自由とリアルと、表現


パパ・タラフマラの白雪姫を見に行った。圧巻だった。面白かった。爽快だった。

http://pappa-tara.com/snow/index.html

白井さち子さんは相変わらずの存在感だった。小さな身体が何倍もの大きさに見えた。動きのダイナミックさと、細部の技の確かさがあいまって、身体から伝わってくる情報の総体が波動のようにうねって押し寄せてくるからだ。主役の白雪姫を演じたあらた真生さんは、持ち味である身体能力の爆発的な解放からくる凄みが、今回はやや影をひそめていたが、それでも随所に、並の人間には簡単には発揮できない身体能力や表現力を垣間見せながら、ヤンチャ姫を、巧みに演じていた。

橋本礼さんをはじめ共演者達も、中心の二人とは別の中心点を、舞台上の様々な場所に渦のように作り出し、渦と渦がぶつかったり、はじけたり、重なりあったりしながら、めくるめく展開を作り出して、見る者を、その渦の中に引き込んでいた。

今回の舞台は、とりわけスピード感があって、テンポが重視されていたからだろうか、濃密な時空間であったものの、いつもより早く終わったという感覚があった。なんというか、一陣の大きなつむじ風に巻き込まれたような。

スピード、テンポの良さ、ダイナミックさ、随所に見せるユーモア、表情の豊かさ、調和、ディテールの確かさ、色彩の美しさ、音の絶妙、個々のパフォーマーの力、そして全体のバランス。

まさに舞台芸術ならではの総合力。これだけ色々なものを盛りこみながら、まとまりすぎないように、また、破綻してしまわないように、ギリギリの均衡を実現することで可能になる緊迫感を目指す。見る側が、わかったつもりになって充足してもらっても困るし、かといって突き放すことが目的でもない。

演出家の小池博史さんは、上演が始まってからも、さらに磨きをかけ続ける。昨日は、全国各地で上演してきた後、東京での初日だったが、それまでと4秒ほど変えたそうだ。全体では約4,500秒だから、そのうちの4秒は一瞬とも言えるが、この4秒で感じ方はガラリと変わる。壮絶な闘いがそこにある。

パパ・タラフマラは、いったい何と闘っているのか。

それは、究極、“リアルと自由”の為、ということに尽きるだろう。

近頃、リアルの追求だと言って、舞台上で本気で殴り合ったり、セックスをしたりするというのがブームで、そういう安直なものを新しいと持ち上げる評論家がいたり、フェスティバルがあるという。ちょっとしたハプニングにすぎない新しさやリアリティなんか、次の瞬間、莫大な情報の中に吸収されて消えるだけなのに。

なぜそうなるのかは簡単な理由。脳を肥大化させた人間にとって、ただセックスしたり喧嘩したりすることは、生命全体のリアリティからは遠いからだ。そんなのは、生命のごく一部分の出来事にすぎない。リアリティの欠如というのは、自分の生命の丸ごと全体を感じられず、常にその一部としか関わっていない欠落感があるからこそ生じる感覚。

だから、人間にとってのリアリティは、自分が生きている世界全体の濃密な質感を全て感じ取れる方向へと、自分を舵取りしていかないと得られないものだろう。

もちろん、そんなことは一朝一夕にできやしない。しかし人間は誰しも、生きている間にそのリアリティを得たいという願望を潜在的に持っている。なのに人間社会には、そうした潜在的な願望を抑え込もうとするものがたくさんある。だから、人間は不自由を感じる。

多くの人は、現実はそういうものだと自分を慰め、諦め、時々、舞台上の喧嘩やセックスと同類のハプニング的刺激で無聊を慰め、ガス抜きをしながら生きる。そういうものだと諦めている状態に満足しているわけではないが、といって、そこから脱する方向に自分を持っていくこともカッタルイという人は、そういう自分の状態を評論家が肯定的に言ってくれると安心できる。世間でウケのいい評論家というのは、だいたいその種のことを上手に言う人だ。その慰めは、その場凌ぎにすぎず、自分がリアルから遠ざかり、不自由さから逃れられないという問題は、生きているかぎりずっと付きまとい続ける。

人間にとってのリアリティと自由を極限まで追求し続けること。そいつを簡単に諦めることは、自分を腐らせることになる。パパ・タラフマラのエンジンは、そこにある。

今日の表現を取巻く困難な環境のなかで、そこを目指すことの困難さは承知のうえで、やるのであれば、そこを目指す。そこを目指さないのであれば、やらない。そういう崇高な潔さを、小池さんの演出から感じる。私も、それは当然だと思う。中途半端な表現が溢れ、かつ、それを中途半端に持ち上げたりする寄生虫のような評論家がのさばっているから、リアルと自由に対する視界が曇らされているのだから。

リアルと自由を取り戻すためには、「生きる事の丸ごと全体」と関わって生きていくのだという意思を持つことから始める必要があるだろう。

その一歩が、自分では無意識のうちに社会から植え付けられている既成の物の見方をはがしとっていくことだ。

既成の物の見方を壊して自由を得るためには、無秩序にすればいいというわけではない。無秩序による不安と不快は、むしろ既成の物の見方を強化する。だから既成の物の見方を壊す為には、無秩序ではダメで、別の新たな物の見方を提示する力が必要になり、これが簡単ではない。

世の中に溢れている「既成の物の見方をなぞったもの」は、見る側のなかに、そのように見る準備ができているから、内容が稚拙なものでも簡単に共感されたりする。しかし、既成概念とは異なる物の見方は、見る側に準備ができていないから簡単には伝わらない。頭の硬い人にとって、それは意味不明の出来事にすぎない。既成概念という頑固な物の見方を粉砕する為には、大きな説得力が必要であり、その為にはクオリティの絶対的な高さが必須なのだ。

つまり、既成概念にあぐらをかいて、ダラダラともたれ合える安易な“共感”を広めるのではなく、自分が既成概念の奴隷状態であったことに気づき、ショックとともに、自分の殻が壊れる爽快感を抱かせる“感動”につながる表現を実現するためのクオリティ。そこを目指す切磋琢磨。商業的価値に浸食された現代社会の中で、「美」は消費を演出する材料になってしまったが、表現本来の美は、既成概念を無化する道の延長線上にしかないものだと思う。

既成概念にあぐらをかいて、その状態の頑なな肯定にしかつながらない自己陶酔的な体験を、“感動”と言う人もいる。それは、表現に感動しているのではなく、自分の置かれている現実を、束の間、忘れることができているという自分の状態に酔っているにすぎない。そういう状態を“解放”だと宣伝して、商業的に利用するだけの輩も多いので注意が必要だ。それは、麻薬と同じ。束の間の“解放”は、自由につながるものではなく、ひたすら自分をリアルから遠ざけていく束縛なのだ。

既成の物の見方から自由になって、あらためて自分の視点で、世界を、人生を、丸ごと全体で感じていくのは、簡単ではない。しかし、そのように、かぎりなくリアルに近づいていこうという、敢えて困難な道を自ら選びとろうとする衝動を実践するからこそ、人間は、自由なのだ。好き勝手なことをすることは、自由な選択ではなく、楽な選択にすぎない。敢えて自分に困難を課すことは、自由な人間しかできない。

世界や人生を丸ごと全体で感じ取るために、既成の物の見方を剥がし取ろうとしても、ずっと同じことをやっていると、自分自身が、自分の既成の物の見方に閉じ込められてしまい、不自由になり、それは、世界全体、生命全体のリアルから遠ざかることにつながる。

世の中の既成概念と闘いながら、自分の既成概念とも闘い、変化し続けることは、さらに大変なことだ。パパタラフマラは、それを30年もやっている。まさに不易流行。本質を変えずに、自らがやっていることも絶えず変えていくこと。

私は、8年前、風の旅人の創刊号で、以下のような宣言文を書いている。

 

「この世ならぬことどもを味わうためには、この世のことを知り尽くさねばならない。極大から極小へ、瞬間から久遠へ、虚も実もなく、私たちの住む世界のありとあらゆる枠組みをぬけて、人間のはるかなる彼岸までも生きなければならない。暗くぬらぬらと官能的で深い人間の業を熾烈に食らい、東西の思潮、文化・風俗を融通無碍に習い遊び、よろこび、かなしみをこまごまと織りなして、創っては壊し、また創っては壊し、また創っては壊し、有のなんたるかを知り、無のまことの意味を知りたい。」

 

この宣言どおり自分ができているかどうかはわからないが、この21日に出る第42号(彼岸と此岸? 生命の全体像)に至るまで、自分が目指し続けてきたことは変わらない。

個々の事象をあげつらうのではなく、世界や生命のうねりのようなものを誌面に現出させ、そこに、人間のリアルを垣間見たい。世界や生命のうねりは、同じものであり続ける筈がない。

人間が作り出すものは、おしなべてフィクションである。人間のリアルも自由も、フィクションの延長線上にしか出現しない。そのフィクションが、人間の地上の現実と、人間の力を超えたもののあいだに架かる橋になった時に、人間は、そのフィクションを通じて、世界全体、生きること全体のリアルを、たとえ僅かであっても垣間見ることができるだろう。それが、脳を肥大化させた人間にとって宿命のリアルであり、それを目指す運動こそが自由だと私は思う。そのリアルや自由は表現者の専売特許ではない。誰にとっても、生きることは自らをアウトプットすることであり、そのアウトプットにおいて見据えておくべきベクトルを、誠実な表現者は示しているにすぎない。また、編集者は、表現者ではなく、媒介者である。しかし、媒介者には媒介者の方法がある。人はみなそれぞれの方法で、リアルと自由を目指していく定めであり、今この瞬間、そのことを避けていても、人生のどこかで必ず、その問いの前で立ち止まることになる。

パパ・タラフマラと「風の旅人」、見た目は違うが根底でどこか通じているのは、リアルと自由を求める運動として、同じベクトル上にあるからだろう。

とはいえ、パパタラフマラの30年は、私にとって、気の遠くなるような歳月。

惰性で続けてきたのではなく、自分を壊し、再創造し続けながらの30年。凄い。目先のことばかり見て根本的な治療は行わず、対症療法ばかり繰り返す現代日本視野狭窄状況のなかで、ほんと、よくやっているなあと感嘆する。