世間と渡り合うこと

「他人の評価が欲しいのではなく、自分の表現したいことを表現しているんです。」
 というようなことを言って、写真などを売り込んでくる人がいる。
 にもかかわらず、私が、つまらなそうな顔をして、その作品に関心を持てないということを言ったりすると、すごく不満そうな顔をする。つまり、自分の表現したいこと・・と言いながら、けっきょく人に認められたいと思っている。世間に媚びたことはしたくなくて、その種の写真ばかり扱う媒体に評価してもらわなくてもいいけれど、もしかしたら「風の旅人」の編集長なら、自分のスタンスを理解し、評価してくれるかもしれないと勘違いしている。
 そういう人は、とても多い。
 自分の表現したいことを表現するのは、別に構わない。しかし、その表現を通じて世間と渡り合いたいと思う心が少しでもあるならば、その思いを覆い隠さず、大事にしなければならないだろう。自分の表現したいことを表現すれば、わかる人にはわかってもらえるだろうなんて、甘い幻想を抱いてウジウジしていてもしかたないだろう。
 だからといって、汚い手を使ってやればいいということではない。方法を誤ると、表現に歪みが生じ、結果的に長続きしない。 
 自分の表現したいことを表現することと、自分の表現を通じて世間と渡り合うということは決定的に違う。その落差は、世間と渡り合っていない人には想像もつかないほど、高く険しいものだ。
 その険しさを乗り越えようとして生み出された物と、ただ自分の表現したいことを表現したものとの間には、姿形はそんなに変わらないとしても、オーラとでも言うべき何かが違ってくる。表現の命は、おそらく、そのオーラにこそ宿っているのだと思う。
 伝えるべき思いがあるからこそ、伝える。だからその表現は、必ず人に届けなければならないし、届く筈だし、届けてこそ自分の使命が全うされる。そうした思いが昇華したものがオーラとなり、そのオーラの漂うものが本気の表現ではないかと私は思う。
 「自分の表現したいものを表現しています」と言って、私に否定されると不満な顔をするのは、心のなかでは、ただ単に自分の表現したいものを表現したいだけではなく、それを通じて世間と渡り合っていきたいという願望が少しはあるからだ。その願望に対して正直になって、それに向かって試行錯誤する苦しい努力すればいいのだけど、どこかで諦めて自分を慰めて、「わかる人にわかってもらえればいい」という卑小な気持ちに落ち込んでしまっていると、作品もまた、小さく閉じたものになってしまう。
 世間と渡り合うことによって初めて、世間の様々な問題が自分にとって抜き差しならぬものになってくる。自分の表現を届けるべき人たちは、時代や社会とつながって生きている。時代や社会の表層を追う必要はないけれど、時代や社会がなにゆえにそういう構造になってしまっているのかという問題は、自分にとって、また自分の表現を届けるべき人たちにとって、無視できないことだ。求められる表現は、その部分に対して、肉薄してくるものだろう。時流に乗ることにかまけて自分を見失ってしまった表現を軽蔑し、「自分の表現したいものを表現しています」と言う人ほど、自分の使命を、そこに見出すべきだろう。
 「わかってもらえる人にわかってもらえればいい」などという卑屈な思いに閉じこもってはならず、何とかして、世間とつながっていくこと。
  これは、「風の旅人」という媒体を作っている私自身に対する戒めの言葉でもある。

 そして、この思いは、写真や絵や文章や音楽で何かしているか、ということに限ったことではない。

 社会で生きている以上、この問題は付きまとってくる。

 「自分のやりたいこと」と、「世間と渡り合うこと」とのあいだ。

 写真や絵や文章や音楽などやっていなくても、「自分のやりたいこと」を超えて、「世間と渡り合う」ことに真摯に取り組み試行錯誤を重ねていることの方が、遙かに、”本気の表現”にスタンスとしては近いものがあるかもしれない。

 
  それはともかく、このことに通じる話題なのだけど、清里フォトアートミュージアムにおいて、2008年6月28日(土)〜2009年1月25日(日)までの長期にわたり、井津建郎さんのプラチナプリントの展覧会が行われる。井津さんは、アメリカで活動し、高い評価を受けている写真家だが、残念ながら日本では知らない人が多い。
 http://www.kmopa.com/bhutan/bhutan.htm
  プラチナ・プリントは、文字どおりプラチナを利用した、古典技法として現代に残っている数少ない技法だ。
 プラチナ・プリントは密着用のネガで制作するため、フィルムサイズのプリントしか作れない。だから、一般的には最大でも8×10インチのフィルムで撮影したものを作る。
 8×10インチというのは、一般の35mmフィルムと比べて、面積比で約50倍強の大きさがある。必然的にカメラも巨大で、持ち運びも大変だ。にもかかわらず、そこから得られるプリントサイズは、25センチ×20センチほどにしかならない。そのプリントは、ディテールが素晴らしいし、風合いもあるけれど、写真を見慣れていない人には、その価値が伝わりにくい。この情報化社会において、派手で大きく目立つものばかりに晒されている人は、細部のディティールを見る力が弱い。そして残念なことに、プリントサイズが小さいというだけで迫力が足らないと感じてしまうのだ。
 そうしたプラチナプリントのクオリティを印刷表現で表すのは難しいが、「風の旅人」では何回も挑戦してきた。八木清くんが、その写真家だ。もともと8×10インチサイズの巨大なフィルムで撮影しているので、その強烈な念がプリントに篭められている。だから、印刷によってプラチナらしさが殺されてしまっても、写真の質感は、印刷で充分に引き出すことができる。そのように私は思い、彼の作品をテーマに添って編集し、掲載してきた。これから書店に出る第32号「時と廻」のなかでも、彼の作品を紹介している。
 しかし、彼は、8×10サイズのプリントだけをコツコツと制作しているので、「風の旅人」以外のところでの活動は、いたって地味だ。彼のプラチナプリントは、それこそ、目の肥えた人には高い評価を受けるが、そうでない人には、小さく地味なものに写ってしまう。
 このプラチナプリントのオリジナルの素晴らしさを、どうやって伝えるべきなのか。
  風の旅人という印刷誌面で表現されているもの以上の潜在的な力を、どのように引き出すべきなのか。
 井津建郎さんは、アメリカに乗り込み、この問題に対して厳しく取り組んだ人だろう。
 彼は、小さく迫力に欠けるなどと過小に評価されがちなプラチナ・プリントの素晴らしさを、「わかる人にはわかる」ではなく、「わからせる」ため、その撮影ネガを、20×25センチではなく、36X51センチまで大きくした。そのことによって密着焼きでもプリントサイズを36センチ×51センチの大きなものにできる。しかし、そのため、一式全部で100キロにおよぶ超大型カメラが必要になる。それを特製で作り、チベットなどの山岳地域や、アンコールワットラオスなど密林地帯に眠る遺跡などを20年にわたり撮影してきたのだ。そして、このたび、その超大型カメラで、ブータンの人々を撮影した。これは並大抵のことではできない。手軽なデジタルカメラを持ってブータンチベットに行き、パシャパシャとシャッターを切るのとはまったく異なる営みなのだ。でも、そうすることによって初めて、彼のプラチナプリントは、アメリカにおいて大きな評価を受けることができたのだ。おそらく、8×10インチサイズのフィルム(それでも充分大きなものだが)では、その評価にはつながらなかっただろう。

 もちろん、ただカメラを大きくすればいいということではない。また、どちらがいいということでもなく、彼の内的必然性が、そのような行為を求め、それを忠実に行ってきたことが大事だ。
 アジアの人々の<内なる聖地>は、形象として石の遺跡になっている。その遺跡を撮影し、表現するかぎりは、人々の<内なる聖地>が、そこに現れてこなければならない。
 自分の表現したいものを表現するというよりは、<内なる聖地>という目に見えにくいものを目に見えるようにすることと、さらに人に見てもらういじょうは、それをきちんと見てもらわなければならない、プラチナプリントのサイズの制約によってそれが損なわれてはならないという思いが、彼の超大型カメラによるプラチナプリントという表現手法となって成就しているのだろう。そして、そうした思いに突き動かされて試行錯誤の努力を重ねることが、「自分のやりたいこと」を超えて、「世間と渡り合って生きる」ということだろう。
 井津さんの作品は、「風の旅人」の第34号(10/1発行)、「時と揺」というテーマのなかで紹介するために、現在、準備を進めている。
 また、清里フォトミュージアムにおいて、 9月6日(土)午後2時〜、井津さんと私がトークをすることになっている。