第1065回 日本の古層(13) 白川郷の伝統的家屋ー自然に対する敬虔さが反映された形

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雨の白川郷へ。台風が近づいていたので観光客は少ないと思っていたけれど、予想に反して、観光バスが何台も乗り付け、外国人で溢れていた。しかし、ピンホールカメラで長時間露光すると、動いている人は写らないので、昔のような静けさが念写される。
 白川郷の伝統的住居は、しみじみと美しい。無駄がなく、奇をてらってもいない。
 周りの風景にしっとりと溶け込んで、その存在が風景を乱すことがない。人間の知恵というのは、本物の個性というのは、たぶんこういうものであるのだろう。

 茅葺の屋根の勾配は、かなり急であるが、どの家も同じ角度で、方向も同じであり、積雪や日照や風の対して、計算し尽くされたものであろうことは容易に察しがつく。またそこまで徹底する必要があるほど、自然環境が過酷であるということも想像できる。

 実際に、この辺りでは、冬から春にかけて、平均20メートル以上の風が川沿いに吹き抜け、風速が40mにも達することが頻繁にあるという。そのため、屋根の方向を風に逆らわないように分ける必要がある。しかも、冬の間、4メートルにも達する雪が降るので、屋根に雪が積もらないように、積もってもすぐに溶けるように、急な角度で、東西に面して屋根が作られている。そのように自然環境と切磋琢磨する厳しい必然性が、長い歳月のあいだに一貫した形を作り上げ、その磨き抜かれた合理性が、いつしか美しい風情を醸し出す姿となる。

 人間が他の動物と異なるところは、環境を自分の思い通りに操作しようとする傲慢な気持ちを持つところであるが、同時に、環境に揉まれれば揉まれるほど、暮らしに磨きをかけていって、適応の術を作り出すこともできる。極寒の極北地方、灼熱の砂漠地方、また高山や熱帯雨林など、きわめて過酷な環境において、人類がしたたかに生き抜いてきたのは、自然の前に謙虚な心構えで対応しようとする適応力によるものなのだ。

 人間は、他の動物のように厚い毛皮もないし、冬のあいだ、仮死状態になって眠ることもできない。常に、弱い身体を外部環境に晒したまま、おろおろと生き続けなければならない。しかし、人間は、もって生まれた遺伝情報だけに頼らず、脳を働かせて、暮らしの形態を変化させることができる。

 ただし、その脳機能は、際限なく巨大化し、周りとのバランスを無視し、自己目的のためだけに力を発揮しようとする弊害もある。そうした脳の性質に対して、人間は、注意深くあらねばならない。

 人間にとって最も大事なことは、自らの脳力の使い道を知ることなのだ。

 白川郷の伝統的住居の、手を合わせたような屋根の形は、人間が長い歳月をかけて環境との対話を重ね、少しずつ修正しながら定まったものであり、その環境に対する敬虔さが、心に響いてくる。
 それに比べて、人間の都合だけで作り上げている現代社会の様々な物は、人間の刹那的な欲望を刺激するが、すぐに飽きられてしまい、捨てられてしまう。自然の摂理に即していないために、自然環境を損なう原因となる。
 そんな虚しいものを、現代人は、美しいとか、カッコいいと思っている。
 コマーシャルも、ファッションアートも、人の消費意欲を刺激することばかりに忙しく、人間が自分の都合に合わせて世界をコントロールできるように錯覚させるが、今回の台風のように、自然の底力は、人間に己の小ささを思い知らさせる。
 自然に逆らわずに、自然に即して生きることが、もっとも理にかなった生き方であると、昔の日本人は理解していた。
 簡単には戻れないけれど、そういう生き方や暮らし方を古臭いと忌避するのではなく、地道なことではあるけれど、その立派さを次の時代に伝えていく努力の積み重ねが、いつの日か、人間の誤った生き方の転換につながる指標になるのかもしれない。

 

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