第1109回 「命は何よりも大事」と言う時のいのちとは何か?

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 今回のコロナウイルス騒動で、強く感じた違和感。
「命は何よりも大事」という時の”命”とは一体何を指しているのかということ。
 生命尊重という言葉を使っていると、現代社会においては、まず誰からも非難されることはなく、腹の中で何を考えていようが、良心のある人徳者としてふるまうことができる。
 しかし、生命尊重の”生命”が指すものが、単に肉体的なもの、すなわち物質的なことにすぎないとすれば、それこそ死んでしまえば何もならないということになり、それは大きな意味で”生命”の意義を貶めていることにならないのだろうか。
 人は必ず死ぬ宿命だけれど、30年より60年、60年より90年というカレンダー上の長さ、つまり物資的なスケールが生命の重みを計る基準だとすると、何か救いようのない気持ちになる。
 その基準は、どれだけ多くのお金を稼いだか、どれだけ立派な肩書きを得たか、どれだけ大きな家を建てたかなどの物質的なスケールの基準が、人間の幸福を決定するという考えと重なっている。
 しかし、いくら努力しても人間は万能ではない。自らの努力とは関係なく、容赦なく過酷なまでの宿業を背負うことがあり、そのことによって物質的なスケールにおいては乏しい人生になってしまうことだってある。その場合は、価値のない生命ということになってしまうのか。
 この不条理の問題について、人間ははるか古代から考え続けてきた。
 生命の定義を物質的な側面だけに限定してしまうと救われないし、やりきれない。そして冷静に自然界を観察していると、たとえばミツバチの働き蜂は、短い一生を、自分が産んだわけではない子供を育てることのみに捧げるし、倒木の幹からは新たな芽が育っており、生命が個体の物質的な限定を超えて他へと繋がっているケースを幾らでも確認できる。ならばきっと人間だって同じだろう。特定の宗教が説くように、たとえ肉体が滅んでも、あの世で魂が生き続けることができるというビジョンも救いになる場合があるが、この世とあの世の二つに分けなくても、一つの世界のなかで、自分の生が何かしらの形で他の生につながっている。そして、そのつながりは、生命を育てる霊的エネルギーのようなものであり、霊的エネルギーを介して、個は他の個とつながっていると考えることだってできる。
 「命は大事」と言う時、たとえ物資的には滅んでも霊的エネルギーは存在し続け、その霊的エネルギーを介して他の個がまた新たな生をつないでいくという意味においての”命”のことでないと、個体としては必ず滅びることが宿命づけられている人間は、救われない。
 また、死んだ後の救いとして、死んでも誰か他の人の心の中に生き続けるなどという、死んだ後も自己承認欲に縛られたことである必要もない。
 肉体はあくまでも器であり、自分の身体が生きているあいだ預かっていた霊的エネルギーを、身体が滅んだ後は山や海にお返しする。その霊的エネルギーの循環に終わりはない。
 祖先を敬うという場合も、自分と血縁のつながった特定の誰かを指すのではなく、霊的エネルギーを循環させ続けてきた万物全体のことを指している。
 自分の祖先が歴史上活躍した人だとか、そうでないとか、そういう人間に限定された世俗的な問題ではなく、祖先の口から入ってお尻から出ていった循環物全てに対する崇敬が、本当の意味で、祖先を敬うということだろう。
 生きているのではなく生かされているということの納得感は、そういう霊的エネルギーを預かって、お返しするだけであるという認識を自然に持てた時に得られる境地なのだろうと思う。
 人間の生命観は、生きている風土による影響が大きい。
 乾いた砂漠の中で育まれた世界観と、湿潤な森の中で育まれた世界観は異なる。
 コロナウイルスの騒動の中でも、しきりに”科学的な分析と判断と対応が必要”という言葉が聞かれた。現代社会において、科学は、もはや一種の権威装置であり、それに抵抗することは簡単ではない。
 しかし、現代人が圧倒的に信頼を置く科学というのは、西洋文明の科学のことであり、西洋文明というのは、古代ギリシャ文明とキリスト教の強力なタッグのもとに築かれている。
 第1級の科学者として尊敬されているアインシュタインニュートンも、西洋人が信じる唯一絶対神が作った宇宙の法則を、古代ギリシャを見本とする理性と論理で解きあかそうとする精神の運動に従ったまでのことだ。
 アインシュタインニュートンは、神はサイコロをふって決めるような曖昧さでこの宇宙を作ったのではないという強い信念を持っていたからこそ、その法則の解読のための努力が、唯一絶対神に対する敬虔さの証明にもなった。
 ”科学的”という言葉を使う時、そのことを忘れるわけにはいかない。もし、私が、ニュートンアインシュタインが信じた唯一絶対神を、何の違和感もなく共有できるのであれば、そこから生まれた近代科学に、自分の生命観を委ねることに躊躇はない。
 しかし、審判において天国に行けるか地獄に落ちるかという二者択一の発想は、乾いた砂漠から生まれたコスモロジーとつながっている。砂漠の上で死んだものは、乾いた骨となり風に吹かれて消えていく。砂漠における物質の滅びは、孤独極まりなく、その孤独に耐えるための信仰が必要であり、そこから、キリスト教ユダヤ教イスラム教などの旧約聖書を共有する唯一絶対神を仰ぐ宗教が発生した。

 

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 それに対して日本の生命は、山川草木など万物自然の中で育まれ、循環してきた。
 近代化された都会は、乾いた砂漠のようで、唯一絶対神を背景に持つ近代科学とは相性がいい。しかし、科学的対応だけではどうにもならない心の問題が残る。
 湿潤な日本の風土の中では唯一絶対神の宗教があまり根付いてこなかった。
 宗教も、歴史にさらされてきたものは、様々な経験によって矛盾に対する調整機能を発達させているが、新興のものはそこが弱く、矛盾に対する抵抗力が極めて弱い。そのため、時間をかけて整えていく負荷や苦しみに我慢できず、一気にケリをつけようとする性急な行動に駆られることが非常に多い。オウム真理教の例えを出すまでもないが、おぞましい宗教戦争を繰り返してきた欧米人は、賢明に、上手にごまかしながら唯一絶対神とお付き合いできる人が多いが、日本人はそうはいかない。

 

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 日本には日本の風土があり、その風土から生まれたコスモロジーがあり、そこで育まれた生命観がある。
 苦しい局面に立たされた時は、心の拠り所をそこに向けるしかない。
 万物は流転し、形あるものは必ず滅びる。そして、形あるものが存在しているのは、霊的エネルギーのようなものを一時的に預かっているからであり、それが終わったら、お返しするだけである。お借りした霊的エネルギーが帰っていくところは、それが帰っていきそうだと直感的に感じられるようなところであり、そのことが実証できるかどうかは大きな問題ではない。他の誰かからそう信じるように仕向けられるのではなく、自分が、そう感じられればそれが救いにつながるのだから。
 霊魂は存在するかどうかと科学的に問われれば言葉に詰まるが、霊的エネルギーのようなものはあるだろうし、それがなければなぜこうやって生きていられるのか説明ができない。
 心臓が動いて血液を循環させて栄養と酸素を云々という機械論的な説明に、自分の生命を置き換えることの方が違和感がある。そういう機械論的な説明ですんでしまうのなら、胸が圧迫されるような悲しみなんか生じるはずがない。

 

 

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