自由の敵は自分(後半)


 セレンディピティという言葉がもてはやされ、計画通りにやるのではなく他者との出会いという偶然性を自分のより良き人生に生かしていくという発想があるが、まったくの偶然というものはなく、偶然の機会を捉えるための準備が自分の中にできていることが大事であり、その準備とは、自分の中に何かを蓄積しておくというより、むしろ自分の中の濁りを取り除いておくということだと思う。濁りがあると、自分の潜在意識に正直に応じること(つまり心の深いところが欲しているものに従うこと)は難しい。
 そして、自分の潜在意識に正直に応じるというのが、自由ということ。私は若い時からずっと、それだけを求めるところがあった。だから、大学を辞めてしまったり、何度もドロップアウトをすることになった。
 自分の自由を損なうのは、自分の自我だという意識が強かった。これをやっていないと自分が損をするとか、不利だとか、世の中をうまく渡っていけないとか、カッコわるいとか、そういう意識に囚われて人生を選択していると、自分が作った檻の中に閉じ込められてしまう。自由の一番の敵は自分自身なのだ。
 しかし、自我は意識するとますますそれに囚われてしまい、そこから自由になれない。自我を意識せずに自由になる回路は、尊敬だと思う。人でも物でも、尊いと感じ、敬意を抱くような存在に出会えば、すっと自我が抑制されて、自分が正直になり、行動に濁りがなくなる。
 尊いもの、敬えるものとの出会いこそが、自由の道だという気がする。
 私は、人生の恩師と言える人との出会いがあったから幸運だった。現在はそういう出会いが難しいとよく言われるが、その変わりに、書物(表現)等を通じて出会うことは可能だ。

 直接会えないからといって諦めるのではなく、その時々においては限られた回路(書物など)だけど、それを大切にすることで初めて、”セレンディピティ”という現象が起こる。何の努力もせずに幸運を待っていても、都合のいい偶然は訪れず、むしろ離れていくだろう。
 尊く、敬うべきものとの出会いの場を出現させるという意味で、表現も大切な役目がある。自由につながる努力の場を提供するわけであり、その逆に、人を不自由の方向に努力させる表現もあるので注意が必要だ。

 そして、その努力とは、身に纏わり付いたものを脱ぎ捨てていくこと。世阿弥の言葉では、「序」ではなく「破」。「序」が導入で、「破」が展開で、「急」が展開の加速という捉え方をする人がいるが、それは高度経済成長の発想にすぎない。

 「破」というのは、序で積み重ねて一度身に付いたものに囚われない境地に至ることを目指す段階だと思う。
 そして、「急」は、風林火山の、「風の如く疾し」であり、ただ行動が素早いというより、心身ともしっかり準備ができていて、そのうえで目先の利益とか自分の保身とか様々な分別に囚われていないので、適切に早く速く動けるということで、それは融通無碍の境地だ。
 歴史的段階として、自由というものが、この融通無碍のことを指す時機にきていると思う。

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