政治か個人かという問題ではなく(ハルさんへの返答)

 ハルさんがいろいろ分析している「現状の悪さ」は、誰だってわかっているのです。そこから「次の一歩」を言っていただかなくてはなりません。赤木さんは、次の一手を、「レトリック」であれ何であれ、「戦争」と言っている。それに対して、「その気持はわかりますよ、戦争というのはレトリックですね」と言ったところで何にもならない。私が具体的な行動(話し)と言っているのは、「戦争」に変わる何かを、どうやって提示できるのかということです。

 しかも、赤木さんの言う「戦争」は単に息苦しさを表すレトリックという程度のことではありません。

 彼は、労働組合や女性解放運動など市民運動で獲得した大多数の安定は、既得権化していて、その大多数がそこに胡座をかいているから、その下の層は救済されないと言っている。

 だから、その安定多数(実際にそうとは思えないけれど、赤木さんから見ればそう)の労働者層に対して、不安定な貧困層は恨みを募らせ、安定した労働者層は不安定な貧困層を卑下している、と書く。以下、赤木さんの文章です。

>>このように労働者層が断層化した状態で、不安定な貧困層に対して「富裕層を打ち破れ」という声を張り上げても、それは安定した労働者層の尖兵として戦うことを意味してしまいます。もしくは不安定な貧困層が戦う後ろで安定した労働者層が短剣をもって待ち構えているかもしれない。安定した労働者層を信用し、共に戦うことは、現状では自殺行為です。

 だから、私は不安定な貧困層のとるべき進路は、安定した労働者層の打破であるべきだと考えています。<<

 上の方の人たちは、しょせん少数だから現時点では関係ない。それよりも中間層の多数の安定労働者たちの状態が悪化することで、その下の自分たちと同じ平等が実現され、そこではじめて連帯が可能だと彼は言っているのです。年収500万〜700万とかに執着して残業代とか年金だとか言う政治的な運動は信用置けないということでしょう。そうしたロジックの上に「戦争」という言葉があります。もう一度みんな悲惨な状態になれば、平等になって、学歴のない人間が学歴のある人間の上に立つ可能性が開かれると言っているのです。

 ハルさんが言うように「皆が悟ってしまって、自分のできること、自分のできること、と考えて政治的な感覚を失って、気がついてみたら北朝鮮のように成っていたという夢を見ているのでしょう。そして、その危機感を表現したのだと思います。」という単純なことではないです。

 (北朝鮮のように?)最悪の状況になった方が、自分にもチャンスが巡ってくるからいいんだ、という類のことを彼は言っているのですから。

 彼は、労働闘争や女性解放運動などによって勝ち取った既得権を、もう一度吐き出しなさいよ、という趣旨のことを言ってます。

 ハルさんが言うように、もし70年代の若者の運動が失敗したのなら、ただ「失敗した」と口で言うだけでなく、その失敗を恥じて、「年金」などの既得権を放棄して、自分たち(赤木さんたち)にまわしてくれよ、と彼は言うでしょう。口先で同情したり、わかったような顔をするくらいなら、具体的にそうしてくれ、と言っているのです。

 「メディアで発言することも具体的な行動の一つです」という感じで政府を批判したり、時にはデモをする左翼系知識人に対して、そのように実効性のない議論と行動をダラダラやられてもどうにもなりませんよ、そういう活動がますます安定労働者とその下の断絶を促進し、自分たちをますます苦境に追いやるのだと言うでしょう。 

 彼が望む具体的な行動とは、極端なことを言えば、安定労働者が保有している既得権を放棄しろ、ということです。彼は、抽象的に「政府」を批判したりしているのではない。安定労働者とか左翼系知識人が、「反政府」とか「反体制」を隠れ蓑に、自らを太らせている構図を彼は憎んでいるのだと私は解釈しています。

 実際に、現在の「体制」とは、「政府」ではなく、圧倒的多数の安定労働者です。打倒すべき「体制」があるとすれば、「政府」ではなく、圧倒的多数の安定労働者です。そのなかに、「反政府」を叫びながら、「年金」など自らの保身に執着する70年代の若者が含まれる。

 私も、ドロップアウトして高卒の学歴でしたから、20代の頃、安定労働者がつくる「体制」に見下され、何度も門前払いをされました。だから、路線を外れた人間にとって打倒すべき「体制」が、何なのかよくわかります。

 その上で私がいろいろ書いてきたのは、その打倒の方法として、「戦争」ではないものを、どのように構築していくかが大事だと思うからです。

 「赤木さんは、本気で戦争と言っているのではなく、レトリックだろう」などというのは、「自殺」をほのめかす若者に対して、「本気ではなく苦しい気持の表現なんだろう」と、すました顔でシグナルを見落とす学校の先生や親と同じです。 

 本気かレトリックかの分別はどうでもよく、具体的に「自殺」とか「戦争」という言葉が発せられているのなら、それに変わる「ものの考え方」を必死で作り出さなければならない。

 私はそのことのためにいろいろ書いているのであって、ハルさんの言うような「70年代的闘争」の「政治か個人か」というレベルの問題ではないのですが。

 赤木さんは、反体制の「正しい側」の論客に対して確信犯的に、「戦争」を口にしている。

 「正しい側」のお嫌いな「戦争」を突き付けることで、既得権を放棄する覚悟があるかどうかを迫っているのです。そして若者を救済したいと言い、同情するのなら、年金を返上し、自分のポストを若者に明け渡す気持がありますか、と言っているのです。政府に悪態をついているのではなく、「正しい側の知識人」に対して、本気度と覚悟を試みている。さらに、赤木さんは、「政治」ではなく、「個人の平凡な幸福」を求めている。「個人」か「政治」かと、左翼系知識人のように、連帯を呼びかけているのではありません。

 だから、「政治」か「個人」かというハルさんの論旨は、そうした赤木さんの意図とか状況とは関係なく、70年代と同じ構造のなかで語っているだけではないでしょうか。

 私が、ハルさんのコメントに対して、ムキになって書くのは、「70年代に信望された正しさ」の延長を強く感じるからです。その「正しさ」が現在の体制になっているということにおいて、赤木さんの認識と私は同じだからです。

 ハルさんは「赤木さんの気持はわかる」というスタンスで書いているのですが、実際は、赤木さんが標的にする側にいることに気づいておられない。間違っているかもしれませんが、私はそう感じています。