KINUさま
答えが長くなりますので、こちらに書きます。
とても難しい質問です。私に答える資格があるとは思えませんが、私が出会っている写真家のなかで、超一流だと感じる人の共通点を拾っていくしかないでしょう。
第一に、超一流の人は、他の超一流の写真をよく見ています。単なる自己表現だけのために写真を撮っている人の多くは、他人の写真にはあまり興味がないみたいですが、超一流の人は、他の写真家の写真をよく研究しています。他の人が達成している仕事を敢えて自分が行う必要はないと思っているし、他の一流作品を見ることで、眼力がついて、他の人が見過ごすようなことが見えるのではないでしょうか。
第二に、道具の癖を知り尽くしています。カメラのことは当然のこと、フィルムの癖なども知り尽くし、光の状態によって、どのフィルムをどのように使うべきか、瞬間に嗅ぎ分けているようです。また、綺麗に写すだけであれば、オートフォーカスなら誰でもできてしまいますが、一つの状況を撮影する際、自分が追究するテーマ(世界観)を表現するためにベストな被写体深度や明るさなどを実現するための絞りとシャッター速度の関係が自分の中で完成していて、どんな瞬間的な状況でも、自分がイメージするように対応できているみたいです。
また、道具の一つとしての自分の身体に対するケアも怠っていません。カメラを自在に使いこなすための体力とか筋力をつけることは大事でしょう。フットワークの良さや、足場が悪い場所でもブレないということ、表現の理想的な環境を素早く自分のものにできる自分の反応力なども大事で、それらを全て含めて、道具の癖を知り尽くすということです。
第三に、撮影すべき相手を、よく見ています。しっかりと研究もし、知り尽くそうとしています。何をどのように撮るべきかの情報収集に対する集中力もすごいです。相手を知らずに、相手と向き合えないということを、よく理解しています。だから、媒体の特性を研究もせずに、中途半端な売り込みをするようなこともないです。
実は、上に述べた三点は、大工さんや演奏家や料理人など道具を使ってモノゴトを表現する人たちにとっては、当たり前のことです。しかし、写真の場合、こうした基本的なことを怠って、“感性”という言葉でカムフラージュした意味ありげな写真をアートなどといって流通させてしまうことがあります。
楽器とかその他の物づくりだと、基本的な修養がなければ、いくら感性とかアートなどと口走っても粗が見えてしまうのですが、写真の場合、“目の付け所”で表現が成り立つのではないかと思われている節があるのです。だから、自己表現ブームの今日の社会で、写真にそれを求める人は多い。実際にそういうスタンスを推奨する評論家や写真学校の先生もいるみたいです。それはそれで構わないのですが、そういうスタンスのものは、自己表現としての日曜大工のようなもので、趣味にすぎず、他者との間に深い信頼関係を結ぶ作品ではないと私は思います。(趣味は趣味だと認識しているかぎり害はないです。)
写真にかぎらず、優れた作品というのは、その作品を見るだけで、まだ出会ったことのない作者に対して深い信頼を感じさせる力が満ちています。
その信頼は、善良であるとか、優しいとか、高い地位にあるとか、そういう表面的なことではありません。
一個の人間として、全身全霊で世界に向き合っているということが、実感として伝わってくることです。世界を自分の都合の良いように解釈するのではなく、一人の人間が対峙するには途方もなく深遠な世界の前で、畏れ多い気持を抱き、表現の不可能性に絶望的な気持になりながらも、そのジレンマの中で喘ぎ、細心の注意で丁寧に世界と向き合い、そこから奇跡的な何かを引き出そうと懸命になっている。その奇跡的な何かは、人間と世界とをつなぐ臍の緒のようなもので、それを通して、世界から滋養を得ようとしている。
偽り無く自分の全てを賭けて、世界との間に何らかの道筋をつけようとしていること。そうしたスタンスを作品を通して感じることが、人間として深い信頼を置けるということです。
絵、彫刻、建築物、小説、写真、料理、その他、人間が作り出すどんな物でも、その物を通して、その人の人間が現れる。その人のセンスとか考え方とかといった表層的なことではなく、心の持ち方とか、世界に向き合うための必然的な自己研鑽とか、その人のスタンスの全てが、作品のなかに昇華した形で現れる。誤魔化しようがありません。
どこかで適当に手を抜いてやっているか、自分や他者を適当にやりすごすために、うまく嘘をついているとか、自己研鑽をさぼるための口実を巧妙に設けているとか、こちらも全身全霊で作品に向き合えば、そういうことは全て透けて見えてしまう。作品とは、そういう誤魔化しのきかないものだと私は思っています。
誤魔化したり、誤魔化されたりするのは、どこかで“へつらう”ところがあるからです。
へつらうところが呼応して、意気投合したりすることもあるでしょう。
だから、へつらった表現が、へつらった媒体に採用されることがある。そうした表現が、へつらった表現を行っている人を、安心させる。結果として、そこにニーズが生じ、商業的に成り立つという現象が生じる。その現象に振り回されて、作品づくりを試みている多くの人は、どうしていいかわからなくなって心揺らぐ。
しかし、超一流の写真家は、揺らぎません。その作品は、まったくといっていいほど隙がないし、へつらうところがない。写真などにおいても、よくもまあこれだけ全ての条件が厳しく整ったものだと感心するくらい完璧なのです。おそろしいほどに。運がよくてそうなっているのではなく、なるべくしてそうなっているのだと感じさせるものがある。
優れた写真家は、世の中に合わせて仕事をしようとしていません。世の中の現象という移ろうものに合わせるのではなく、もっと大きくて深く普遍的なものに自分の作品を捧げるようなスタンスで仕事をしています。そういう意味で、孤高です。
質問に対するわかりやすい答えにはなっていないかもしれませんが、私の考えは、こんなところです。