振り子の揺れ幅。 政治と国民

 民主党が政権を取ることになって間違いなく変わることがある。今回の選挙結果は、前回の小泉劇場から180度様変わりしたように、自民党であれ、民主党であれ、もはや安泰はないということだ。  解決すべき問題に対して言葉を濁しながらダラダラと続けていても権力の座に居座っていられた過去とは違い、国民は短気になっている。だから、政治は、短期的な視点での国民の御機嫌取りを優先せざるを得なくなるだろう。
 しかし、国民全ての要求に応えられる筈がなく、何を尊重し、何を切り捨てるかの判断が常に付きまとう。とりわけ選挙は、数が勝負だから、人数の多い層の顔色をうかがうことになる。
 今回、民主党は、東京、埼玉県、愛知県、大阪、兵庫など大都市圏で圧勝した。大敗を期した自民党で健闘したのは、青森、高知、島根、鳥取 、鹿児島、熊本、福井、群馬、山口など、経済的に決して豊かとは言えない地方ばかりだ。税金を地方へと誘導してきた自民党の政治が、大都市圏のサラリーマン層に徹底的に嫌われたということではないか。
 高速道路の無料化、子供手当、高校無償化、暫定税率廃止などを中心とする民主党マニフェストは、日本社会の多数を占める中流意識を持った人々に訴えるものであり、車を所有して、子供たちを連れてレジャーを楽しみ、さらに子供たちにそれなりの教育を受けさせたいと願う人たち向けのものだ。
 進学競争で戦い、就職競争で戦い、企業に正社員として就職して、人並みに生活を楽しむ。それが幸福だと信じる大勢の人たちは、その暮らしを守ってくれることを政治に期待する。共産党は、メディアを通じて、単純化した社会的弱者の人たちを登場させ、彼らの質問に志位委員長が答えるという方法で自らの政策をアピールし、社民党の福島党首は、護憲を声高に訴えていた。しかし、どちらも、旧というイメージを植え付けられた自民党と、新というイメージを獲得した民主党の戦いの前に陰が薄かった。共産党社民党のアピールは、多数の人間が、現在、強く関心を持っていることでないということだろう。
 現在、多数に人間が、強く関心を持っているのは、「自分の、そこそこの生活」のことだ。「そこそこの生活の、そこそこのレベルアップ」を多くの人が望んでいる。だから、出版不況のなかで、その種のハウツー本だけは売れる。
 そうした多数を占める人に支持されていたのが、これまでは自民党で、だからこそ、長い間、政権を守ってきた。民主党が現れるまでの野党は、どれも極端で、流動化する現状に合わせて生きる多数ではなく、原理原則に頑固にこだわる(そうせざるを得ない)少数の人向けの政党だったのだ。
 そういう意味で、民主党自民党も大きな違いはない。今回の選挙で民主党が圧勝したのは、同じようにこの国の多数のメンタリティに寄り添うスタンスながら、長く続いてきた自民党既得権益の象徴に仕立て上げたことだろう。「苦労して、そこそこの生活を維持している」人間にとって、「楽をして、得をしている」ように見える人間は、憎らしい。
「楽をして、得をしている」のは、官僚でもごく一部の人間なのだけど、全体をそう見えてしまうように、民主党はうまく誘導した。
 太平洋戦争が始まる10年前の1930年頃、日本に民主化運動が吹き荒れ、露骨なまでの軍隊批判が公然と行われていた。1929年には、昨年の金融危機のような世界恐慌が起こり、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増大していた。
 それまでの日本軍は、日露戦争にも勝利し、日本国を発展させてきたという自負もあったから、忸怩たる思いがあっただろう。現在の官僚もまた、戦後社会を支えるために懸命に働いてきたという思いが強い筈だ、
 戦前の場合、軍に対する風当たりが強い状況のなか、1932年、護憲運動の旗頭で軍縮支持の犬養内閣総理大臣が、青年将校らによって殺害されるという5.15事件が起こった。民主化運動の時代、国民によって手厳しく批判された日本軍は、この事件の前後から暴走を初め、自らの保身と、国民を自らの支配下に置くための布石を次々と打っていった。そして、10年も経たないうちに、国民が軍を公然と批判していた時代が数年前に存在していたことが信じられないような、軍を中心に国民を統制する日本国ができてしまったのだ。

 太平洋戦争に至るまでの日本の軍国主義は、明治維新から続いた体制の持続的発展のように錯覚している人も多いが、実際は、1930年頃、世界的な平和運動のブームのなかに、日本の世論も巻き込まれていたのだ。
 振り子の揺れ幅が大きいと、その反動も大きい。数の流れが全てを決する社会においては、言論の方向性をコントロールさえすれば、いとも簡単に状況が変わってしまう。
 現在では、政治が言論を管理することは許されなくても、政治が、言論を上手に利用することはできる。言論側も、利用されているという意識はないのだけど、結果的に上手に利用されてしまう。政治も現代のメディアも、”数”が優先事項だから、多数に媚びるということにおいてスタンスが一致してしまうのだ。
 「多数は、正しい。」だから、政治も言論も、「多数を味方につける」ことを重視する。あとは、多数を味方につけるための知恵比べだ。
 こうした政治と言論の時代を生きていかなければならない以上、かつて僅か10年で「戦争反対」から「戦争支持」へと180度転換してしまったような多数の単純さを、現在の私たちが脱しきれているかどうかが重要だろう。
 当時と時代状況は違う。だから、同じことが、同じ道を辿って起こるとは思わない。しかし、違う道を通って、最後には同じような状況に到らないとは限らない。問題は、戦争が好きか嫌いかではなく、「自分のそこそこの生活が危機におかされる可能性」への反応が、過剰になるかどうかだからだ。その可能性をちらつかせながら、過剰反応する国民を誘導しながら少しずつ手順を踏んでいけば、それが既成事実となり、その既成事実がやがて人間を拘束する。
 現在、私たちにイメージできる最悪の事態は、戦争だが、戦争以外にも、最悪の事態がある可能性もある。それがわかっていれば、誰もその道を進まない。わからないからこそ恐い。太平洋戦争前は、その道が最悪の事態であるというイメージできなかったからこそ、その道に入り込んでしまった。誰しもイメージできることばかりを主張する単純さもまた、他の可能性に盲目になってしまうということで危険かもしれない。
 今は誰もがピンときていない”最悪の事態”って、財政破綻、それから逃れる為の●●●●ということだって、無きにしもあらず。ということも、忘れるわけにはいかない。