無くてはならないもの

 高校3年生の姪が、音楽の道に進みたいと努力を重ねている。
 高校3年生の時点での将来に対する考え方は、私が高校3年生の時よりもはるかにしっかりとしている。
 当時の私は、学校や親や社会に対する反発心しかなかった。反発心はあっても、具体的に何をどうすればいいかわからないので、自分に焦れて、悶々としていた。 
 高校3年生の時点で、心身共に打ち込み、情熱を持って取り組める対象があることは、素晴らしい。多くの人は、普通に進学して、普通に就職するのが一番無難だと考えているけれど、25歳くらいになって初めて自分の人生について深く悩み、「果たしてこれでいいのだろうか」と道に迷う人も多い。昔ならば悩みながらも「仕方がない」と諦め、自分を言い聞かせて頑張る人も多かったが、豊かになった現代では、それすらもできず、目標も何も定められず宙ぶらりんになって生きる意欲すら失ってしまうことも多い。だったら、失敗しようがどうなろうが、自分の信じる方向で歩んだ方がベターだ。
 彼女にとって、音楽は、好きか嫌いではなく、「家族のように、無くてはならないもの」らしい。
 成功するかどうか、有名になるかどうか、それで食べていけるかどうか等、まわりは社会的な分別によって心配するけれども、「自分にとって、無くてはならないもの」を掴むことは、人生の大半を成就していることのように私には思えてならない。
 自分にとっての何かが、"無くてはならないもの”と化するには、時間の蓄積も必要だ。単なる思いつきでは、そうはいかない。だから、なかなかそれを持てない人も多い。それゆえ、心身共に具体的に打ち込める一点が明確にあるかどうかは、運というより、その人のそれまでの時間の積み重ね方によるところも多いだろう。 「無くてはならないもの」に打ち込んでいるうちに自分の器が広がり、自分の器が広がらないかぎり実現できない大きな出会いが可能になり、その出会いが、さらに「無くてはならないもの」への思いを強めることにつながることは多いのだから。
 何ごとも出会いによって変容していくから、大事なのは質の高い出会いだと思う。処世を重視する世界では、たくさんの人と出会えばそれだけで何かしらのメリットがあるということになるが、けっきょく自分のなかに残る出会いは、数よりも濃度だ。
 好きだとか嫌いだとかいう分別を超えて、深く慰められ、勇気を与えられ、力づけられ、時には世界観を覆され、生き方を変えさせてしまうくらいの力のある出会いがある。本でも絵でも音楽でも、数をこなせばいいものではなく、質の高いものと多く触れることで、はじめて質を見極める力がつくのだろうし、それがあってはじめて自らの考えや行動に対する目も厳しくなるのだろう。
 いずれにしろ、中学や高校の3年というのは、後の3年とは次元の異なる濃度がある。この3年の出会いや体験が、その人をガラリと変え、後の人生を決めてしまうこともある。高校生の3年も大人の3年も暦のうえでは同じなのに、なぜそこまで違ってくるのか不思議でならない。
 大人になると、いろいろな面で賢明になるのだけど、賢明さが時間の濃度を低下させている可能性も大だ。不器用なままガムシャラに行動して、結果的に何も得られなくても、後から振りかえれば豊かな時間を過ごしていたことに気付くことは、誰しもよくあることだ。高校生の3年間のように残りの人生も生ききれば、一度きりの人生なのだから、それだけでも充分な筈なのに、大人はいったい何を気にしているのだろう。
 今の時代、”楽なこと”が幸福のバロメーターになっているけれど、本当は、”無くてはならないもの”との出会いや気付きの方が、幸福にとって、はるかに重要なのだろうと思う。