「おのづから」と「みずから」と、「芸術闘争論」について





 日本人の多くは、今、自分が置かれている状況に対して、「自然にこうなった」という言い方をする。自分の意思でそうしようとしたわけでなく、自分を超えた大きな力が自分を導いてそうなったのだと。

 日本人は、そのように“おのづから”所与された状況に対して抵抗することは意味がなく、与えられた状況のなかで、“みずから”が、どう振る舞うかが大事だと考える傾向がある。その場合、“みずから”は、“おのづから”に対して、あくまでも受け身であるが、その潔い受け身性をポジティブなものにしていく時、日本人らしさとか、日本独特の文化につながっている側面がある。

 例えば、里山などは、自分を取巻く自然環境という“おのづから”に対して、謙虚に受け身ではあるものの、ただ受け身のままではなく、“おのづから”のなかに潜む法則を理解して、それを損なわないように、“みずから”が“手を入れる”という発想のなかで整えられている世界と言えるだろう。

 話は飛ぶが、この発想は、現代美術家村上隆が、『芸術闘争論』で繰り広げている発想に通じていると、私は感じている。

 現代美術というのは、ようするに、戦後欧米が主導してきた限定枠のものにすぎないが、世界のアートの潮流のなかでは欧米が勝ち組なのだから、彼らの作法に下手に逆らうのではなく、その中で繰り広げられているルールを学んで自分のものにし、そのうえで、彼らよりも先の一手を打てばいい。現代美術の蚊帳の外で、日本国内に閉じこもってあれこれ文句を言うだけでは欧米主導の現代美術に対する影響力を持ちえないし、主導権も奪取できない、というのが『芸術闘争論』の主題だと私は解釈するが、そうした割り切りは、非常に日本的なものだと私は思う。村上隆の作品は、アニメやオタクという題材だけでなく、プロデュース戦略においても、日本的なアプローチで欧米主導の現代アートのなかでポジションを得たのだ。そして、ポジションを得ることで始めて、「現代美術なんてものは、そんなものよ」という発言が意味を持つに至るわけだ。負け犬の遠吠えでは意味がないと。

 しかし、村上隆がそういうスタンスで成功し、それを多くの人が真似をして繰り返していくと、「現代アートなんてそんなものよ」という空気が、現代アートに関わる人達のあいだで所与的な環境となっていく。そのプロセスを「アート運動」として意味あるもののようにアート産業の者達が煽っている間は商業的価値を保てるかもしれないが、その運動は、「そんなものよ」、「仕方がない」という諦観と開き直りの反復にすぎず、新たな価値の創造にはつながらない。このアート運動における新たな価値は、「現代美術とは、ようするに、その程度のものよ」という突き放し方であり、その価値は、村上隆によって突き放された時点で終わっている。その後は何をやろうが、ただひたすら“その程度のもの”と村上隆が価値づけた空洞のなかに回収されていくだけなのだ。

 所与された環境(おのづから)に対して、積極的な受け身の戦略をとりながら、“おのづから”を自分の掌中のものとし、苦労を重ねながらも共存していく生き方は、里山の場合は、長期にわたって維持可能なものかもしれない。事実、日本人は、そのように生きてきた。

 しかし、この戦略を、人工的な環境にあてはめていくと、色々と矛盾が生じる。現代美術環境もまた、人工的な環境。

 自然界に、おのづから存在したものと、人間みずからが作り出したものの間には、歴然とした差がある。

 自然界における一つの場は、決して閉じて完結することなく、複雑精妙な仕方で他の場とつながっているが、人間みずからが作り出したものは、その時々の状況に応じて人間が、世界全体を切り分けて選びだしたものであり、そこから排除されたものが、たくさんある。

あらかじめ何ものかが排除されてしまっている人工的な環境(人間の概念を含む)を、“おのづから”のものとして素直に受け入れてしまい、その中で、精一杯の努力をするという生き方は、高度経済成長時代には、自分が所属する部分的な環境を大事にしながら、それ以外のことを省みない真面目な企業戦士として働き、戦争中は、お国のために身を捧げるという単純な運命従順方の生き方につながりやすく、「人生はそういうもの」「仕方がない」という言葉で自己保全をはかり、みずからの行為に対する責任意識は弱くなる。

 人工的な場は、どんな局面においても、その時の事情に応じて、あらかじめ何ものかが排除されているのだが、それを、“おのづから”与えられた環境として仕方なく受け入れることは、その受け入れるという“みずから”の行為を通じて、その“排除”に加担することになるということを、意識しておく必要があるだろう。

 所与的な運命に対して素直に応じながら、その環境における立ち振る舞い方の“コツ”を掴んでいくという日本人の伝統的な生き方戦略は、自然環境の中ならまだしも、人工的な環境においては、人工的環境ゆえの歪みを、無自覚に、急速に大きくしてしまう可能性があるのだ。

 自らが所属する環境世界という大きな浴槽の中に、“おのづから”という水圧があり、それに応じて、“みずから”の場所に空いている穴から水が飛び出していく。その穴の大きさとか形を状況に適応するように変える努力をして、おのづから与えられている環境世界と、みずからの生き方の重なり合う部分を、賢明に生きていくこと。日本人の人生観における美徳は、例えるならばそういうことになるのかもしれないが、実際には、一人ひとりの、そうしたふるまいの蓄積が、「仕方がない」、「そういうものだ」とされる人間の現実世界の水圧を強化してしまうことにつながっている。すなわち、人間の現実世界においては、「おのづから」→「みずから」が一方向ではなく、「みずから」→「おのづから」という事態も多く生じているのだ。

 場の雰囲気は、そこにいる人間の考え方や行動の仕方によって変わる。その変化が、そこにいる人間の考え方や行動をさらに変えていくことがよくある。つまり、“みずから”の集積が、“おのづから”を作っていく。

 なにゆえにそういうことが起こるのかというと、人間は、自分の置かれた状況を、“おのづから”と受け止めている際も、実は、膨大な状況情報のなかから、無意識のうちに情報の選別を行っているからだ。自分の都合とか状況に応じて、目の前を通り過ぎていく厖大な情報のなかから、スルーするものと、手元に引き寄せるものを分けている。そして、手元に引き寄せたものの総体を、“おのづから”と受け止めている。

 上に述べた現代美術の問題でいえば、欧米中心の構造や欧米の価値付けがスタンダードであるという認識は、実は、そう信じ込む人間の意識と、マスメディアが中心となって作り上げたイメージの産物なのだが、その限られた世界の中で競い合い成功を収めることが最善の道と信じ込んでいる人間にとっては、それが確定的で、所与的な現実になっている。村上隆の『芸術闘争論』は、そんな人達にとっての指針であるが、その指針は、その世界の幸運な成功者が結果から導きだした答えにすぎず、標準化できそうな装いで、実はそうではない。なぜなら、村上隆流は、村上隆が成功した時点で、もはやその世界ですら新しくないし、村上隆自身によって、欧米スタンダードは、その程度と突き放されているのだから。村上隆の真似をすれば、うまくいけば程度の差はあれど村上隆のような成功を手に入れることができるなんてことは、村上隆が登場する前にだけ可能なことなのだ。

 その新たな現実を認識せず、その不自由な狭い枠組みのなかに拘泥していくことは、美術家として不幸極まりない。

 当人は、自分の作品が、おのづからこうなっている世界の現実を写し取っている鏡になっていると錯覚しているかもしれないが、その世界は、もともと、偏狭な視野で狭く区切りとられたものにすぎず、丸ごと世界全体ではない。

  自然と人間の関係においては、まず“おのづから”があり、それに対応して“みずから”が作られていく。みずからが花の種を植えれば、おのづから花が育っていくという形で、局部的には“みずから”が“おのづから”に先行しているように見えることもあるが、花を植えようとする意思の前に、どこかで必ず、花を好きになる“おのづから”の出会いがあったわけで、遡っていけば、この世に生まれるという、“おのづから”の瞬間に行きつくことになる。

 しかし、人工的な状況に関しては、“おのづから”に見えるものも、それが人間によって作られたものであるかぎり、自分も含め、どこかで誰かの操作が入っているから、自然のように十全であるわけではない。その状況の不完全さに冷静に目を向けていると、その状況を少しでも変えたいという、みずからの意思が生じることがある。

それは、“みずから”に関わってくる“おのづから”を、少しでも矛盾のない十全なる状態へと近づけたいという意思であり、それはおそらく、人間のなかの“自然”から生じている。自然は、十全であろうとして、様々に働きかけていく運動があり、その運動が長い時間を通して、十全なる状態を作り上げている。

考えようによれば、自然の働きの十全さと人間の働きの不完全さの違いは、本質的なメカニズムは同じだが、ただ時間的な蓄積が、人間行為の場合、まだ不十分というだけかもしれない。 

いずれにしろ、不完全であることは承知で、みずからの選択で運命を変えていく余地が残されているからこそ人間は自由なのであり、芸術表現は、そうした自由精神の反映であった。古代における、たとえばラスコーの動物壁画など“呪術的”と形容される表現もまた、自らの置かれた状況を少しでも良い方向へ改善したいという人間の願いと、それが可能だと信じる自由精神がこめられていた筈だ。

 みずからの意思を持って行う選択が、正しいか間違っているかの分別は、あまり意味がないだろう。なぜなら、人間が介在している人工世界の中の物事に関しては、たとえそれが、おのづからそうなっているかのような、動かしようのない確かな現実に見えているものでさえ、常に不完全なのだから。それよりも、その不完全さに気づき、その不完全さを十全たるものに近づけようと、みずから足掻き続けることが人間の内なる自然の衝動であり、その大切な自然が損なわれていないかどうかを、選択の正誤よりも、気にかけるべきだろう。