第973回 競争から共創へ 利己から利他へ③ 授かった命との付き合い方



 私の家から自転車ですぐ行ける範囲内で、樹齢400年くらいから1000年くらいになる木が、何本もある。屋久島など深い森の中の原始林もすごいが、京都という街中で、中世の人々の暮らしのすぐそばで生きてきた樹木が、今もそこにあるというのがすごい。
 これらの樹木は、震災や戦火で焼けることなく、何百年も生命をつないできたという時間の積み重ねのリアリティを、観念ではなく実態として伝えてくれる。
 京都のほぼど真ん中、京都三条回商店街のすぐ近くに武信稲荷神社がある。坂本龍馬が自分の無事を伝えるために榎の木に印を残したということで坂本龍馬信者がよく訪れているが、ここにある榎の木は実に荘厳な佇まいをしている。樹齢は約850年。平安時代末期、平重盛安芸の宮島厳島神社から苗木を 移したと伝えられている。弁財天が宿るといわれる榎の神木は、木にふれた手で体をさすると病気が治るといわれている。この木の枝が折れて落ちて、チェンソーアートの世界チャンピオンの城所ケイジ氏が、その太い枝の中に龍の姿を見い出し、できるだけ手を入れずに龍を掘り出した。

 私は若い頃から世界各国を旅して約70カ国を訪れ、いろいろ彷徨ったけれど、今思うことは、苦しい人生を生きるための深い知恵は、日本に宿っているということ。西洋近代は、自由、平等、博愛(もともとは財産)を人間が健やかに生きていくための基本だとみなしたが、そんなものだけじゃ人間は生きていくうえでの辛さを乗り越えられないと、最近、つくづく思う。日本が育んできた、”もののあはれ”、”侘び寂び”、”粋”といった精神的態度は、苦しい境地に陥れば陥るほど、なんという奥深い哲学なんだと実感せずにいられない。
 日本文化は、基本的に、授かった命との付き合い方がベースになっている。
 まず第一に、天災や生老病死をはじめと自分にはどうしようもない命といものがあって、それは宿命であり、その宿命との付き合い方において、「もののあはれ」という境地を洗練させてきた。世の中というものは、そういうものであると弁えたうえで、自分が関わる物事の細部に至るまで大切にし、慈しみ、思いやること。
 第二に、自分の心がけ次第で、動かせたり変えられる可能性がある命というものもあって、それは命を運ぶという”運命”であり、その運命との付き合い方において、一期一会や、「侘び寂び」という境地を洗練させてきた。おごりを捨てて、外面よりも内面を大切に本質にそってふるまえば、きっと命は、よりよく展開し、調和するのだという信心。
 第三に、人生には実に様々なことがあるけれど、一切の分別を超えて、ただそれを全うすることが大事だと知る命というものがあって、それは自分の命を使う”使命”であり、使命との付き合い方において、「粋」という境地を洗練させてきた。世の中には様々な複雑な事情があるかもしれないけれど、”自分がやるっきゃない”、という開き直りと諦観と、覚悟のある孤高の境地。どうせ一度の人生、誰もが死を逃れられないのだから、せめて、安易に人や世間になびいてみっともないものを晒してしまうことだけは避けたいという、濁りのない意気地。それが粋の本質。
 けっきょく、生きることというのは、西欧の近代的自我のもとになっている自由とか平等とか財産という利己世界の中に閉じたものではない。命というのは、自分と世界の紐帯(へその緒)のようなものであり、世界から養分をいただきながら、自分の生き方、そして死に方を決めていく。
 世界で最も天災の多い土地で、宿命に耐え、運命に翻弄されたり、それを自らの意思と行動で転換させたりしながら、自らの使命を全うしようとした日本人の精神的態度は、今という難しい時代に、とても重要になってきているのではないかと思う。
 「もののあはれ」と、「侘び寂び」と、「粋」を、今の自分にあてはめて捉え直すだけでも、少しは、生きるに値する何かが見えてくるのではないかという気がする。

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