安定性とは何か!?

Img_20140705_000154福島から京北に移住して有機農法に取り組んでいる塩澤靖浩さんに色々教わっています。

 

 先週末、京都郊外の京北で畑仕事に行って、とても印象深いことがあった。

 ズッキーニの苗を植えていたのだが、数日前に降った雹(ひょう)によって、かなり打撃を受けた。しかし、その後の恢復が、雑草対策の有り様によって大きな違いが出ることを知ったのだ。
 一つは、一般の畑によく見られる黒いポリエチレンを使用したマルチング。もう一つは、製材の後に廃棄される杉の皮を使ったマルチング。マルチングというのは、苗の周りの土を何かで覆うことで、雑草の成育を抑制する効果のある農法のこと。
 ポリエチレンは、マルチングで使った後はゴミになるが、地温が上昇しやすいので気温の低い春先など播種時期を早めることができ、また土中の水分の蒸散を防ぐので土が固くならず、根がよく伸びるらしい。また、地面から土の跳ね返りがなくて野菜が汚れにくく、病気にもなりにくい。それに対して、杉皮などの有機物を使うマルチングは、ポリエチレンに比べて耐久性に劣るが、使用後はゴミにならずに腐食し、土の中に鋤き込むこんで土壌を豊かにできる。しかし、使うものによっては、虫がわきやすいらしい。
 同じ土地で二つのマルチングの方法でズッキーニを育てると、雹にやられる前は、ポリエチレンの方が苗がすくすくと育った。ポリエチレンによる地温の効果とか、土中の水分保持機能がよい方向に働いたのだろう。
 しかし、雹に急襲され、葉の一部を損傷した後、ポリエチレンの方のズッキーニは、元気がなくなった。それに対して、杉皮のマルチングの方は、雹のダメージから恢復して、ポリエチレンの方よりも、大きく、青々と茂っていた。
 一体なぜなんだろうと、毎日、この畑の世話をしてくれている塩澤さんに確認すると、杉皮のマルチングの方は、ポリエチレンに比べて、蜘蛛とか微生物がいっぱい棲息していて、その働きが利いているのではないかということだった。
 詳しい原因はわからないが、小さな生物達が作り出すネットワークが、植物を、雹のダメージから恢復させる力となっている可能性が高い。
 現代社会に生きる私たちは、例えば雑草除けとか、ビタミンC補給とか、目的を単純化して、その目的だけを効率よく達成しようとする傾向がある。
 しかし、そういう単純化が、実は大きな落とし穴になっていることが多い。例えば、カルシウムは骨をつくるのに大切な栄養分だからといって、そればかりを摂取すると、身体からカルシウムが溶け出してしまうとか、スポーツ選手がウエイトトレーニングで特定の筋肉を鍛えすぎると、身体全体の筋力のバランスが崩れて故障しやすくなるとか。
 畑でも、野菜の成長を促そうとして播種をした土に肥料を与えすぎると、頑張って根を伸ばさなくても栄養摂取ができるから、十分に根が張らない状態になるらしい。その後、土中に与えた肥料が雨などで溶け出してしまうと、根が十分に伸び切っていないので、植物は、自分が生きていくうえで必要な栄養分を土の中から選び取って吸収することができず、結果的に栄養不足になってしまう。(有機農法では、根元からやや離れたところに肥料を置いてやると植物は頑張ってそこまで根を伸ばそうとするので、その性質を利用する方法もあるらしい。)
 現代人の子育てが陥っている状況にも同様なことがある。
 子供の成績に有利になるように、塾に通わせたり、できるだけ家の手伝いをさせずに勉強に集中できるような環境を作ると、最初のうちは、テストの点数がよくなるなど効果が出ることはある。しかし、自分で考える力とか、少々、悪い環境でも何とか工夫をして乗りこえるという”根”が伸びていないと、親の庇護がなくなったり、環境が少しでも損なわれたり、問題が複雑化した状態になると、社会という土壌の中から自分に必要なものを探し出して吸収することができず、たちまち元気がなくなってしまう。そして、逆風になるとどうにもならない自分というものを自覚すると、自分に自信が持てず、常に自分のポジションを優位な所においておこうと打算ばかりするようになる。その打算は、目先の結果を追うもので、人付き合いにかぎらず全ての選択が自分にとって有用かどうかという姑息なものとなり、ますます根は細くなって、結果的に悪循環に陥る。
 日本人は、子供時代だけでなく、大学生や、その後の留学までも、親が一切のめんどうを見るという、生物の生存法則からすると危険ラインではないかと思われるほど過保護が眼に余る。
 子供の目的を叶えさせてあげるために、親が過分に助力してしまうと、最初は順調でも、後になって何かしらの障害が発生すると、それを乗りこえる力を発揮できず、すぐに意気消沈して立ち直れなくなってしまうということがよくあるが、それが自然の摂理なのだ。

 最近は、”褒めて育てる”という考えが、一種のブームで、その利点ばかりが強調されているが、うまくいった例だけ聞いて鵜呑みにすると、後で後悔することになる。褒めて育てるのではなく、褒めるべき時は褒めて、叱るベき時は叱ればいい。両方の感情を経験することが大切なことは、論理がわからなくても、経験上、誰でもわかることだ。しかし、その判断が難しいわけで、”褒めて育てる”という一面的な対応は、自分の判断に覚悟を持てない親や上司からすれば、難しい判断を放棄させてくれる安易な方法なわけで、その安易さは、相手のみならず自分自身に対する過保護でもある。

 親子の関係に限らず、街中でも、過保護が、サービスに置き換えられているところが多い。

 そして企業などにおいても、上司の叱責が、簡単に”苛め”に置き換えられ、それによって社員が病気になったり自殺でもしたら職場の責任という風潮がはびこり、腫れ物に触れるような職場関係となり、ますます根は細り、少しのアクシデントで枯れ落ちることになる。

 この論理を畑仕事にあてはめると、植物に打撃を与えた雹だけに、責任の全てをなすりつけるようなものだ。
 たまたま雹が降っただけであり、雹が降らなくても、大雨もあれば冷夏もある。生きていれば、どんな悪条件が降り掛かるかわからない。何も起こらないことなど、あり得ない。
 評論家は、現代社会や職場にはストレスが増えていると分け知った顔で言うが、かつての社会や職場にストレスがなかったとは考えられない。生きていれば、どこにでもストレスはある。ストレスを失くすという発想ではなく、ストレスなんか当たり前、そのストレスを、自分の根を伸ばす力に転換するという発想で生きるべきなのだ。 
 昔から親の本当の愛情は子供に苦労をさせることだと言われているが、まさしくそうで、自然の摂理の中で生きていると、そのことが素直に理解できるのだろうが、自然と切り離された生活が、そういうことを考える思考の根すら奪ってしまったのだろう。
 理由はわからないけれど色々な要素が複雑に関係し合い、それぞれの関係の中でせめぎ合うことで、健やかさは保たれている。杉皮のマルチングの中で、蜘蛛とか微生物は、仲良く手を取り合って生きているのではないと思う。むしろ逆で、互いに領域を侵犯し合うストレスのなかで、相手の力をうまく活用したり、相手を通して自分の強みを発見したり、相手に合わせることで自分を変化させたり、生きる為に様々な攻防があるのだろうと思う。そして雹にやられたズッキーニも、それらの複雑な攻防の中にいることで、自らの生命力を活性化させているのではないか。自分の身体を微生物に提供しながら、うまく自分の傷を修復させるために利用したり、何かしらの方法で自己と他者の境界を緩くして、その結果ストレスが生じるものの、それよりも大事な生命の補完関係を築いているのだと思う。
 こうした仕組みにしても、例え原因はわからなくても、眼に見えて違いが出ていることは間違いないのだから、その経験的事実を受け止めて自分の中に積み重ねていくことが大事で、それが自分の根を伸ばしていくということだ。根さえ強かに張っていれば、世の中で生きていくなかで、状況に応じて必要なものを自らの栄養分として吸収できる。学歴とか肩書きは、社会の中で武器になるという事実はあるかもしれないが、それは順風の時の即効性だけを期待された化学肥料のようなもので、修羅場の力となるものではない。
 人間が生きていくうえで栄養分とは、身体を維持する食べ物だけではない。人間は認知能力を発達させた精神の生き物でもあるわけだから、自己と世界の関係を把握する認知能力の栄養分が必要なのだ。複雑なものは複雑なまま、原因不明でスッキリしなくても短気にならず、考えをどこか一点で固定してしまわず、ストレスの中での攻防に背を向けず、眼を逸らさず、ネガティブにならず、思考の根を伸ばして自分の力になるものを選択して吸収して、自分の土地を耕していくこと。そうすることで、何を植えても、どんな障害があろうとも、精神の果実は育つ。それが、人間にとっての生命力だろう。
 自分に合うとか合わないとか頭で分別して、合わないものに対する過剰な拒絶に対して、”アレルギー”という言葉がよく使われる。
 アレルギーは、免疫反応が、特定の抗原に対して過剰に起こることで、免疫反応は、外来の異物(抗原)を排除するために働く、生体にとって不可欠な生理機能だ。
 適度な免疫機能は、自己と他者がせめぎ合うなかで、共存の仕組みを作り出して、双方にとって健全な環境を作り出すことができる。しかし、その免疫反応が特定の異物に対して過剰に起こると、生体機能が一種のパニックを起こし、自らを殺してしまうこともある。社会や企業のなかで、同様のアレルギー反応を起こしてしまうケースが増えている。
 アレルギー研究の父 シャルル・ロベール・リシュは言っている。 
「安定性とは不動の状態ではない。様々な状況に瞬時に対応できる不安定さこそ、安定性には必要。」

 暮らしの安定、将来の安定、国家の安定・・・・、現代の日本人は、安定という言葉が大好きだ。安定という言葉で、就職も、将来の伴侶も、日本の未来も決めたがる。しかし、本当の安定とは一体何なのかを自分の頭で考える思考の根が、どれだけ伸びているか、問い直すところから始めるべきだろう。人が言っていることや、世間に流布している価値観を真に受けて、それを”安定”だと思い込むという思考の根が貧弱なままだと、少しの想定外の出来事に過剰なアレルギー反応を起こしてしまい、酷い状況になることが眼に見えている。
 


Kz_48_h1_3

風の旅人 復刊第4号 「死の力」 ホームページで発売中!