の壁で実践できていない人に、実践できる方法を、具体的に伝えたい。 
 表現者を自称する人々が世の中に溢れかえっており、何のために表現行為を行うのか?という根本的な問いに立ち返るところから、表現を志す人は始めなければいけないのではないかと思う。
 しかし、それを、言葉で説いているだけなら、口先だけの評論家と同じであり、口先ではなく、実際に手を動かして、具体的な形にして、見せることが大事な時代になってきているのではないだろうか。
 口先だけの分析なら、もはやAIの方が上手にできる。 AIが苦手なことは、言葉にならない微妙で繊細なものの中に、大事な種が秘められていることを察する力だろう。
 屋台を引きながら、一人ひとりと対話しながら自分の心の中に蓄積していく人々の繊細微妙な心模様は、屋台を引く人間だけにわかる経験であり、その経験は、標準化された言葉に置き換えて、他の人に簡単に伝えられるものではない。
 それをわかろうと思えば、自分も、実際に屋台を引くしかない。

 

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