自己表現ビジネスの隆盛

 藤原新也さんのホームページで、新風舎共同出版のいかがわしさが取り上げられている。

 →http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

 私のところにも、新風舎で発行された写真集が時々送られてくるし、例の平間至賞の案内などの資料も送られてくるが、選考者が平間という広告写真家1人だけというのも変だし、自費出版の営業用の賞なのだろうということは、わかっていた。

 こういう商売のやり方は、新風舎に限らず、新風舎がいなければ他の誰かがやるのだろう。

 新風舎の問題というより、新風舎がやっているようなビジネスがうまくいってしまう現代の社会というものが、これから先、いったいどういう風になっていくのだろうかということが私には気にかかる。

 新風舎に関しては、10/7、朝日新聞の土曜の朝刊に挟まれている「BE ON SATURDAY」→http://www.be.asahi.com/20061007/W11/20060921TBEH0001A.htmlで、巻頭1ページと中面1ページを使って、「時の人」という感じで、社長と会社のことが褒め称えられていた。

 あの朝日新聞の挟み込み用の企画ページじたいが怪しいもので、広告との境界がわかりにくい。雑誌にも広告ばかりの挟み込み企画が多い。

 広告かどうか分かりにくい情報も、賞で引っかけて自費出版の勧誘をすることも、同じ根をもっているように思う。

 新風舎流のビジネスは、特に新しいものではない。

 例えば、上野の都美術館で二科会とか春陽展とか独立美術展とか、数え切れないほどの美術の公募展がある。よくもまあこれだけたくさんの人が絵や彫刻を作っているものだと唖然とするくらいの数が出品されている。しかも、展示されているものは入選したものに限られているから、落選したものも含めれば、莫大な人が自己表現の制作を行い、展覧会出品の為のお金を払っているのだ。絵や彫刻だけでなく、書をやっている人の数もすごい。

 そして、それらの展覧会で入選した人たちに向けて、美術雑誌が営業をする。「美術雑誌で○○展の特集をやりますが、全員の作品を掲載するわけにはいかず、その中で優れたものだけを掲載したい。もしくは、雑誌の特別賞を設定したので、あなたの作品を是非掲載したい」と勧誘するのだ。それで相手が喜んで有頂天になったところで、協賛金として一律10万円を負担していただいているなどと言う。そして、その掲載誌の特集ページのなかで、団体の大御所の数名の絵(これは無料掲載)の他に、初入選の人たちの作品が数ページに渡って、名刺サイズくらいの小ささで、ずらりと掲載される。なかには、とても幼稚な絵もたくさん混在しており、優れた人の作品ばかりを集めた特集などになっていない。また、その雑誌は、ほとんど書店に流通していない。

 こうした美術界のビジネスは、2,30年ほど前から当たり前のように行われている。

 そのようにお金を払って雑誌に掲載された人は、自分が市民ギャラリーとかで個展をする際に、その掲載誌を会場に置いて自分の作品の権威付けを行うこともある。

 出版ではなく、写真などの専門学校も、同じようなところがある。

 私が知っている写真学校では、二年間に200万円ほどの授業料が必要になるが、毎年700名ほどの卒業生がいて、プロになれるのは、5年に1人と聞いたことがある。また、プロになっても、食っていけるとは限らない。

 にもかかわらず、プロとしてやっていけそうなイメージの学校案内を作っている。

 そういう学校の生徒の作品を見る機会や話す機会もあったが、彼らは、サルガドとか野町さんなど一流写真家の作品はあまり見ない。一流写真は自分たちにとってハードルが高すぎて、参考にならないからだ。彼らが興味ある作品は、日常的なものをソフトフォーカスにして心象風景のような作品化して運良く出版されているものが多い。それらは、ちょっとしたコツで自分にも撮れそうな写真だ。自分の手が届きそうなものが出版されているのを見ると、自分も表現活動をやっていけるような気持ちになるのだろう。だから、その類の写真集を買い、研究したり、真似したりする。

 文芸誌を買う人が潜在的作家志望の人だけという現象と同じく、売れそうな写真集も、潜在的写真家志望の人に媚びたものが多いように思う。

 これらのことは、新風舎とまったく同じではないが、私は共通のものを感じる。

 どれも、人間の妄想に付け込んでいるからだ。

 人間の妄想に付け込むという意味においては、他に同じようなことはいっぱいある。

 例えばマンションのモデルルームには、モデルルーム用に作られた小さめのベッドや家具が置かれている。目の錯覚で、部屋が大きく見え、立派な部屋で暮らす妄想で購買意欲をそそり、売り切れ間近だと焦らせ、購入させる。

 ブランド品にしても、それを持つことでワンランク上の自分が得られのだと妄想させて、実際の使い勝手や品質以上の価格で買わせることが、マーケティング戦略になっているだろう。ニコニコ顔の若い女の子で安心感を装って誘う消費者金融、出会い系のサイト? 見合いパーティ?等々、ありとあらゆる仕掛けが、人間の妄想に付け込んでいる。

 語学学校や塾の隆盛も、現実対応のためという誘い文句ではあるけれど、実はそれも妄想かもしれない。つまり、高いお金を出して語学学校や塾に行かずに他の方法で取り組んだ方が、本当の現実に対応するためには良かったということがある。

 写真家学校で200万円と二年間の歳月を経て卒業した人が、そのお金と歳月で、海外を旅しながら写真の実践的訓練をした方がよかったと嘆いていたこともあった。

 形は違うけれど、人それぞれ、イメージのなかで自分にふさわしい人生というものを欲している。その対象がマイホームだったり、セレブ婚?だったり、一流企業のサラリーマンだったり、写真家であったり、作家だったり様々だ。

 新風舎もまた、人間のそうした願望の一種に付け込んでビジネスを行っているのだろう。「表現」という分野において、そのような大きなマーケットがあるということが、今日風なのかもしれない。*新風舎の年間発行点数は約2700点で、講談社などをおさえて日本一だそうだ。一日平均8冊が、作られているのだから、藤原さんのサイトに届けられるメッセージは、氷山の一角なのだ。 

 なぜこれほどまで多くの人が「表現」をしたがるようになっているのか。

 写真、エッセイ、イラスト、絵本、俳句、書道、絵画、焼物、織物、フラワーアレンジメント、舞踏etc.・・・、カルチャーセンターも、花盛りであり、一億総評論家時代ではなく、今日の日本社会は、一億総表現者時代になっているのかもしれない。

 生き甲斐としての表現を求める無数の人々。裏を返せば、それだけ、それ以外の生活が味気なくつまらないということなのだろうか。

 黙々と米を作ったり、魚を釣ったり、茶碗を焼いたり、大工仕事をするなど生活に密着したところで物造りを行っていた時代は、おそらく表現への渇望などなかっただろう。生きることじたいが表現そのものであった頃は、他に自分のアイデンティティを証明する何ものかを必要としなかったのだろう。

 藤原新也さんは、『黄泉の犬』において、今日の社会の砂漠化のなかでの妄想の誇大化と、新興宗教に走る人間のメンタリティを、自分自身のなかにもあった生の希薄さと重ね合わせながら描き出した。

 藤原さんの表現は、「自分」と「世界」および「他者」のあいだ のジレンマが濃密に描かれている。

 しかし、私のところに売り込みで持ち込まれる表現の多くからは、「世界」や「他者」が欠落していると感じることが多い。

 そこに写っているのは、「自分」もしくは、「自分に都合よく、ウットリと解釈された対象」というものが多い。

 それらは、「ナルシスの鏡」を感じさせる。もちろん、表現というものは、その種の自己愛によって成されている。

 しかし、そうした自己愛にどっぷり浸かっていられない生身の現実・・世間に認められるかどうかという程度のことではなく、自分が表現したいものが実力不足で表現しきれないという現実も含む・・によって覚醒させられ、ジレンマを感じ、その間の葛藤が大きく、足掻けば足掻くほど、表現が深くなっていく可能性がある。

 とはいえ、生身の現実に向きあい続けることは苦痛であり、それを避けて、鏡の中だけを覗く人も多いだろう。宗教も胡散臭く、自分の将来も含めて信じられるものが見当たらない時代において、人はナルシスの鏡を通して自らを癒すしかないのだろうか。

 でも生身の現実と向き合わずに鏡の中ばかりを覗き込んでいたら、悪徳商法の罠にもはまりやすくなる。

 もしかしたら、そういう時代だからこそ、自己表現ビジネスや自己啓発ビジネスが繁栄するのかもしれない。 



風の旅人 (Vol.22(2006))

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