女子フィギュアスケートの浅田真央ちゃんの演技が圧巻で惹きこまれた。
小学校二年生の息子も随分熱心に見入っており、妻が、「真央ちゃん、可愛い?」と尋ねると、「うん」と答えたので、妻と二人で笑ってしまった。息子は、野球とかサッカーばかりに熱中して女の子に関心がないみたいだけど、ついに異性を意識するようになったのかと可笑しくて笑ったのだが、それに対して息子は、「ええっ、なにが可笑しいの?」と、さっぱりわからないという顔をする。
異性として云々というより、小学校二年生の息子にとっても、真央ちゃんの演技は、可愛く、キラキラと美しかったのかもしれない。
技術的なことは息子にはわからないだろうから、真央ちゃんの流れるような動きから放たれるオーラのようなものに自然と感化したのではないかと思う。
技術もさることながら、真央ちゃんの滑りやジャンプは、自分の全てが濁り無く発揮されていると感じられて、とても美しく見える。
その後、テレビの番組で、マンションの耐震偽装の特集があり、一級建築士の誇りも道義心も捨てた姉歯氏が、「不本意ながら、やってしまいました」とか「自分が弱かったのです」などと、“醜さ”を“弱さ”でカムフラージュする発言をする。
姉歯氏のような人は、「頭はいいのだけど、心が弱い」などと分析されることがあるが、私は同意できない。心が弱いという言い方は、どこか“人間味”というものを感じさせ、同情を誘うものがある。でもそれは、狡い欺瞞だ。
今日の社会では、バカに見られないような話し方とか行動の仕方とか、様々なマニュアルが売れており、頭が悪いと思われることに対してとても神経質になっている人が多いが、心の弱さはどこか善良なイメージがあるために、そう見られても構わないという傾向があるようだ。
頭が悪く見えないようにするためのマニュアル本の内容は、他者と摩擦を起こさないテクニックや、他者によく思われるための表層的なハウツーであり、帳尻合わせの処世にすぎない。それは、自分が属する現実を、たとえ不本意なものであってもやむを得ないものとして諦めたうえで、自分にとって一番楽で都合のよい人生を歩めばいいではないか、というスタンスの上に成り立っているように感じられる。そのスタンスのことを、今日の社会は「頭がいい」などと言うが、それは単に小賢しいだけで、小賢しさというのは、本当の意味の頭の良さとは正反対なのではないかと思う。
なぜなら、小賢しさというのは、自分の人生の可能性の幅を最初から狭めてしまうからだ。自分が潜在的に持っているかも知れない可能性にブレーキをかけてしまうような行為は、生物学的にも愚かなことだろう。もちろん、チャレンジによって生じるリスクを回避するという意味において、「頭がいい」などと言われるのだが、それは短期的な視点であって、長期的に見れば、チャレンジから逃避し続けることで自分の潜在的な力を損なっていくわけで、どこかでそのしわ寄せがくる。
姉歯氏にとって、建設会社の要求に対して、「ノー」と言うことがチャレンジだった。それが出来なかったのは、弱かったからではなく、小賢しかったからなのだ。
そして、「ノー」と言えないしわ寄せが、“偽装設計の仕事はすべて姉歯へ”という構図になって、そこから抜け出せなくなっていった。
「戦争反対」などという言葉も、それを言うことが簡単な時に言っても、自分が試されるわけではない、それを言うのが難しい局面になっても、「自分が弱かったのです」などと言い訳をすることなく、反対できる自分をつくりあげておくことが大事なのだろう。
大きなプレッシャーがあっても、自分を偽り無く発揮する人や、環境の変化を言い訳にせず、それを軽々と乗りこえてしまう人は、美しい。それができる人を、簡単に「能力があるから」とか「強いから」という言葉で片づけてしまってはいけない。
局面に左右されず、ありのままの自分を出し切れる状態まで自分を育て上げている人は、本当の意味で頭がいい。
浅田真央ちゃんの、パーフェクトな演技と強い心を支えているのは、全身の神経や筋肉と、その中枢を司る脳だ。
何かの本で読んだのだけど、人間の脳が、一生かけて本を読み続けて文字になったものを記憶し続けても、その記憶の全体量は、コンピュータの記憶容量より少ない。しかし、人間の運動神経などを伝わって情報を表現するインパルス数を数えると、脳の記憶容量は、天文学的な数字になって、コンピューターではとても追いつかない。
こういうことを理屈で言うより、コンピューターやロボットに、フィギュアスケートの演じ方を記憶させても、それを浅田真央ちゃんのように美しく再現するのは到底不可能だ。ジャンプ一つを完成することや、手の指先に神経を行き届かせるだけでも、膨大な情報の処理反応が必要になると思う。
すなわち、たくさんの本を読んで知識があることより、完成度の高い美しい演技をする方が、頭がいい。また、肉体だけでなく、プレッシャーを感じる心も、外界の状況や自分が置かれている立場などをいろいろと分析するから生じるのであって、それもまた頭が悪くない証拠だが、そのプレッシャーに負けてしまわず、それを乗りこえる方向に自分をコントロールすることは、分析だけでなく対応の情報処理反応を高速で行わなければならないので、比べ物にならないくらい頭がいい状態ではないかと思う。
現代社会において、脳と身体と心は別々に扱われがちだが、その三つは、神経による情報の受信と伝達と処理と反応と言えるわけで、スポーツにかぎらず、子供の育成においても、それらが正しく円滑に行われるようなトレーニングが大事なのだ。
自分をいかんなく発揮しながら社会のルール(倫理や道義)を守って生きていける人は、そうしたトレーニングがしっかりとできていて、その術を心得ているのだから、とても頭がいい。
倫理とか道義心などがわからなくなるのは、神経が鈍くなっているからで、それは、頭が悪いということなのだ。
人間の生み出す美しさというのは、最終的にはその人の頭の良さが現れる。
真央ちゃんの素直さは、頭の良さの現れであり、それが演技の自由さにつながっている。
シニカルに世の中を見ている人間が頭がいいと思われることがあるが、それは大きな錯覚だ。醒めて諦めているというのは、思考や感性の不自由さの現れであり、その不自由さをごまかす小賢しいメッキは、いつか必ず剥がれる。そうなった時に、メッキに頼っていた自分は、ますます不自由になる。本当に頭がいい人は、そんな不自由な生き方はしない。
そして、人生や社会を醒めた目で見たり諦めたりできない人は、短い時間で見ると、不器用な生き方をしているように感じられるが、長い目で見れば、そういう人の方が、賢く自由になるような気がする。
写真家でも、小賢しく器用に立ち回っている人は、結果的に不自由な仕事をしており、不器用なほど頑固な人が、軋轢のなかで自分を鍛え上げて、他の追随を許さない自由な仕事をしているように思う。