個性について

 昨日、今日と、とても興味深い会社のトップと話しをする機会を得た。
 私の場合、興味深い会社というのは、奇抜なアイデアで急成長するような企業ではない。成長はゆっくりだが、独自の方法で着実に仕事の厚みを増している企業だ。そうした企業は、一つのことを丁寧に手間ひまをかけて取り組んでいる。だから、一見、効率が悪く、急成長につながらない。手間ひまをかけるというのは、前例のあることをコピーしたり何も考えずに右から左に動かすのではなく、その都度、現場の感覚を大事にしながら試行錯誤し、判断し、自分たちの方法で、自分たちの信じるところにしたがって取り組むことだ。そういう方法は、成長は遅いけれど、自分達にしかわからない経験知が年輪のように自分達のなかに蓄積していく。その厚みこそが個性と言えるものになる。人と目先の違うことをやるという程度のことは瞬間の違いを発揮するだけであり、そうした短時間かつ表層的な違いは単なる変化の一つにすぎず、歳月のなかで確固たるものになっていくものこそが個性なのだ。
 個性ある人や、個性ある組織のメンバーは、必ず自分の言葉を持っている。他人の顔色をうかがったり、自分の考えを述べずに形式的なことばかりこだわるスタッフの多い組織は、人当たりはよくても本心で何を考えているかわからず、すっきりしないものが残るが、本当の意味で個性的な組織や個人は、本音で向き合える清々しさがある。
 「風の旅人」で取り上げている写真家なども、世間の流行など見向きもせずに、自分のテーマに対して糞真面目に取り組んでいる人が多い。社会全体で見ると少数かもしれないけれども、そのように己自身を偽ることができず、結果として他人を欺けない人間が確実に生きて存在していることを知ることは、人間に対する信頼をつなぎとめる力になる。心と違うことを言い、心と違うことを行う人間の多い組織ばかりを相手にしていると、何をどう信用すればいいのかわからなくなってしまうのだ。
 そのように時間と手間ひまをかけながら真面目に取り組んでいるうちに、他が簡単に真似のできない強力な個性を醸し出すようになっている人や会社を見ていると、私は、屋久杉を思い出す。
 屋久島は、激しい降雨のために土壌の養分が洗い流されている。そのため、ここに生きる杉の木は、毎年、少しずつしか成長できない。屋久杉の年輪は一般の年輪に比べて、非常に幅が狭まっているのだ。しかし、その分、とてもしっかりとしていて、何千年も生き抜くことができる。伊勢神宮に杉の巨木がある。成長が早く、樹齢300年ほどで見上げるほどの高さを誇り、幹も太いが、その中はスカスカになっている。あのような状態では、図体はでかくても、虚弱体質で、とても千年も生き抜くことはできない。
 屋久杉は、千年くらいまでは、外見上、ごく普通の杉のように成長する。(千年を超えないと屋久杉とは言わない)。千年を超えたあたりから、一本一本が特異な様相を帯びてくる。とても杉とは思えない風格を漂わせ、神々しいまでの姿になっていく。杉とか樹木とかのカテゴリーを超越して、生命そのものの個性が顕現するのだ。
 企業も、人も、表現作品も、世俗のカテゴリーにあてはまらない「存在」そのもの、「生命」そのものという境地まで達したものと出会うことは、とてもかけがえのないことだ。なぜなら、世間が体裁良く整えているカテゴリーとかランキングなどの評価基準が、便宜上の薄っぺらいものでしかないことが、とてもよくわかるからだ。
 大卒者の就職先人気ランキングのように、今年良くても三年後にはどうなるかわからないようなものが、世間というものの価値基軸なのだ。
 「風の旅人」は、まだまだ屋久杉の境地には及ばないが、過酷な社会風土に耐え忍び、自分ならではの生き延びる方法を模索しながら薄い年輪を着実に重ねて行く事で、いつか本物の個性に辿り着けることを目標にしたいと思う。