兵庫県北部の出石に行ってきた。
山の中での水晶拾いに誘われたからだが、個人的には、もう一つの関心事項があった。
それは、出石には出石神社という但馬を代表する古社があるからだ。この神社の祭神は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)という渡来系の神(新羅の皇子)で、神功皇后の母親の祖先にあたる。神功皇后の父方の祖先は私が探っている和邇氏だが、神功皇后には和邇氏と新羅の皇子の血が流れており、その彼女から第15代の応神天皇が生まれ、奈良から河内へとヤマトの拠点が移動する。
そうした歴史の復習はさておき、”出石”という名のとおり、この地は”石”(玉とか鉱石)と関係あるだろうと推測できるが、実際に出石を含む但馬地方には、金や銀など実に多種多彩な鉱山がある。さらにその周辺も、鉄の大江山、日本一のスズ鉱山として栄えた明延鉱山、佐渡金山(越後)、石見銀山(石見)とともに古代から中世にかけて日本の重要な財源であった生野銀山もある。
また明延鉱山のある養父には、今でも大きなヒスイの原石を見ることができる。
勾玉の材料であるヒスイは、糸魚川のものが最上級とされるが、もしかしたら古代は、但馬も、ヒスイの生産地の一つだったかもしれない。
出石神社の祭神の天日槍命は、一人の人物ではなく帰化人の集団で、製鉄とか須恵器の伝来と関係あるという説もある。
その天日槍命の伝承の中で、”玉”との関係が綴られる。
天日槍命が日本にやってきた理由は、逃げた妻を追ってきたからで、その妻は、女性の陰部に太陽が差し込んで生まれた赤い玉から生まれたとされている。
そして、天日槍命は八種の神宝を持ってきたが、その神宝は、『古事記』では、玉が二つと、振浪比礼(浪を起こす布)・切浪比礼(浪を鎮める布)・振風比礼(風を起こす布)・切風比礼(風を鎮める布)・奥津鏡(沖の航海を守る鏡)、辺津鏡(岸の航海を守る鏡)の八種とされている。
『古事記』や『日本書紀』に記されている神功皇后の三韓征伐の物語でも玉が重要で、神功皇后が海中から得た水晶の如意珠には、玉の中に剣の形が現れており、この宝珠を得てからの神功皇后は占術の力で遠征において連戦連勝。この物語は、能の「西宮」でも謳われている。その如意珠とされるものは、西宮の廣田神社に納められており、年に一回、秋に公開される。
勾玉は、三種の神器の一つでもあるが、現在、三種の神器のうち天皇が実物を所持しているのは勾玉だけであり、草薙剣は尾張の熱田神宮、八咫鏡は伊勢神宮にあるとされる。
そして、日本の古代史の中で、”玉”の位置づけは複雑に変遷していた。
三種の神器の鏡と劔に関しては、大陸伝来のものであり道教の影響が強いと考えられる。古代中国においても王の葬送儀礼などにおいて鏡と劔が用いられている。
それに対して、玉は、日本において縄文時代から特別なものとして扱われていた。
とくに縄文文化の最盛期とされる中期(BC3000年〜BC2000年頃)にはヒスイの素晴らしい大珠が作られていた。しかし、縄文後期から晩期にかけて、ヒスイの大珠は姿を消し、勾玉が登場する。その時から、ヒスイは、北陸の生産地から遠く青森や関東などに運ばれて玉製品が制作されるようになる。
そうした変化の背景には、稲作が始まって富の蓄積がはじまり、鉄器製品の普及とともに各地域のクニに支配者が生まれてくることがあったかもしれない。クニの支配者たちは、軍事的な支配だけでなく、宗教的な支配者でもあった。なぜなら、穀物の栽培や治水灌漑工事など多くの人々を動かすために、宗教的な儀式や呪術的行為によって、支配者の説得力を高める必要があったからだ。
勾玉は、一種の呪具として、宗教的な役割をもっていたことは間違いないと思われるが、そうした宗教的統治手法が、農作技術とともに全国に広がっていったのだろう。
しかし、その後、劔と鏡という大陸由来の神器は、支配者たちの儀礼や祭祀道具として残り続けていたにもかかわらず、勾玉は少しずつ減っていって、奈良時代に入ると、ほとんどなくなってしまう。
三種の神器うち、劔は軍事権で、鏡は祭祀権を表すともされるが、勾玉は何を意味するのか?
おそらく劔と鏡は首長や新しい宗教的権威である神官と関係が深く、勾玉は、古くからの呪術者と関係が深かった。小さなクニが統合されて国家が誕生すると、首長的役割と神官的役割を果たすものは軍と宗教を盾に大きな権力を持つようになるが、呪術者は、権力者から嫌われ、時には恐れられ、クニのはずれ、日常的世界と異界の世界の境界に追いやられ、村人たちの霊的相談役のような存在になった。
大陸伝来の陰陽師や祈祷師、僧侶などに役割を取って代わられた古来からの呪術者は、神がかりをして祖霊たちと交流することができる存在だったのだ。
勾玉は、魂を意味するものであり、それは祖霊=神の宿りだった。
勾玉を振ることは魂を振ることで、その共振共鳴の原理で、神を自らに憑依させて力を増大させる。卑弥呼のようにかつてはクニの指導者であった呪術者(シャーマン)は、そのように人々の集団をとりまとめた。
”魂振り”という言葉の意味は、活力を失った魂を再生すること。広義には、鎮魂(たましずめ)を含める。
そして、玉(魂)を振ったり、色彩をヒラヒラと振るわせたり、太鼓などの音を振動させて魂を活性化させたり沈静化するという発想は、音の振動によってメッセージを伝える言霊信仰となる。短歌や祝詞は、書かれている内容よりも発せられる音に重きが置かれた。歌うという行為は、時には呪いであり、治癒であったのだ。
近畿地方には出石周辺の山々もそうだが神体山と呼ばれる姿美しい低山が数多くある。そして、それらの山々の頂上付近には必ずと言っていいほど磐座がある。その理由は、神体山が長い歳月を経た風化によって、柔らかい部分が削られ、硬い部分だけが残った山だからだ。その頂上付近は、もっとも雨風に晒されている部分であり、非常に硬い岩だけが風化を免れ、磐座となって残っている。
古代、それらの神体山の頂上の磐座の周りは、歌垣の舞台だった。近隣の村の人々が山に登り、若い男女が恋の歌の掛け合いを行っていたことが風土記などにも記されている。
言霊の力がその人物の力であり、男も女も、その力を磨いていった。そして、めでたく男女が多く結ばれるとその年の豊作が期待された。磐座に男性器や女性器を連想させるものが多いのも、生殖と五穀豊穣に共通する生命原理が霊力を通して呼び起こされるからだろう。
こうした言霊と生殖と生産を結びつける古代文化の伝統が、後の『源氏物語』など日本固有の文学へと流れ込んでいく。”もののあはれ”とは、生命循環の摂理を魂の共鳴共振で受け止めることなのだ。
『源氏物語』は、現代の小説のように一人で室内にこもって目で読むものではなく、女房語りといって一人の女官が声に出して読み、周りの者が声の震えを身体で受け止めて言霊を共有し、共振共鳴する場を作り出す装置だったということを考慮しないと、物語の真相も理解できない。「源氏物語」研究が、作者が紫式部単独かどうかといった史実の調査や、一つの文献的資料として解釈の相違の議論に落ちこんでいくと、本質から遠ざかっていくような気がする。
現代的感覚では、自らの成長はみずからの努力によるものとされるが、そうした自助努力の意識は自己意識の肥大化を伴う。成功者がより傲慢になっていくのも、そのためだ。
それに対して、古代人は、力は外側からきて自分に憑くものと考えていた。外と自分のやりとりを魂と感じ、とりわけ祖霊との交感を重視した。祖霊といっても人間だけとは限らない。岩や樹木や川、山など自らを取り囲む森羅万象は、それぞれ世代交代を繰り返しながら今という時を刻んでおり、その恩恵を受けるうえで、それらの自然物の祖霊に対する感謝も大切なこととなる。富の蓄積が始まって特権階級ができる前は、そうした信仰が当たり前のものだった。長く平和が続いた縄文時代は、まさにそういう時代だった。
そして、玉は、そうした祖霊との交感のための呪具だったのだ。そう考えると、なぜ勾玉が胎児のような形、もしくは、偉大なる漢文学者・東洋学者の故白川静さんが示されたように、骨の屈折すなわち「死体」を著す形なのか納得できる。誕生と死は、過去と未来の接点。不思議なことに、胎児は、まもなく死にゆく皺々の翁のような顔で生まれてくる。
”玉石”の位置づけの変遷の歴史は、魂の捉え方や森羅万象と人間との関係の変遷の歴史でもある。
まずは、縄文後期に、ヒスイの素晴らしい大珠が消えて勾玉になった。
次の変遷は、小さなクニが統合されて一つの国家が形成されていく過程で、劔や鏡が大王や神官の側で祭祀道具として用いられ続けたのに対して、玉を用いる呪術者が、支配者によって政治の中心から遠ざけられていった。
そして、次なる大きな変遷は、天武天皇の時代となる。
壬申の乱(672年)に勝利したことによって専制君主として君臨し、律令制の導入に向けて制度改革を進めた天武天皇は、自らが陰陽師でもあり、日本で最初の天文台も作り、官僚組織としての陰陽寮を設置した。当時の最新科学である陰陽道を政治に積極的に取り入れたのだ。
新しい価値観と思想を摂取することに積極的だった天武天皇の時代に、日本や天皇のルーツを描くことで過去を尊重する心構えを広める『古事記』と『日本書紀』の編纂が指示される。
それは天皇の権威づけという意味もあるが、過去から現在までの系譜を整えることで今ある世界の正当性を示し、争い事を抑える目的もあっただろう。
三種の神器という概念が生まれたのは、この頃だ。
『古事記』の中では次のように記される。
スサノオが、亡き母イザナミのいる根の国に行く前に、姉のアマテラスに会おうと思って高天原へ昇ると、山川が響動し国土が震動したので、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。スサノオはアマテラスの疑いを解くために、ウケイ(誓約)をしようと提案し、まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以宗像三女神が生まれた。
次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から五柱の男神が生まれた。
その男神の一人、アメノホシオミミの息子が天孫降臨のニニギであり、その三代後が神武天皇だから、天皇家のルーツは勾玉ということになる
その後、ニニギが高天原から天孫降臨する時、アマテラスが三種の神器をもたせ、その後、天皇となるものは、その三種の神器を受け継いでいくこととなる。
しかし、第10代の崇神天皇の時に、三種の神器のうち、鏡と劔の祟りを恐れ、その相応しい落ち着き場所を求め、豊鍬入姫命、次の垂仁天皇の時に倭姫命が受け継いで各地を巡り、最終的に伊勢にいたり伊勢神宮に祀った。
さらに、第12代の景行天皇の息子であるヤマトタケルが東征に出発する時、伊勢神宮の斎女だった倭姫命から草薙の劔を与えられ、遠征からの帰路、尾張のミヤズヒメに預けたまま伊吹山に登り、神の怒りに触れて病となり命を落とし、そのまま草薙の劔は尾張の熱田神宮が保持し続けていることになっている。
天皇のルーツを、スサノオが噛み砕いた勾玉として描かれ、勾玉以外の劔や鏡は、ヤマトの宮中を出て別のところにあると古事記や日本書紀に記されていることは、とても暗示的だ。
玉を日本古代からの呪具としてみると、天皇の呪術者的な役割が、より明確になる。軍を象徴する劔や、謀略につながる知識を象徴する鏡をヤマトの宮中に置いておくことは、禍の種をそばに置いて秩序を不安定にすることであり、そのことを「祟りを恐れる」と表したとも考えられる。
それはともかく天武天皇の時代、勾玉の取り扱いは、不可思議な動きを見せる。
まず、天武天皇が亡くなったすぐ後に制定された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は不明な部分が多いのだが、その中で、勾玉は三種の神器に含まれていなかったが、後に、中臣氏の主張で新たに加えられたという説がある。
そして、古事記(712年)の中で、玉石は”勾玉”と記されているのに対して、その後に完成した日本書紀(720年)では、曲玉と記されている。卑字・凶字が吉字・好字として書き換えられているのだ。
天皇がルーツが勾玉なのだから、卑字・凶字はふさわしくないと考えられたのかもしれないし、勾玉を天皇の魂そのものとすると、天皇即位の儀礼の時に神器として受け継ぐのは、劔と鏡という大陸伝来の神具だけでいいということにもなるし、色々と試行錯誤があったかもしれない。
いずれにしろ、勾玉も三種の神器の一つとして落ち着き、その日本古来の呪具が、三種の神器のうちただ一つ、天皇家が保持し続けるものとなる。(実物は誰も見ていないが、劔と鏡は、それぞれ熱田神宮と伊勢神宮にあり、天皇家が保持しているのは「形代」ということになる。)
大王の時代(第10代崇神天皇の頃から)、劔と鏡という武力と知力を象徴する大陸由来の呪具が権力者の重要な祭祀道具であったが、第40代の天武天皇の後、日本古来からの呪具である”玉”(魂)の権威が、復権した。それは、どうやら祖霊の力の復権も意味している。
応神天皇をはじめ歴代の大王たちは激しい戦いに勝ち残ったものであったが、天武天皇は、そうした戦いに懲りていた可能性がある。(古代日本では、権力の頂点をオオキミ(大王)と呼ばれたが、遣隋使を始めた推古天皇の頃から「天皇」という称号が用いられるようになったと考えられる。)
672年に壬申の乱が起こる前、当時、大海人皇子だった天武天皇は、死を間際に迎えた兄の天智天皇に次の天皇になるように懇願されるが、そのことが禍の種になることを察し、次の天皇は天智天皇の子供の大友皇子がなるべきだと答え、自らは、妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や子供の草壁皇子ともに吉野に隠棲した。
しかし、時代の流れに抵抗することはできず、吉野で挙兵して東国に向かって軍を整え大友皇子の軍を打ち破った天武天皇は、天皇を軸とした調和の国を作ろうとしたのではないか。天皇という存在は、おのれ一人の力によって国の中心に君臨しているのではなく、祖霊たちに守られることで国の安定を保つ媒介者であり、そのための各種の儀礼を司る。祖霊とは、戦争で死んだ英霊という意味ではなく、上にも述べたように森羅万象を循環していく生命全体のこと。そうした思いで、体系的な律令法を作るとともに、陰陽道など森羅万象の摂理を科学的に整える方法を導入し、さらに祖霊の魂をより意識化するための歴史書の編纂を命じた。
その時から、日本は、独自の統治方法を作り出した。中国においては、歴代皇帝が全権力を手にしていたが、日本では国家統治の『権威』を天皇が担い、『権力』を握る最高責任者を天皇が任命するという形になった。天皇は、皇帝のように民衆を支配する存在ではなく、民衆の生活に責任を持たなければならない存在であるという位置付けである。
この統治方法は、後の摂関政治だけにとどまらず、武士の時代においても征夷大将軍を天皇が任命するという形、現在でも、衆議院議長が内閣総理大臣の指名の経過を天皇に直接報告し、 天皇が、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する(憲法6条1項)という形で引き継がれている。
(天武天皇の功績かどうか、奈良時代から平安時代の終わりまで、日本は、権謀術数は数多く発生し、そのたびに祟りの騒動が持ち上がるが、政治の中心部における大規模な軍事的対立はなくなる。)
そのように魂の力で国土を治める天皇のルーツが、スサノオが噛み砕いた玉である。玉は、天皇の魂であるとともに森羅万象に満ちる生命の振動と関わっている。
玉は、縄文時代から続く生命全体を共振共鳴させる呪具であり、祝詞や和歌などに、その力が受け継がれていった。文学とは何かを考える上でも、そのことを忘れてはならない。
そのことを一番理解して実践して形にした現代の文学者は、今年の2月に亡くなられた石牟礼道子さんだろう。20世紀文学で唯一つだけ後世に伝えるとしたら、石牟礼さんの「苦海浄土」がもっとも相応しい。石牟礼さんの晩年、インタビューをさせていただいた時、重度のパーキンソン病で身体を静止させることができず、玉振りのように激しく身体を震わせながら一つひとつ言葉を発していたことが忘れらない。(不思議なことに、話す時には身体が震えるが、筆を持って書く時は、身体の震えを収まると仰っていた)。
言葉の美しいことを玉にたとえて「言葉の玉」と言うが、言葉の美しさとは言霊の力を感じられる言葉ということであり、そうした霊力の備わった言葉だけが、時空を超えて、祖霊神のように、人々に共振共鳴される。
源氏物語が、古代の和歌と、中世の「能」をはじめとする様々な文学や絵画を結んだように。
17世紀末に生きた芭蕉が12世紀末に生きた西行の言霊に感化されたように、そして、西行が7世紀に生きた柿本人麿たち万葉歌人の言霊を昇華させたように。