写真家の夢と現実  

 12月3日(土)18:30〜20:00 東京都写真美術館で、ニューヨークで活躍中の写真家HASHIさんのワークショップに合わせて「写真家の夢と現実」という趣旨で講義を受け持ちます。
 
大人2,000円 学生1,000円*風の旅人 43号進呈します。(43号をお持ちの方は、25号〜42号で、別のご希望のものを進呈します。事前に、
kazesaeki@gmail.comにご連絡ください。詳しい内容、および申し込み方法は、こちらをご覧ください。

http://www.hashi-ipj.com/juku/syabiws_pdf/#top

 これまで私は、非常に数多くの写真家と一緒に仕事をしてきた。
 そして、超一流と言われる人達の仕事ぶりや、考え方などにも触れてきた。

 現代社会には、PHOTOGRAPHERという肩書を持つ人が無数にいる。
 カメラ技術が発達して、シャッターさえ押せば誰でもそれなりの写真が撮れるようになった現在、プロとアマチュアの差は、どこにあるのか?
 写真に携わる者がプロとしてやっていくこととは、いったいどういうことなのか。
 
写真を撮っている人の中には、プロとして写真で食べていかなくても、趣味として割り切って、好きなことを表現すればいいという考えの人が大勢いる。誰でも
簡単に写真が撮れるようになった現在は、写真家のアイデンティティがよくわからなくなっているのだ。さらに、今後、電子書籍が広がり、アメリカで既にそう
なっているが、出版社など関係なく自分で自分の電子写真集を作って発表し、サイトで販売することすらできるようになる。
 誰でも簡単に写真を撮れ
るだけでなく、誰でも簡単に自分の写真を世界中に発信できるし、さらに、それを販売しようと思えば簡単にできるようになる。そうした状況のなか、これまで
のように出版社がイニシアチブを握って価値基軸を定め、その価値を浸透させるという図式が崩れ始めている。
 写真家のアイデンティティが崩れるだけでなく、写真の価値基軸すら、わからなくなってきているのだ。
 そのように、ますます混沌とする状況のなかで、写真が持つ力や可能性とはいったい何なのかという原点を見つめ直すことが必要なのかもしれない。
 現在の写真を取り巻く状況はどういうものか、これからどうなっていくのか、激変していく状況のなかで、見つめ直すべきポイントは何なのかを、改めて考えていかなくてはならないような気がする。

 私は、現在のように写真が氾濫し、時に人間の視界を曇らせるような使われ方をされる状況においてなお、写真の力や可能性を信じている。
 写真にかぎらず、現在は、実態のない無数の情報が氾濫している。 しかし、素晴らしい写真には、事物そのものと出会わせる力がある。
 
心象風景のような写真は、多くの人の共感を誘う。そして、それらは、「見失っていた自分との出会い」という言い方がされる時がある。しかし、この近代社会
の中には自分と同じような人間は無数にいて、その大勢の共感を得るものが人気者になるのだけれど、そういったものが、新しい事物と出会わせてくれるわけで
はない。
 近代社会においては、似たような考え方や感じ方をする人間が群れて、群れることで安心する。でもそれは群れから取り残されることに対す
る不安を常に感じ続けることと表裏一体だ。そんな不安定な感覚を現代的だと評価する詭弁家もいるが、私は、そういう堂々巡りから自分を抜け出させてくれる
決定的な事物との出会いが一つあればいい、とすら思う。
 ここ15年くらい、評論家や賞の審査員が、写真を評価する際に「なんでもないような写真
に見えるかもしれないが、そうではなく、実はとてもスゴイのだ」と、凡人にはわからないかもしれないが写真のことをわかっている自分にはその魅力はわかる
のだという論法で評し、権威化された彼らの言葉に盲目的に追随し、真似をする者も多い。
 しかし、写真とは、究極、事物との出会いを伝える媒体で
あって、その事物が見る者の認識にどう働きかけるか、その強度はどの程度のものか、記憶への刻まれ度はどの程度のものか、その記憶化された写真という事物
との出会いが人生にどう働きかけるかということ以外に、どれほど重要なことがあるのだろうかと思う。
 赤ちゃんの写真は誰が撮っても心を動かす。それは、赤ちゃんを撮る時に自分を投影しようとする人は、あまりいないからだ。赤ちゃんという”事物”との出会いだけがあるから新鮮なのであって、撮影者が自分を投影した赤ちゃんの写真なんか気持ち悪いだけ。
 写真の本質はそういうものだが、写真の表現者とは、誰が撮っても心を動かす赤ちゃんを撮る人ではなく、多くの人が見落としている事物との出会いの力を再認識させる人。
 「普通に見えるけどスゴイ」等という詭弁は必要なく、写真を見た人が、事物を通して新たな認識と出会えてこそ、すごい表現と言えるのだと思う。
 多くの人にとって都合のよいものは人気になるわけだが、現時点において都合のよいものと、未来につながる価値とは別のものだ。
 多くの人にとって都合がよく、どれだけもてはやされようとも、その写真が見る人にとって新たな事物となり、新たな認識を与え、視点を変えさせるほどのものでなければ、すぐに消費されて、やがて忘れ去られるだけだろう。
 写真で食べていくことは大変だが、もっと大変なのは、消費財のように都合よく消費されて消えてしまうのではなく、歴然とした事物として、後々まで残るような写真を撮ること。
 
後の時代に残るから素晴らしいなどと単純化するつもりはないが、後々まで人間の記憶のなかに刻まれ、人間の意識に内側から作用し続ける力を持つことは素晴
らしい。なぜならそれは、生命の基本要素であるDNAと同じ力を「表現」が持っていることでもあるから。そして、そのことによって、表現そのものに対する
信頼も取り戻すことができる。  

 自分の好きなことを表現するといった程度の自己満足ニーズや、金銭主義の為に、現在、表現(アート)の価値や信頼は大きく歪められている。
 素晴らしい表現は、そのように地に落ちた表現活動に対する信頼を取り戻す力も持っている・・・と思う。