自由の敵は自分(前半)

 昨日のテレビで見た「プロフェッショナル」で紹介していた「かけつぎ職人」の松本孝夫さん、素晴らしかった。安価な化学繊維による大量生産の衣服を少し着ては使い捨てることが当たり前の風潮のなかで、たくさんの思いが詰まっていて捨てることのできない衣服の破れを丁寧に繕うプロフェッショナル。息子さんも、孫も、松本さんの背中を見て育ち、自分もその道を究めようと後を継いでいることも素晴らしい。
 物は命だという言葉、本当にそうだと思う。物を大切に扱うことで命が吹き込まれ、命が吹き込まれた物に囲まれて暮らしていると、心が豊かに健やかになる。松本さんの表情や、彼の子供たちや孫たちの表情を見てもそれが伝わる。
「素」の良さ。「生(き)の味」のすばらしさというのが伝わる人間の生き方というものがあるということが、とてもよくわかる。
 作る人も、それを使う人も、こんなものでいいだろうと(世間の標準からすればまあ不合格ということではないだろうと、自分の外部に基準を設定する態度)いう感覚で、表面的にはそれなりに真面目だけど心の中で物事を雑に扱っていると、物から命が消える。命のない物に囲まれて暮らしていると、少しずつ心が殺伐とし、不健康に、貧しくなる。
 右肩上がりの経済を目指すためには、物に命を吹き込まず、どんどん使い捨てて、買い替えのサイクルを早めた方がいいのだろうが、そのように経済数字が上がっても心が荒涼としてしまえば、豊かさを実感できる筈がない。
 最近、表現の自由などと、自由という言葉が氾濫しているが、自由の意味を、今こそ真剣に捉え直す必要があるのではないか。
 昨日の松本さんのように、細心の注意を払って物事に取り組み、それによって、繕った痕がまったく見えず、手を加えたことがわからなくなるという境地がある。技という人間的な行為は、反自然の行為のように思われているところがあるが、日本には”手入れ”という、人間が自然に手をくわえながら、自然の摂理を損なわないという文化が、今日まで絶えることなく続いてきている。少なくなっているけれど、まだ残っているという救いがある。
 こうした”細心の注意”というのは、好き勝手なことをやるのが自由だと思っている人にとっては、”不自由なこと”のように感じるかもしれない。適当に切り上げれば、もっと楽になって、時間的に余裕を持てる筈だと考え、その時間的余裕のことを豊かさや自由だと思っている。高度経済成長で目指してきたのは、そうした豊かさや自由だった。
 しかし実際には違っていた。
 自分が主人公になったつもりで、自由に物事を選択しているように錯覚して、実は、規格品を大量生産する企業に、いいようにあしらわれていた。稼いだお金は消費に消え、もっと豊かに、自由になろうと一生懸命に働いても、次第に心に余裕がなくなっていく。
 一体なぜなんだろう。
 実は、何でも自分が自由に選択できるかのような社会で、自分自身が自由の一番の敵であるということを、多くの人は、心の片隅でわかっていて、気付かないふりをしている。
 「現実がこうだから、仕方ない」、とか『世の中の仕組みがこうなっているから仕方ない」、『周りの人もそうしているから」という言葉を、どれだけ呟いているか。
 さらに、そうしないと世間体が悪いとか、カッコわるいとか、人の眼の呪縛によって、どれだけ自分の選択の幅を狭めているか。
 やってみなければわからないのに、やる前に決めつけてやらないこと。自分ではそうしない方がいいのではと思っているのに、周りの眼を気にしてそうしてしまうこと。自分で望んでやっていることではないのに、仕方なくやっていること。
 そういう不自由なことがなんと多いか。
 最初は仕方なく始めたことでも、やっているうちに、それが自分の天職だとわかり、それからは、世間の標準的な基準など眼にも入らず、自分自身の問題として細心の注意を払って物事に取り組んでいる人もいる。ほとんど遊ぶ時間もなく取り組んでいても、恥ずかしい仕事をしたくないという思いで仕事をしているのは、「誰に命令されるのでもなく、自らが自らに命令できる尊さ(宮本常一)」であり、それが自由というものだろう。

 話は変わるが、ファッションのことはよくわからなけれど、物として慈しみたくなるような服はある。常設店舗は京都にしかない「うさと」の服だ。ベルギーでオートクチュールの創作にも携わっていたさとううさぶろうさんという人が、デザインをしているのだが、なんと、タイ北部の草木染めや手織りの技術が伝統的に残っている村の人達の作った生地で、現地の人に縫製技術を教え、作っている。
 綿、麻、絹も現地で一から作り、そこから糸を紡ぎ、藍(化学式のインディゴ藍ではなく、信じられないことに藍甕の中で藍を建てるという、このご時世にものすごく手間暇のかかる建て藍だ)など草木染めを行い、手織りで作るという手間暇かけて一着の服を作る。
 タイとかベトナムに工場を作り、工場労働者として現地の人を安価に雇い、化学製品の規格品を大量生産し、大量販売するという海外進出ではない。
 現地の人達は、伝統的な仕事を継続して収入を獲得し、私たちは、丁寧に作られて命が吹き込まれた自然の服を私たちは着る事ができる。素晴らしい仕事で心から敬意を感じる。残念ながら日本は、そうした自然の摂理に基づいた服作りはすっかり消えてしまい、仮にあったとしてもアート作品みたいなもので高額にならざるを得ないけれど、人びとの意識が変わってくれば、伝統が蘇る可能性はあるだろう。
 うさとの服は、作り手の思いが伝わってくるので、愛着を感じるのと、空気をまとっているような軽さがある。そして薄手なのに温かい。不思議だなあと思う。全身が楽に呼吸できるという感じだ。天然繊維の草木染めというのは、色合いとか風合いだけでなく、植物本来のいのちの力が宿っているわけだから、そのいのちが、身体に語りかけてくるのではないか。縫製とかも驚くほどしっかりとしていて、裏返しにきてもわからないくらいだ。
 かけつぎ職人もそうだが、彼らのように丁寧な仕事をする人が、いなくなってしまうと、世界は、絶望的に味気なくなるだろう。そして、物は溢れているのに大切にしたいと思えるものがなく、動物園の檻の中で苦労無く食べ物を与えられている野生動物のように、不自由な感覚になるだろう。
 自分もまた、ジャンルは違うけれど、目先の利益を追うなんてもってのほかで、物の命をないがしろにしない丁寧な仕事をする心がけを大切にしたいと思う。
 2003年4月に風の旅人を創刊した時の第一号が、森羅万象と人間? 天空の下 というテーマだった。そこから、水、森、大地、石、都市などと展開してきた。そして、ここ数年の、彼岸と此岸、此岸の際という段階にいたり、次の第49号からはまた原点に戻って、「天地の眼」というテーマを設定した。自分が作るのではなく、天が作らせるのだ。
 一巡りして天に戻ってきたという感じで、その第一回目が、現在準備をしている「いのちの文(あや)」となる。
 かけつぎ職人も、うさとの服も、織物と関係ある仕事だけど、まさに世界は綾(文)なのだ。
 とくに意識しているわけではないけれど、自分のなかの自然の摂理にそっていれば自分が行なうことも必然的に整っていき、節目で転換が起こり、ぐるりと一巡する。その節目ごとに、後から振り返れば必然のシンクロも起こる。
 

*メルマガにご登録いただきますと、ブログ更新のお知らせをお送りします。

メルマガ登録→

風の旅人 復刊第4号 「死の力」 オンラインで発売中!

Kz_48_h1_3

森永純写真集「wave 〜All things change」オンラインで発売中
Image