第1028回 アメリカンフットボールと近代合理主義社会。

 アメリカンフットボールのことが大問題になっている。どのニュースもこの件を大きくとりあげ、それ自体が異様な状況となっている。アメリカンフットボールのルールを知っている日本人はほとんどいないが、今回の出来事は、ストーリーとして面白いのだろう。権力者の非情と、権力者に翻弄されて傷つけられた若者の構図が。私は、大学を中退するまで強豪チームでラグビーをやっていて、この種の戦闘的なスポーツのことを少しは理解できるので、おそらくだけれど、今回の問題の真相は、テレビニュースなどが誘導している方向と若干違うのではないかと思っている。
 勝利至上主義であること、全てがトップダウンで、上には一切意見を言えない体質であること。そのため、監督が神様のようになってしまっていたこと。これは、アメリカンフットボールという完全分業制の近代合理主義の賜物のような特殊なスポーツが陥りやすい落とし穴ではあった。
 今回、監督やコーチ、そして選手が自分の人生を大きく狂わせてしまうような事態に直面することになってしまったのは、こうした環境の問題が一番大きく、その環境の特殊性を、その中にいるために自覚できていなかったことが今回の結果を招いてしまった。当事者たちにとって痛恨の極みであると思う。
 今回の事件の当時者である監督もコーチも、スポーツマン出身であり、悪意をもって相手選手を怪我させようとしていたとは到底考えられない。いくら勝利至上主義といえど、子供の頃にテレビアニメで見たような、ライバルのスーパーヒーローを試合前に怪我をさせるという構図が成り立つようなスーパーヒーロー(その選手がいるかいないかで勝負の結果がまったく違う)は、現状のどのチームにも存在しないと思う。(大リーグで大活躍する大谷選手でさえ、怪我で戦列を離れても代わりの選手はいる。)
 おそらく、コーチが選手に放った「相手選手を潰せ(怪我をさせるくらい)」という言葉は、会見に臨んだ選手の真摯さから判断するに、真実だったと思う。
 同じく会見に臨んだコーチの発言から想像するに、このコーチは、うまく言葉を操れずに激しく単純な言葉で気持ちだけを前面に出して指導してきたのだろう。
 そして、このコーチが想定していたのは、相手のクォーターバックがボールを持って走っている時、またはボールを投げる時に、相手がぶっとんでしまって怪我をするくらいの猛烈なタックルをくらわせることだったのではないかと思う。
 「怪我をさせろ!」というのはそういう意味で、まさか、ボールを投げ終えた後、しばらく時間が経って、気持ちが緩んで後ろ向きになって何の警戒もしていない状況の選手に、背後から強烈なタックルをくらわせることまで想像していなかったのではないかと思う。
 「やれなかったではすまないぞ」と試合直前にコーチが選手にかけた言葉も、「手段を選ばずにやるんだぞ、いいな!」という極悪人の台詞のようなことではなかったと思う。
 ただ、退場した選手が一人で泣いている時、「優しすぎるのがダメだ」などと声をかけたのは、このコーチの想像力の乏しさで、起ってしまった事の大きさがわかっていなかったのだろう。局面が自分の想像を超えて一人歩きしてしまった時、自分の言動が理に添わなくなっていくのはよくあること。
 アメリカンフットボールというのは、一人一役で、試合中に自分に課せられた仕事は極めて限られている。アメリカが作り出したこのスポーツは、近代合理主義社会の仕組みそのものであり、大企業の不祥事につながる問題もここにある。
 自分の目の前の仕事の結果だけが問われる。そして失敗をすれば、自分の居場所を失う。代わりはいくらでもいる。そういうプレッシャーをかけられ、かつ、限られたターゲットだけを与えられたら、全体のこと、先のことなど考える余裕がなくなり、そのターゲットだけを目指して、猪突猛進するしかなくなる。
 テレビで何度も繰り返された今回の事件の現場映像で、遠く離れた相手のクォーターバックに向かって、試合の流れとは無関係に全力で走っていき、背後から猛烈なタックルをくらわせた選手の姿が、何か象徴的な意味をもって私たちの心に食い込んできたのだ。それが何なのかは意識できないけれど、何とも言えない恐ろしいもの。その恐ろしさは、組織の中で追い詰められ、生きていくために自分の居場所に執着し、権力者の評価に怯えて暮らす自分とも重なる。
 最近、今回の選手のような状況に陥った人の会見がとても多い。とくに大物政治家や組織内の権力者に忠実であったがために自分の行為を歪めてしまった人たちの釈明。
 彼らは組織内でとても優秀と評価されてきた人たちで、順調に出世もした。根っからの悪人ということではないと思う。しかし、結果的に、自分の行為を歪めてしまった。そして、それが明るみに出た後も、日大の20歳のアメフトの選手のように潔く語ることができていない。
 この両者の違いは、アメフトの選手が、自分のやってしまった行為を受け止めて、自分にはアメフトをやり続ける資格はない、そのつもりはないとケジメをつける心境に至ったのに対して、空疎な言葉を繰り返す政治家や官僚は、色々と複雑なものを抱え込みすぎて、そのケジメをつけられないのだ。悲しいかな、人生の成功と失敗の判断の基準が、まったくわからなくなってしまっている。
 日大の選手のように、自分の言葉で、誠実に語ることで、過ちに至った状況を多くの人々は理解してくれる。しかし、空疎な言葉で真実を歪め続けると、迷路から脱けだすことはできない。
 そして、もう一つ恐ろしいことは、メディア社会というのは、当事者同士が腹を割って話し合えば解決するかもしれない問題でも、全国民を巻き込んだ異様な騒ぎにしてしまい、結果として、当事者たちの人生を嘲笑うかのように狂わせてしまうこと。たった一度の過ちが、それまでの努力の全てを粉砕してしまい、未来も暗澹たるものにしてしまうこと。
 さらに、問題が当事者だけに止まらなくなる。大学一になってモチベーションも高かったはずの日大フェニックスの選手たちも巻き込まれてしまったし、この異様な騒ぎで、日大の学生たちも、世間に対して、どこか後ろめたい気持ちを持たざるを得なくなる。
 テレビの解説者や専門家は、わかりやすい構図で語ろうとするが、彼らもまた、アメリカンフットボールの選手のように組織内で非常に限られた役割だけを与えられ、目の前の結果(視聴率)だけがターゲットであり、結果を出せないと自分の居場所を失うというプレッシャーにさらされ、必死になっているだけのこと。そして、メディアは、関係者の家族を待ち伏せして大勢で取り囲んでインタビューするなど、一人ひとりは悪人ではないかもしれないけれど、結果的に神経が麻痺して思考停止状態に陥り、常識を欠いた行為で、人を傷つけることを平気で行っている。そのことを果たして自覚できているかどうか。
 もっと言うならば、子供達の健康を損なうことを利益に結びつけている企業活動を行っている会社や、手抜き検査を続けていた自動車会社や欠陥住宅販売の社員も同じ。
 私たち近代合理主義社会の住人は、自分に与えられた役割以外のことに、意識も思考も配慮もいかなくなり、目の前の結果だけを負わされるプレッシャーの中にいる。そして、時々、その行為が深刻な事態とつばがり大問題となるが、大問題となっている企業や個人だけを一斉に非難攻撃することばかりが繰り返されている。
 同じ環境の中に居続けていると、非常に限られた役割でしかないのにそれが世界の全てのように感じてしまい、それを失ったら世界が崩壊してしまうような恐怖で、絶望し、プレッシャーに押し潰されて自殺してしまう人もいる。 
 今回の日大の選手のように、その世界に見切りをつけるという心境に至った時、もしかしたら別の視点を得ることができるかもしれない。その時、自分はなんて狭い世界の中に閉じ込められていたのかと気づき、本当の意味で、やり直せるのかもしれない。
 しかし、過ちに気づいてやり直すことを許さない雰囲気を作り出す大衆メディア社会の暴力が無くならないかぎり、それは簡単ではない。